内海氏は巨人の左腕エースとして一時代を築いた(C)Getty Images

 元巨人西武で活躍し、現在は西武で二軍投手コーチを務める内海哲也氏が、同じく元巨人・上原浩治氏のYouTubeチャンネル「上原浩治の雑談魂」に出演。自身のプロ野球人生における「天国と地獄」について語った。

 2003年ドラフト自由枠で巨人に入団した内海氏は、2004年入団1年目で一軍初先発を果たすと、2年目にはプロ初勝利、3年目には二桁勝利を挙げるなど順調なプロ野球人生のスタートを切った。

 2007年には伝統ある巨人軍開幕投手を務め、リーグ2位となる14勝をマークしたほか、最多奪三振のタイトルを獲得するなど、飛躍の年に。

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 翌年2008年以降は6シーズンで5度の二桁勝利をマークしたほか、2011年、2012年にはそれぞれ18勝・15勝を挙げ2年連続で最多勝利のタイトルを獲得するなど、巨人の左腕エースとして地位を築き、まさに「天国」とも言えるプロ野球人生を歩んだ。

 ただ、最多勝のタイトルを獲得した2011年の「18勝」ですら、苦難の道のりがあったという。18勝のうちわけは中継ぎ登板として挙げた「2勝」も含まれていたことを振り返り「あまり信用がなくて」と苦笑した内海氏。当時は現在も指揮を執る政権下だったが、先発ローテーションの2周目に外されたという。

本来は先発予定の日に中継ぎ登板して、勝ち星を得たという内海氏だが、当時を振り返って「しょうがない」とも語った。起用の意図に関して首脳陣に確認することはなく、受け入れたという。この点については同じチームの先輩でもあった上原氏もこの点に関しては「『何でですか?』とか聞いたら、二軍行け、とかいわれる。そういう世界だと思うよ」と首脳陣の考えは絶対だとした。

 一方、内海氏もこのときを振り返って「僕は駒だと思っているので」「不平不満が出てくるとプレーにも影響が出てくる」「感情は押し殺す」ことを徹底していたという。当時の原監督は左腕エースの内海に対して、期待の大きさゆえに時に厳しい叱咤の言葉をかけたことも知られているが、当時の苦しい心情もうかがえるコメントともなった。

 その後、2014年に利き腕である左前腕の肉離れを起こし、戦線離脱をすることに。

 内海氏いわく「(ボールを)リリースする時に力が全く入らなかった」といい、続く2015年シーズンはわずか5試合の登板にとどまるなど、怪我に悩まされた。

 その後、2016年には再び戦列に復帰し18試合に登板し9勝をマークしたものの、「これが最後の花火だった」と自身が語るように、以降は怪我に悩まされ、いわばプロ野球人生における「地獄」とも言える日々となった。

 そんな中、2018年のオフ、内海氏のプロ野球人生の岐路となる出来事が起こる。

 西武からFA宣言を行い、巨人へ移籍をした炭谷銀仁朗人的補償として西武への移籍が決まったのだ。

 幼少期からの巨人ファンであり、その憧れの球団でエースピッチャーとしても長年過ごしたフィールドからの移籍は、あまりにも突然のことだった。

 当時の心境を振り返り、内海氏は「ショックでした」と思わず本音を明かす場面も。

 それでも、「すぐに切り替えました。こんな気持ちで(西武へ)行っても申し訳ないし、沢山リストにメンバーがいる中で、当時35歳になる僕を選んでくれたんだって、プラスに考えるようにしましたね」

 と、新天地でのスタートを新たな気持ちで臨んだことも明かした。

 だが、ライオンズ移籍後も元々負っていた左前腕の怪我に悩まされる日々が続き、移籍後4年間での成績は11試合に登板し、わずか2勝にとどまった。

 なかなか一軍の舞台で活躍できずにいた内海氏は、こんなことを思いながら過ごしていたという。

「毎年秋口になると、『球団に(引退を)言った方が良いのか。向こうから言われる前に言いたいな』という葛藤がありました。それでも踏ん切りがつかず、球団の方から『来年もやろうな』と言っていただいたのが最初の3年間でした。球団に甘えてやらせてもらいましたね。でも、4年目は自分で決断しなければいけないなと思い、引退を決意しました」

 現役引退後の現在は、西武で2軍投手コーチを務め、選手らの育成に励んでいる内海氏。

 西武と巨人、双方からのコーチ要請があったものの、移籍後の4年間、温かく見守ってくれた球団への恩返しを込めて、西武でコーチを務めることを決意したと明かした。

 現役時代とはまた違ったコーチとしてのむずかしさに日々学びを得ているという内海氏。

 今後、第二の内海氏となりうるような選手の育成にも注目したい。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]

「感情は押し殺す」元巨人、内海哲也氏が明かす、プロ野球人生の「天国と地獄」