将棋棋士・藤井聡太六冠の活躍で空前の将棋ブームが起きている一方、囲碁人気の陰りが囁かれている。だが、囲碁も20年ほど前にブームとなった時代があった。火をつけたのは『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて1999年から2003年に連載されたマンガ『ヒカルの碁』だ。テレビアニメ化も果たし、累計2500万部(2013年時点)の大ヒット。日本のみならず、中国、韓国、タイ、シンガポールフランス、アメリカなど数多くの国でも翻訳出版された。その『ヒカルの碁』の監修者で囲碁普及にも力を注ぐ吉原由香里六段に、当時の熱狂ぶりから、囲碁人気が薄れてしまった要因まで率直に聞いてみた。
【聞き手・文:田中宏季(JBpress編集部)/構成:内藤由起子(囲碁観戦記者)】

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『ヒカルの碁』ブームで少年少女大会の参加者が3倍超に

――『ヒカルの碁』の監修者として、なぜあれほど人気が出たと思いますか。

吉原由香里さん(以下、敬称略) 内容は『少年ジャンプ』の王道である“成長ストーリー”で、マンガの主人公であるヒカルなどのキャラクターが魅力的だからだと思います。

 幼くてやんちゃな子ども時代、真摯に囲碁に取り組む周りの人たちと出会いながら、次第に成長していくヒカルの姿が、読んでいる子どもたちに響いたのでしょう。子どもたちにとっては自分と重ね合わせやすかったのかもしれません。もちろん、大人も読んで面白いストーリーでしたしね。

 私は2005年から東京大学で正式な授業科目として囲碁を教えているのですが、先日学生から「先生、『ヒカルの碁』の監修をやったのですか? 好きな登場人物は誰で、どのシーンが一番好きですか?」と質問されました。

 その学生はかなりマンガを読み込んでいて、マニアックなキャラクターやシーンを挙げたことに驚きましたし、何よりもいまだに若者たちに読まれていることがとても嬉しかったです。この前はTwitterで「ラーメン屋さんで『ヒカルの碁』を読んで、碁を始めました」と書いてある投稿も見ました。

 とにかく『ヒカルの碁』は出てくる登場人物は皆ユーモアがあって、キャラクターも素敵ですし、本当にストーリー展開が良く出来ています。悪者もほとんど出てこないので、当時PTAの方から「子どもに読んで欲しいマンガとしてとても人気です」と聞いたことがあります。

――そんな魅力あるマンガだったので、題材にもなっている囲碁の魅力も伝わったのでしょう。『ヒカルの碁』ブームによって、囲碁をやりたいという子どもたちが爆発的に増えたとか。

吉原 それはすごかったですね。毎年夏に小中学生が出場する「少年少女囲碁全国大会」があるのですが、その都道府県大会の参加人数がそれまで2000人前後だったのが、6500人超と3倍以上に増えました。

これまで囲碁界は「教え方の研究」をしてこなかった

――吉原さんもブームをきっかけに囲碁の普及に力を入れるようになったのですか。

吉原 普及活動はプロになった直後からやっていたのですが、ヒカルの碁がきっかけで、いきなり激務になりました(笑い)。しょっちゅうイベントに呼ばれたり、忙しすぎて当時の記憶がないほどです。

──吉原さんは慶應義塾大学を卒業してすぐプロになりましたが、その頃からすでに囲碁の普及活動をされていたのですか。

吉原 ありがたいことに、大学を出てプロになったばかりのときに、「NHK杯テレビ囲碁トーナメント」の司会をさせていただき、いろいろな場にお招きいただいたり、取材していただいたりするようになりました。ただ、手合いで1局も勝っていないうちからいろいろなお話をいただいて、正直戸惑いもありました。まだプロとしてやっていける自信がなかったので、いつも「どうしよう・・・」とびくびくしていました。

――『ヒカルの碁』で囲碁熱が高まったのは確かですが、その後のさらなる普及段階で「もう少しこうすればよかった」という反省点はありますか。

吉原 実はそれまで囲碁界は、わかりやすい教え方の研究をあまりしてこなかったという反省はあります。というのは、昔から囲碁は大学や会社などで先輩が碁を打っているのを見て覚えていく人が多く、覚え方や学び方、ましてや教え方の研究がほとんどされてこなかったのです。

──では、吉原さんは棋士になってから、どうやって教え方を学んだのですか。

吉原 『ヒカルの碁』をきっかけに、いろいろな場で教えさせていただくようになり、試行錯誤したり失敗したりしたおかけで、だいぶ上手に教えられるようになりました。今だったらもっとうまく教えられたのに・・・と残念な気持ちでいっぱいですし、一棋士としての責任も感じています。

――では、今は教え方の“メソッド”はだいぶ確立されてきたのでしょうか。

吉原 もちろん教え方は一つではありませんが、以前よりはかなり確立されました。また、今は手軽に囲碁を学ぶことができるツールもたくさん出ています。最近では私も開発に関わらせていただいた子ども向けの無料アプリ「囲碁であそぼ!」も、囲碁を覚えるのにとても良いツールだと自負しています。

 ある篤志家の囲碁ファンの方が、何か囲碁が広まるアイデアはないかということで、こちらから提案したひとつにアプリがありました。そこから私も含めた棋士たちがアプリの内容を練りに練って1年半、とてもこだわって開発・リリースしました。保護者向けのルール説明も入っているのですが、囲碁ができない大人でも3分ほどでルールが覚えられます。

 また、このアプリには日本地図を取り入れ、戦国武将が登場したりするので、学習の要素もあります。これを使ってたくさんの子どもたちにまた碁を始めてもらいたいです。最近は小学校でもタブレット教育が進んでいますので、そこにこのアプリが入っていたらいいなというのが私たちの夢です。

──ただ、将棋と比べて囲碁はルールを覚えても、相手と打てるようになるのに時間がかかるゲームです。囲碁がしっかり打てる子どもたちを育てていくというのも大変なことですよね。

吉原 これまでは囲碁を覚えた後に育てていく環境が整っていなかったのですが、今は東京では何カ所か育成教室がありますので、当時のヒカルの碁のようなブームがきても、子どもたちをきちんと育てられると思います。

 強い弱いにかかわらず、子どもたちは教室に行くと仲間ができます。そして、友達が頑張ると自分も頑張ろうと思うようになります。よきライバル、よき空間が強くなるうえでとても大事なことなのです。

――しかし、これだけ長い歴史のある囲碁なのに、教え方が確立していなかったとは驚きです。吉原さん自身も最初は見よう見まねで碁を覚えたのですか。

吉原 私の場合、碁ができない父がルールブックを読みながら教えてくれたのですが、何がなんだかよくわからなくて・・・(笑い)。そんなとき、たまたま「囲碁教室はじめます」のチラシがポストに入っていて、それから教室に通い始め、いつの間にか打てるようになりました。

最年少でタイトルを獲得した仲邑菫女流棋聖「強さの秘密」

──いま大活躍の仲邑菫女流棋聖も3歳から碁を始めて、9歳でプロ入り。そして13歳11カ月の最年少でタイトルを獲得しました。吉原さんから見て、仲邑さんの強さの秘密はどこにあると思いますか。

吉原 彼女自身の頑張ろうという気持ちや逃げない気持ちの強さだと思います。同じ環境を与えられても彼女と同じようにやれる子はほとんどいないのでは、と思うくらいメンタルが強いんです。

――碁の内容、棋風というよりメンタルが成長に大きく影響するということですか。

吉原 もちろん彼女の碁の才能は言うまでもないですし、勝負強い。ただ、毎日毎日、積み重ね続けることは大人でも難しいですよね。自分の経験を振り返ってみても、そんなに小さいうちから毎日何時間も、反発もせずにきちんとやり続けられる子は相当少ないと思います。

――女性棋士の二強といわれている藤沢里菜女流本因坊、上野愛咲美女流名人・女流立葵杯・若鯉杯(男女混合棋戦)も、子どものころからずっと碁漬けの日々だったと聞きます。

吉原 里菜さんは7歳で入った洪道場(洪清泉四段が2005年に開いた囲碁教室。独自の教育方法でたくさんのプロ棋士を輩出)で毎日10時間も勉強していたそうですが、楽しかったと振り返っています。それは切磋琢磨する仲間たちがいたからだと思います。

――やればやるほど碁は強くなるのですか。

吉原 8時間やっているのと13時間やっているのとでは、そこまで違わないと思いますが、いかに集中して取り組むかということです。いくら時間を長くかけてもだらだらやっていたら意味がないので、1日3時間でも真剣に取り組めば立派だと思います。

――囲碁をやると頭の回転が速くなると言いますが、実際にはどんな能力が身につくのでしょうか。

吉原 子どもなら集中力がつくのはもちろん、工夫する力も出てきます。たとえば石を取れそうにないと思ったら、どうしたら取れるか、また取る以外で有利になる方法はないか、などさまざまなシミュレーションをして答えを見いだそうとします。

 なにかできそうだと思って試行錯誤していくことはすごく大事なことで、あらゆる分野で必要とされる力だと思います。単に「これが間違いでこれが答えだよ」と教えるのではなく、自分で探す作業が大事なのです。碁ではそういった力が培われます。

 特に、碁を打っていると答えのない局面もたくさん出てきます。その局面で、自分なりに一番いいと思う手を選択していくのです。もちろん、それがうまくいったりいかなかったりもするのですが、やってみて結果が出て、どこがいけなかったのか自分で振り返り修正していく作業は、あらゆる場面、生きていくうえでとても大事な気がします。

 また、テレビなどでプロ同士の対局を見ていただくとわかりますが、勝っても相手を前にして喜ぶ人はいません。局後の様子は、一見するとどちらが勝ったかわからないほどです。負けの悔しさを十分知っているので、相手を思いやっているのです。これは日本のみならず、中国、韓国のプロ棋士も同様です。強くなるプロセスで心を育むことにもつながっているのです。

 中国や台湾では、子どもたちの囲碁がとても盛んですが、地頭を鍛えたり、心を育てる目的もあるようです。台湾では囲碁を学ぶことで成績が上がり、礼儀やメンタル面なども養われるということで、情操教育にも良いと口コミになり、囲碁を学ぶ人がとても増えたそうです。実際、毎週末のように千人規模の大きな大会が開催されています。

 日本でも『ヒカルの碁』ブームの時のように、またたくさんの子どもたちや保護者の方々に囲碁の魅力や効用を知っていただけたら嬉しいです。

後編「『ヒカルの碁』ブームを率いた吉原由香里六段が語る”囲碁界の未来”」に続く

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吉原由香里六段(撮影:宮崎訓幸)