日本海軍航空母艦「冲鷹」が1939年の今日、貨客船「新田丸」として進水しました。つまり「冲鷹」は、竣工後に軍艦となった改造船です。とはいえ建造時から、戦時には空母化できるよう計画されていました。元民間船の運命を紹介します。

東京オリンピックを見据え…

1939(昭和14)年の5月20日は、旧日本海軍航空母艦「冲鷹」(ちゅうよう)が進水した日です。ただしこの時は空母ではなく、貨客船として進水しました。名称は「新田丸」。1940(昭和15)年に東京で予定されていたオリンピック大会に向け、欧州航路の輸送能力を増強しようと新造されたのでした。

ただし「新田丸」は建造費の3分の1を、政府からの助成で賄っていました。これは戦時、空母に改装して海軍に徴傭されることを前提にしていたためです。

1940年3月、「新田丸」は竣工。その後はサンフランシスコ航路に就航し、7度 航海したと記録があります。しかし建造中であった1938(昭和13)年7月に、日本政府は日中戦争などの情勢から「東京オリンピック」の開催権返上を決定していました。建造当初の目的は果たせなくなり、また日米関係の悪化に伴いサンフランシスコ航路も休止されると、「新田丸」は1941(昭和16)年9月12日付で海軍に徴傭。空母化改造を受け、1942(昭和17)年11月に「冲鷹」として竣工しました。

時は太平洋戦争の真っただ中。旧日本海軍は同年6月のミッドウェー海戦で空母を4隻失う大敗を喫しており、徐々に制海権・制空権をアメリカ側に握られていました。ピンチヒッター的な立場で空母戦力に加わった「冲鷹」でしたが、元貨客船とあり全長は180mあまり。最新鋭機は発艦できず、また速力や防御力でも正規空母には劣っていました。

「冲鷹」は主に、航空機の輸送任務に従事。西太平洋のトラック島やラバウルなどへ赴きました。

護衛空母としての任務とは

「冲鷹」は主要な作戦に、機動部隊の一員として参加したことはありません。1943(昭和18)年にもなると、日本近海にもアメリカ軍潜水艦が出没するようになり、航空機の輸送任務とはいえ、対潜警戒は必至の状況でした。

11月末、ラバウル空襲で大破した重巡洋艦「摩耶」の護衛とトラック島からの物資輸送を兼ね、「冲鷹」はほかの空母や駆逐艦などとともに日本本土を目指していました。

翌12月の3日夜、艦隊は八丈島沖へ差し掛かったところでアメリカ軍潜水艦に雷撃されます。3本の命中魚雷を受けた「冲鷹」は沈没。悪天候も重なり救助は難航し、物的被害だけでなく多くの人員が戦死したとされています。旧日本海軍海上交通路シーレーン)護衛を強化すべく、「冲鷹」含む同型艦3隻を海上護衛総隊に配属しようとした矢先のことでした。

日本海軍が編み出した護衛空母の運用は、爆雷を積んだ攻撃機を十数機搭載し、うち数機がローテーションで哨戒するというものでした。ただレーダーは装備していないので、対潜警戒は専ら目視のみ。さらに戦局の悪化で航空機やパイロットが不足すると、満足には運用できなかったようです。

同型艦であり、護衛空母の任務に就いた「大鷹」と「雲鷹」も、翌1944年中に潜水艦の攻撃によって撃沈されています。

旧日本海軍の航空母艦「冲鷹」。撮影はトラック島とされ、飛行甲板には双発機が確認できる(画像:Public domain、via Wikimedia Commons)。