(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)

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 今年(2023年)3月下旬、中国北京でアステラス製薬社員がスパイ活動の容疑で中国当局に逮捕されるという事件が起きました。この事件を受け4月2日、日本の林芳正外相が急遽訪中し、北京で日中外相会談が開かれました。

 中国国内でのスパイ容疑による日本人逮捕は過去にも度々起きています。これまでは日中間の交流団体関係者が捕まることが多かったのですが、少なくとも明るみに出たケースにおいて大手企業の現役社員が逮捕された例は珍しいと言えるでしょう。日本側が解放に向けすぐ動いたのも、そうした背景があるからかもしれません。

200人以上の米国人を今も拘束か

 日本国内では「スパイ」と言っても、現実的な存在として感じることはほぼないでしょう。テレビドラマや映画の中だけの存在と思っている人もいるかもしれません。

 しかし中国では、外国人スパイの摘発が頻繁に報じられています。中国政府も普段から警戒感を隠そうとしまません。そのため中国人にとって、スパイはけっして「映画の中の職業」というわけではありません。

 では実際に、中国ではどれだけ外国のスパイが摘発されているのか。

 まず日本人の場合、直近10年間に明るみになったケースだけでも少なくとも10人以上がスパイとして逮捕されています。表沙汰となっていないケースも存在するとみられますので、実際にはこれ以上の人数が摘発されていることでしょう。

 その他の国に関しては、さすがに「国別スパイ統計(摘発)」などというものは公表されていませんが、過去の報道を見る限りでは米国、特にCIA関係者の摘発が最も多いようです。ニューズウィークの報道によると、現在200人以上の米国人がスパイ容疑で中国に拘束されていると推計されています。

 このほか近年外交問題にまで発展した摘発例として、2018年にカナダ人2人が逮捕された事件が挙げられます。この摘発の直前、カナダでは華為(ファーウェイ)の孟晩舟CFOが拘束される事件が起きており、2人のカナダ人の逮捕は中国政府によるカナダ政府への報復だとみられています。

 翌2019年には、中国生まれでオーストラリア国籍の作家が中国で逮捕される事件が起きています。また同年には、中国当局のスパイとして活動していたと自称する王立強氏が、オーストラリアに亡命を申請する事件も起きました。スパイ絡みで事件が相次いだことから、中国とオーストラリアの関係はこの時期大きく冷え込みました。

日本の諜報活動を強く警戒する理由

 以上のように、日本と比べ中国国内では比較的頻繁にスパイ関連の事件が発生し、かつ大きく報じられる傾向があります。

 中国がスパイの摘発を大きく報じるのは、摘発した人物を外交上の人質として用いるためと言っていいでしょう。同時にスパイに対する警戒を国民に意識させる狙いもあるかと思います。

 その中国が最も諜報活動を警戒している相手は、前述の通り米国であることに間違いありません。ただ中国国内の報道を見ていると、日本に対しても、スパイや諜報活動を強く警戒している節があるように感じられます。

 というのも、戦前における日本の諜報活動が今も中国では強く記憶されているからです。

 明治時代以降、日本は対中戦略の一環として、中国大陸の各地において様々な諜報活動を展開しました。日清戦争以前から軍人らに別の名前や職業を用意して、中国での人脈構築や、戦場となりうる地域の地形調査などを行っています。

 筆者が以前このコラムで紹介した柴五郎も、若年時、朝鮮人と身分を偽って、日清戦争に備えて中国東北地方を巡遊しています。

 こうした日本の諜報活動は満州事変1931年)前後に至ると、より過激化していきます。この時期は日本政府のみならず、満州地方にあった関東軍も独自に諜報活動を展開していました。大陸浪人などと呼ばれた民間人を特務機関に取り込むなどして、混乱期にあった中国で様々な謀略を公然と行うようになります。

 後に満州の影の支配者と呼ばれた甘粕正彦も、この時期に関東軍の指揮の下で諜報活動や各種工作に勤しんでいたとされます。その代表的な仕事として、清朝最後の皇帝であった溥儀を軟禁先の天津から満州へ脱出させたことが挙げられます。また溥儀の夫人であった婉容は、「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子が護送したとされています。

 ちなみに沢木耕太郎氏の最新ノンフィクション作品『天路の旅人』の主人公も、中国大陸の奥深くまで潜入した旧日本軍の「密偵」でした。

 以上のような過去に日本が行った様々な諜報活動、謀略の歴史は、抗日ドラマなどで取り上げられることもあり、今も一部の中国人にとって苦々しい記憶として残っています。そうした背景もあり、中国は現代の日本の諜報活動を強く警戒しているのではないかと推察されます。

中国のエンタメ作品はスパイだらけ

 ただ中国人は、外国からのスパイを警戒する一方、スパイもののエンタメ作品には並々ならぬ関心を持っていたりもします。むしろ「大好き」と言ってもいいかもしれません。

 たとえば中国制作のドラマや映画は、スパイが主人公の作品が数多くあります。エンタメ作品における主人公の職業について統計を取れば、中国ではスパイが確実に上位に入ってくるでしょう。

 実在した歴史上のスパイに対しても、関心は低くありません。

 先ほど挙げた川島芳子を例にとると、中国のネット上には彼女に関する無数の評論が存在し、その数は今も増え続けています。清朝の皇帝一族である愛新覚羅(あいしんかくら)家の出身ながら日本の手先となったと非難する評論もあれば、歴史に翻弄された女性だったと憐れむ論考もみられます。こうした現代の中国の評論を見る限り、川島芳子はどことなく「闇堕ちしたダークヒロイン」的な人気を得ているように思えます。

 筆者が見る限り、中国人はみんなで協力して何かを成し遂げるような話よりも、たった一人で大きな組織に立ち向かったり、どでかいことをやってのけたりするような話を好む傾向があります。この観点に立つと、確かにスパイは中国人の嗜好にマッチした職業であり、エンタメ作品で取り上げられることが多いのも自然の成り行きかもしれません。

 ただ「スパイ大好き」とはいえ、摘発するときは厳しく摘発するのが中国です。筆者も仕事柄なにかと監視を受けやすい立場でもあるので、当局に疑われないような行動を日々心掛けています。筆者はもちろんいかなる諜報活動にも与していませんが、当局に目を付けられないような努力は、中国においては実はきわめて重要なのです。

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