マネジメントの父ともいわれる世界的経営学者でありコンサルタントピーター・F・ドラッカー。彼が提唱した「ドラッカー理論」は世界的に有名ですが、じつは日本では多くの企業に“誤って”捉えられていると言います。本連載は、ドラッカー研究に50年以上携わっている二瓶正之氏の著書『徹底的にかみくだいた「自己目標管理」ドラッカーが本来伝えたかった目標管理』(春陽堂書店)を一部抜粋してお届けします。

デモ行進での“覚醒”

ドラッカーがギムナジウムに入学して14歳になろうとするときに、デモ行進の名誉ある旗手を託されます。5年前に共和制が宣言されたことを毎年祝う恒例のデモ行進です。

少年ドラッカーは、皆の注目の的となる旗手を託されてうれしくて舞い上がったと言います。革命の歌を歌いながらのデモ行進が始まり、デモへの参加者がどんどん増え、やがて大群となりました。ドラッカーの胸は高鳴りました。

旗を持ちながらさっそうと先頭を歩くドラッカーの後ろを大勢の群れが続きます。ギムナジウム前から始まったデモ行進が市役所前広場に差しかかったとき、後ろからの圧力に押されたドラッカーは、昨夜の雨でできた水たまりの中を歩かされてしまいます。

その瞬間、ドラッカーは説明し難い違和感を覚えました。そして、後ろにいた女子医大生に旗を託してデモ行進から離脱し自宅に戻ったのです。

あまりに早い帰宅を心配した母親は「具合でも悪いの」と尋ねました。その母の声掛けに、ドラッカーは「最高の気分だよ。僕のいるところではないってことがわかったんだから」と答えました。

ドラッカーは、自分の立ち位置を傍観者と捉え、社会生態学者を名乗りました。

自分は傍観者だと気づき覚醒した瞬間がデモ行進の離脱でした。

ドラッカーはこのデモ行進での体験から、自身のあり方についての思索を深めていきます。そして、常に物事を俯瞰しながら観察する傍観者としての生き方を選択していきます。その思索はさらに深まり、やがて社会生態学者としての自覚にたどり着きます。

デモ行進の体験は、自己目標管理のアイデアを生み出す上でも重要だったといえます。つまり、自ら歩む進路を自ら選択できないという不自由さが、いかに耐え難いものか。これをドラッカーはデモ行進での違和感を通じて知ったのでした。

恐らくは、自己目標管理の本質となる自己管理の価値の重さを、ドラッカーはこの時点で心の痛みとともに気づいていたと思います。

ヴェルディの教訓──

高校卒業後、ドラッカーは大学に進学せず貿易会社に就職します。ドラッカーの両親や親戚のほとんどは大学を卒業していて学者や判事などの社会的地位に就いています。ドラッカーが大学に進学しなかったことは周囲の大人たちにとっては驚きでした。

ドラッカーはとにかく早く社会に出て自立したかったようです。しかし、高級官僚の父親は、ドラッカーの決断を歓迎しませんでした。それどころか、深い失望感とともにふさぎ込んでいました。

これには、ドラッカーもこたえたようで、父親のために働きながらの大学進学を決意してハンブルグ大学に入学します。しかし、授業には全く出席せず、学期末の試験だけ受けて進級するというありさまでした。

仕事は朝7時30分から夕方4時まで。仕事後は、職場近くにあった有名な市立図書館に通いつめ、毎日、ドイツ語、英語、フランス語の本を読みあさっていました。そして、週1回は、近くのオペラ座でのオペラ鑑賞を習慣としていたのです。

というのも、フランクフルトオペラ座は、売れ残った安い席のチケットを学生に無料で提供していたからです。

ドラッカーは、このオペラ座の上演作品で、『ファルスタッフ』というヴェルディの作品に遭遇します。この作品は信じ難い力強さで人生の喜びを歌い上げるものです。

ドラッカーは深い感動とともに圧倒されました。そして、この作品がヴェルディの最晩年(80歳)の作品であることを知って驚きます。当時のドラッカーの周囲に80歳まで生きた人は存在しませんでした。

さらに高齢で全く新しいスタイルのオペラの曲を書くというチャレンジに彼は脱帽しかありませんでした。

このときの深い感動体験によって、ドラッカーは目的・目標とビジョンをもって生涯挑戦し続ける生き方を学びます。オペラ座での感動体験が自己目標管理の考え方をより洗練させるベースになったことは間違いないでしょう。

(※写真はイメージです/PIXTA)