(平井 敏晴:韓国・漢陽女子大学助教授

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 私たちは常に社会とのギャップを感じ、ストレスを溜めながら生きている。個人という存在が社会システムとどうしても噛み合わないからだ。

 そうした社会システムを生み出したのは、ヨーロッパの啓蒙主義で幕を開けた近代である。欲望を無慈悲に抑圧する近代の社会秩序は、内包する矛盾によって様々な病理を生み出すことになった。

 個人の欲望を解放しようとする模索もあった。ロマン主義やシュールレアリスムなどの芸術運動、あるいはゲーテ、ニーチェカフカランボーボードレールといった思想家、作家たちはそういった脈絡の中で登場した。

 だがそれにもかかわらず、矛盾は不可避的に増幅し第2次世界大戦という破局を招いてしまった。

“東南アジアの臭気”が漂う小池博史の作品

 戦後の欧米では個人の崩壊、人間性の崩壊の克服が意図され、その影響は1960年代から80年代の日本にも及んだ。芸能の世界では寺山修司の主宰した劇団・天井桟敷、あるいは土方巽や大野一雄らによる暗黒舞踏がまさにそれだった。

 だが、そういった動きは私が大学を卒業した90年代から徐々に日本から薄れていった。

 そんな今の日本において、ぜひみなさんに知っていただきたい演出家を一人紹介したい。

 小池博史(こいけ・ひろし)である。

「いったい誰だ」という人もいるだろう。彼は日本に拠点を置きつつも、ほとんど海外で制作活動をしているので、知らない人も多いかと思う。

 だが、海外での評価はきわめて高い。数年前にはインドの長大な叙事詩『マハーバーラタ』の完全舞台化を達成した。これは30年前のピーターブルックに続く快挙である。ただしブルックイギリス出身らしく西洋型だったが、小池は東洋型に仕立てた。しかも、ブルックの作品は本人が演劇プロデューサーであるので「演劇」だったが、小池は超ジャンルの舞台でインドの観客をも驚嘆させた。モディ首相もこれを絶賛し、昨年(2022年)5月の来日に際して小池と懇談している。

 小池の作品には、インド世界の影響が色濃い東南アジアの臭いが漂う。彼は東南アジア地域の音楽を好み、現地の演奏家を招いて作品に取り入れる。その音楽に乗せられたアーティストの激しい動きは、土着的な臭気を連想させる。アンコールワットにいる時に感じる土の生臭さそのものだ。南国の神々が受肉して饗宴、乱舞する様を見せてくれるのだ。

なぜ拠点を日本から移さないのか

 小池とはもう25年ほどの付き合いになるだろうか。これまで「百年の孤独」などで脚本の英訳や公演後のアフタートークなどのお仕事をご一緒させていただいたことがある。

 2人で会うと、よくこんなことを話す。

 もはや日本は極めて静的(スタティック)な性格が支配する国になり果ててしまった。まるで忌み嫌うかのように、ダイナミズムを求めない。刷新や変化が必要なのに、失敗して責任を取るのが嫌で今のままで良いと考える。手軽な心地よさを追求してしまい、引き受けると面倒な、異質なものを拒絶してしまう。

 だが今の日本人が拒否感を抱くものこそが、建国以来、日本の文化・精神の礎となってきたのである。それを忘れた現代の日本社会は、もはやかつての輝きを失い、もう後がないところまで追い詰められている。

「でもね、平井さん、何とかなるとも思うんですよ。そうしなくちゃね」と笑う。この挑戦のために拠点を日本から移さないのだ。

抑圧が生み出す悲劇

 小池博史の活動の場は舞台である。だが彼の作品は演劇などといったいかなるジャンルにも当てはまらない。超ジャンルの舞台芸術である。音楽会であり、動く建築であり、美術である。多様なジャンルを巻き込んで作り上げる舞台の特徴は、挙動不審とも思える動きにより生の体から溢れるエネルギーの表現である。ゆえに官能と恐怖と戦慄に満ち溢れている。

 欲望どろどろだがピュアな人物をさらりと描き出し、それゆえに滑稽である。

 言うなれば、肉体に隠された精神を解放するための儀式なのだ。

 欲望が渦巻く渾沌のなかにこそ、人間の純粋な本性が現れ出る。だが近代社会は人々を清潔さの仮面で覆いつくそうとした。そうした抑圧ゆえに欲望は圧縮されすぎて暴力となり、挙句の果てに戦争を引き起こし、現場では殺戮とレイプが繰り広げられてきた。それはウクライナ戦争でも報告されているが、今思えば、小池の作品は何十年にもわたってそうしたことへの警句であり続けてきた。

「Cosmos-コスモス」のカオス的な空間

 2月上旬、ポーランド南部のヴロツワフに滞在した際、小池の稽古場にお邪魔する機会があった。現地のアーティストと合同で新作品に取り掛かっていて、通しで合わせる最初の日だから来ないかと誘われたのだ。

 作品の名は「Cosmos-コスモス」。脚本、舞台美術、音楽構成、振付、演出を小池自身が担当する。しかも世界中から注目を集めるグロトフスキー研究所始まって以来の大規模コラボレーションだ。

 コスモスとはギリシア語で秩序や宇宙を意味する。ずいぶん落ち着いた演目で小池さんらしくないと思っていたら、カルト的作風で知られるポーランド小説家ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの『コスモス』が原作だというので合点した。なるほど、混沌をさらけ出した生の秩序を描こうというのだ。

 ポーランドを代表するジャズ奏者、ヴァツワフ・ジンペルの生演奏による色気たっぷりの音楽に日本の小鼓が打たれ、鼓動が生まれる。それに乗せてパフォーマーは縦横無尽に駆け巡り、跳躍し、欲望丸出しの動きを次々に繰り出してゆく。

 小池はポーランドの産んだ鬼才の演出家、イェジー・グロトフスキーの影響も受けている。今回コラボをしているグロトフスキー研究所は、この演出家を記念している。2人とも異質なものを混ぜ合わせたカオス的な空間を作り上げるが、その点で、小池はポーランド的なのだと私は腑に落ちた。

 ポーランドフランスドイツオーストリアイタリアロシアから政治的影響をあまりに強く受けた歴史から、それらの文化がぐちゃぐちゃに入り混じった独自の文化が形成されてきた。ポーランドのアイデンティティは異種混合にあると私は思っている。

現地メディアが送るこの上ない賛辞

 公演は現地メディアの間で絶賛の嵐となった。かつてポーランドで何度も脚本化され上演されてきた演目だが、あるメディアは「(どのパフォーマーも)だれ一人として見劣りすることなく、素晴らしい」と評していた。特に演技の創造力と絶妙なアドリブにより「よく動く有機体」だったという。この上ない賛辞だ。

 残念なのは、スケジュールの都合で本番を見ることが叶わなかったことだ。それでも小池の「Cosmos-コスモス」は、今でも私の脳裏で妖艶な輝きを放ち続けている。

 小池の案内で玄関から薄暗い階段を上がると、正面に妖精のような女性が照明を浴び、宙に浮かぶように立っていた。私は思わず、ハッと息をのんだ。主人公が間借りする家の若い娘レナの衣装合わせをしていたのだ。この演目でレナの艶めかしさがどのように周囲を惑わし、何が壊れ、何が取り戻されるのか。

 小池博史の「Cosmos-コスモス」は、2024年3月に東京公演が予定されている。

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