(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)

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 第2次大戦の終戦後、日本の軍人の中には戦勝国から戦犯として訴追され、日本への帰国を果たせなかった人も多くいました。これらの戦犯の中には、上官の命令で戦争犯罪に無理やり加担させられただけで、実際には冤罪だった者も少なくなかったと言われます。

 一方、実際に命令を下した士官の中には、戦犯訴追を免れるため、その責任を部下に擦(なす)り付けた者も多くいたされます。

 また実際に戦争を主導した軍の上層部に至っては、有罪判決を受けながらも頑なに責任逃れに終始し、犠牲となった人たちを顧みることなく天寿を全うした人物も見られます。

 そうした無責任な軍幹部らが多かった一方、自らの責任を深く見つめ、無辜(むこ)の部下たちを救うために奔走し続けた軍人も存在しました。

 日本本土より遠く離れたニューブリテン島のラバウルで、孤立しながらも終戦まで防衛し続けた今村均(いまむら・ひとし、1886~1968年)も、そうした責任を全うした人物の一人です。

一般高校から陸軍士官学校へ

 今村均は1886年、宮城県仙台区(現在の仙台市の中心部)で生まれました。父親は裁判官でした。新発田中学(現・新潟県新発田高等学校)を首席で卒業し旧制一高への進学を目指しますが、東京で受験勉強をしていた頃、一家の大黒柱である父親が急逝する不幸に見舞われます。

 この際、陸軍将校の娘であった母親から陸軍士官学校への進学を勧められました。進学先に悩んだ今村でしたが、ものの試しに天皇閲兵式を訪れてみたところ、初めて目にした明治天皇の姿を見て感激し、その足で陸軍士官学校への願書を出したそうです。

 なお第2次大戦期における他の多くの陸軍幹部たちと違い、今村は陸軍幼年学校を経ず、一般高校経由で陸軍士官学校に入学しています。こうしたキャリアは硫黄島の戦いで著名な栗林忠道(くりばやし・ただみち、1891~1945年)とも共通しており、そうした一般高校経由のキャリアだったからこそ両者が実戦において合理的かつ柔軟な軍略を採り得たとの指摘も見られます。

優れた軍政手腕を発揮

 陸軍士官学校を卒業して任官後、幹部候補生を育成する陸大(陸軍大学校)にも入学した今村は、ここでも秀才ぶりを発揮し首席で卒業を果たしています。

 その後、陸軍内の幹部として順調に昇進を重ねた今村は、太平洋戦争の勃発後、オランダ領東インドインドネシア)方面を攻略する蘭印作戦の司令官に任じられます。

 この蘭印作戦を見事成功に導き、インドネシアを占領した今村は、まずオランダによって拘留されていた、後に初代大統領となるスカルノら独立運動指導者を解放します。またオランダから没収した資金で学校を建てたり、オランダ軍捕虜にも手厚い待遇を用意するなど、現地に寛容な占領政策を敷きました。

 こうした今村の穏健な統治は現地住民から支持を得て、占領地を視察した政府高官からも「他の占領地に比べ、インドネシアの統治が格段に優れている」と報告されています。

 しかし陸軍中央では、こうした今村の軍政方針を過度にぬるいとみていました。また木綿をはじめ日本国内で不足する物資をインドネシアから日本へ送らせるといった要求もしてきました。

 今村はこうした要求に対し、インドネシアでは死者を木綿でくるむ文化があり、おいそれと収奪するわけにはいかないとして、敢然と突っぱね続けました。こうした今村の強い態度に加え現地の安定した統治ぶりを見た陸軍中央の幹部らは、考えを改め、後に今村の軍政方針を追認するに至っています。

孤立無援のラバウルを死守

 蘭印作戦の完了後、次に今村は第八方面軍司令官として、激戦地である南方のラバウルへと赴任します。

 着任直後より今村は「ラバウルは米軍によって早晩補給線が絶たれ孤立する」と読み、籠城戦に耐えられる態勢の構築に着手します。防空壕などの防御陣地の構築はもちろんのこと、食料を自給自足できるよう自ら畑を耕したほか、武器弾薬を生産する工場まで構築するほどの徹底ぶりでした。

 その後、今村の読み通りにラバウルは補給線が絶たれたものの、今村が用意しておいた備えもあり、補給がなくても持ちこたえ続けました。

 米軍もその防衛の堅固さからラバウル攻略をあきらめ、封鎖しながら迂回し、ほかの拠点を落としていくという方針を採りました。その結果、ラバウル1945年の終戦時まで持ちこたえ続けることに成功しました。

 結果論ではあるものの、今村の冷静な決断により、現地将兵の多くの命が救われたとみられています。

 なお玉音放送後、今村は兵士たちに「諸君らからなんとしても日本に帰還させる。だから安心してほしい」と訓示したとされています。当時ラバウルにいた水木しげるはこれを聞いて「なんとなく、生きて帰れるような気がした」と述べています。

マヌス島への移送を自ら志願

 戦後、BC級戦犯として訴追された今村は、インドネシアを奪還されたオランダより死刑が求刑されるも、証拠不十分で無罪となります。しかしオーストラリア軍から訴追された容疑では有罪が下され、禁固10年の刑に服すこととなりました。

 判決が下った今村は、他の戦犯らと同様に巣鴨プリズンに収容されます。一方、彼の元部下の多くは、当時、日本から遠く離れたパプアニューギニアのマヌス島に抑留され、戦犯裁判の審議も続けられていました。

 こうした元部下たちの状況を案じた今村は、設備や環境の整った巣鴨プリズンではなく、なんと自分もマヌス島の刑務所で服役することを申し出ます。この今村の申し出に触れたGHQマッカーサーは「真の武士道に初めて触れた」と述べたとされ、今村を希望通りマヌス島へ移送しました。

 マヌス島へ移送された今村は、率先して元部下の裁判の証言に立ち、彼らの弁護に務めたと言われます。

 なおこのマヌス島での収監中、今村は一度自殺を試みています。幸いにも周囲の発見が早く、迅速に救護された甲斐あって未遂に終わっています。自殺の動機について今村は、終戦後の処理のほか元部下を弁護することに目途がついたためなどと後に語っています。

 今村はマヌス島の監獄で約3年を過ごし、1953年にほかのすべての日本人が出獄するのを見届けた後、再び巣鴨プリズンへと移送されます。翌1954年に刑期満了で出所した後は、東京都内で1968年に逝去するまで回顧録を執筆しつつ、余生を静かに過ごしたとされます。

現代にあっても模範とすべき態度

 筆者は尊敬する人は誰かという質問に、今村均の名をいつも挙げています。その理由としては、優れた軍政手腕や、与えられた状況の中で最善の戦術を選び抜く冷静な判断力もさることながら、厳格過ぎるとも感じるほどの強い責任感に、この人のようでありたいと思うからです。

 いつの時代も、本来責任を負うべき立場でありながら、その責任を部下に擦り付け、自らの地位や権力を維持し続けようとする者が後を絶ちません。近年の日本においても、地位が高いほど何をしても許されるとばかりに、無遠慮な行為を繰り返す人が目につきます。

 そんな世の中にあって、あの困難な時代にありながら、愚直なまでに自らの責任を全うしようとする今村均の姿は、現代にあっても模範とすべき態度であると日々感じます。

(参考書籍)『責任 ラバウルの将軍今村均』(角田房子著、筑摩書房)

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