1972年5月15日、27年間のアメリカによる統治が終わり沖縄県は本土への復帰を果たしましたが、まだ問題が残っていました。アメリカの名残で、クルマの進行方向が本土とは逆の右側通行だったことです。

本土に復帰したが道路は米国統治下のままだった

1972年5月15日第2次世界大戦後の1945年から27年間アメリカによる統治が行われていた沖縄県は、本土への復帰を果たしました。

アメリカ統治中にアメリカ方式になったもののほとんどは、返還と共に日本式となりましたが、そのなかで道路だけが右側通行としてしばらく残りました。このルールが左側通行に変更されたのは、返還から6年後、今から45年前の1978年7月30日でした。

沖縄県の道路は、アメリカ統治中に自動車用に整備されたものが多く、日本式に変更するのはかなりの大事業になることが確実でした。1国2制度のまま維持すればいいという発想にもなりそうですが、日本も加盟していた道路交通に関する国際条約であるジュネーブ条約では、1国に1制度の道路交通ルールと定められていました。そのため世界でも極めてまれである、通行方式の変更工事が行われることになりました。

変更時期は、1975年6月24日の閣議により1978年7月30日と定められ、この事業は730(ナナ・サン・マル)と呼ばれることになります。

当時沖縄には、国道336km、県道827km、市町村道3814km、計4974kmの公道があり、これを全て1978年7月30日までに左側通行として整備しなければなりませんでした。たとえば、ガードレールはクルマの進行方向に継ぎ手が重ね合わされているので、それを全て変更します。当然、標識や路面標示も全て左側通行仕様にしなければいけません。

具志堅用高さんが「人は右!クルマは左!」とジャブ

県が管理する警戒標識や案内標識だけでも2151本の変更が必要で、県全域で日夜作業が行われたそうです。沖縄県では早ければ5月に台風が来るときもあり、道路標示が乾ききらずに苦労したという話もありました。また、交差点の隅切り作業などでは、道の変更だけではなく、建物ごと撤去になるケースもあり、土地所有者と交渉することもしばしばだったようです。

工事が終わっても、標識や路面標示が左側用、右側用のふたつが存在してしまってはいけません。そのため変更日当日まで左側標識にカバーをかけ、変更後に反対側の標識を隠し、その後、撤去する方式を採用したそうです。路面標示に関しても同様で、変更当日まで特殊なカバーが貼られていました。

もちろん、道路を利用する人にも交通ルールが変わることの周知が必要です。そこで沖縄県は、専用ロゴを作成し、各メディアを動員しての「730キャンペーン」を展開しました。著名人としては、当時プロボクシング世界王者になったばかりの具志堅用高さんがCMに出演し、「人は右! クルマは左!」と左右のジャブを繰り出しながら交通ルールが変わること呼びかけました。

また当時、沖縄には約30万台の自家用車・商用車と1295台の路線バスが存在していました。左ハンドルの自家用車はヘッドライトの照射範囲を調整しなくてはなりませんでしたが、その台数は約25万台に及び、とても間に合いません。そのため、ライトごと交換するまでテープを貼って照射範囲を調整するなどの応急処置がとられたそうです。

バスに関しては乗降口が左側に設けられたバスが必要になるため、新車を購入するしか選択肢がなく、1978年7月30日から走り始めたこれらのバスは通称「730(ナナサンマル)バス」と呼ばれることとなりました。

沖縄返還直後の現金輸送の様子。右側通行なのが確認できる(画像:沖縄県公文書館)。