民放公式テレビ配信サービス・TVer初の完全オリジナル番組「最強の時間割〜若者に本気で伝えたい授業〜」が無料配信中だ。5月19日日(金)に配信開始となったLesson23では、登山家野口健が登場。25歳で七大陸最高峰登頂の世界最年少記録(当時)を樹立した彼の口から死と隣り合わせの壮絶な体験が語られている。

【写真】元乃木坂46・中田花奈が登山家・野口健の壮絶な経験談から”生きる力”を学ぶ

■ものすごいエネルギーで迫ってくる死の恐怖とは

「最強の時間割 ~若者に本気で伝えたい授業~」は、さまざまなジャンルのトップランナーが特別授業を実施し、ラランドサーヤとニシダ、そして学生ゲストが参加。トップランナーたちの授業がアーカイブされることで、TVerに「最強の時間割」が完成するというコンセプトの番組だ。

Lesson23では、世界的に有名な登山家野口健が登場し、元乃木坂46中田花奈らに向け授業を行った。1973年に日本人の父とエジプト人の母との間に生を受けた野口。学生時代は当時流行した漫画『ビー・バップ・ハイスクール』の影響で不良に憧れ、他の生徒と揉め事を起こして一カ月の謹慎処分を食らったこともあるという。その間、「人間は歩けば人生について考えるものだ」と野口に旅行を勧めたのが父だった。野口は父の言う通りに奈良や京都など、日本津々浦々をひとり旅することとなる。

そんな野口に大きな影響を与えたのが、ふらっと本屋で見つけた冒険家・植村直巳氏の著書だ。日本人で初めてエベレスト登頂を達成し、43歳の時に世界初の五大陸最高峰を登頂した後、北米マッキンリーで消息を絶った植村氏が綴る冒険記に野口は胸がときめいたそう。そこから社会人の山岳会に入り、16歳から登山をスタート。そして、10代のうちにモンブランやキリマンジャロ、デナリなど、世界の最高峰を次々と達成していった。そのどれもがほぼぶっつけ本番だったという当時について、野口は「(山が)怖いことを知らないから怖くなかった」と振り返る。

しかし、若さと勢いと運が全く通用しなかったのが標高8,848mを誇るエベレスト。登頂にはなんと、約一カ月半ほどかかるという。その理由は山の薄い空気に体を慣らすべく、キャンプキャンプの間を何度も登り降りしながら頂上を目指していくため。それでも標高6,000mを超えてくると吐き気を催し、食事を受け付けなくなることから、野口の場合は一カ月半で体重が14キロも落ちたそうだ。「山では諦めた人から亡くなっていく」と語る野口。実際に1922年以降、エベレストでは300人近くが命を落としている。凍結で遺体の重さが2倍になり、回収が困難になるため、遺体はそのまま山に残される。野口もこれまで何度も岸壁に引っかかっていたり、顔からつららが垂れている遭難者遺体を目撃してきた。

常に死と隣り合わせの高所登山では、最初にメンタルから崩壊していくという。野口には、情緒不安定になり、自らロープを解いて頭から氷壁に飛び込んだ仲間の姿も記憶に残っている。「死の恐怖というのはすごいエネルギーを持っているから、向かい合っても勝てない」と野口は語った。

■人生の分岐点で大事にしている己の直感

そんな野口も1回目のエベレストに挑戦中、死にかけた経験がある。低酸素環境に体を慣らすためのアップダウンにうんざりし、早く頂上にたどり着きたい一心で一気に標高を上げたところ、酸欠に陥って意識を失ったという。異変に気付いたシェルパ(現地のガイド)に助けられ、最悪は免れることができたものの、ひどい高山病で二日酔いの症状に苦しめられる。血中酸素濃度はショック死寸前の43%まで下がっていた。

10時間かけて下山する途中、1時間ごとに自分の命を諦めかけたという野口。「もう俺はここまでだ」と思った時、仲間から思い切りぶっ叩かれたそうだ。言葉で勇気付けられるよりも、その張り手で目が覚めたという。

エベレストから下山した野口は自分に何が足りなかったかを考え、2度目の挑戦に向かう。アップダウンも念入りに行い、1度目は叶わなかった最終キャンプに到着。スペイン人の相方とシェルパと共についに山頂へ出発した。しかし、残り300mというところで野口たちは猛吹雪に襲われる。野口は岩陰に身を隠しながらこのまま続行すべきか、諦めて下山すべきかを考えた。1回目の失敗でスポンサーから猛批判を食らった野口。生きて帰ったとしても社会的な死が自分を待ち受けているかもしれない。それでも、「死ぬくらいなら逃げよう」と直感的に思ったという。なぜなら、登頂している自分をイメージすることはできても、その後に無事生還している自分のイメージが湧いてこなかったから。何の根拠もないが、野口は自分の直感を信じ、下山することを決意する。

一方で相方は山頂に突っ込んでいき、命は助かったものの凍傷で指を7本切断することになった。その経験から「人生トータルで考えれば、51%行けば成功。残りの49%は失敗してもいい」と思えるようになり、肩の力が抜けたという。そして、その半年後に野口は25歳でエベレスト登頂を達成。七大陸最高峰を制覇し、世界最年少登頂記録を樹立することとなる。そうした壮絶な体験談を語り、野口は最後に「40代、50代で人生初の大きな失敗をするとなかなか立ち直れない。だから10代、20代のうちに色んな挑戦をして失敗を楽しむべき」という言葉で締めくくった。

■「お前ら日本人はヒマラヤをマウントフジにするのかい」

ちなみに気になるのは、資金面の問題。エベレストを例に挙げれば、入山料は800万円で、そこにガイド料や装備、食費なども合わせるとおよそ1000〜1500万円が必要となる。お金に相当余裕がない限り、個人ではなかなか捻出できない金額だ。

実際、野口は若い頃は日本山岳会や大学山岳部などの団体が多く、個人の冒険家はごく少数。スポンサーがつかなければ到底費用が足りないため、野口もスーツを着て日本中の会社を回った。当時は年間136もの企業・業界の有力者に「七大陸最高峰を世界最年少でやりたい!」と手紙で熱意を伝え、必死で資金を集めたそうだ。

しかし、登山服に大量のワッペンをつけた野口は世間からバッシングを受けることとなる。「プレッシャーで判断がミスるんじゃないか」という声もあった。だが、野口の考えはむしろ逆。見える位置にスポンサーのワッペンをつけることで、「俺が死んだらスポンサーが批判される」という意識になり、無茶な判断を止めるブレーキになったという。

そうしてスポンサーからの援助を受けながら、数々の偉業を達成していった野口。2008年には世界初のエベレスト清掃活動も称えられ、第12回「植村直己冒険賞」を受賞した。エベレスト清掃活動は2000年頃からスタートし、酸素ボンベなどの登頂道具・食品包装・排泄物などの推定約50トンあると言われているエベレストのゴミのうち、7.7キロを回収。そこには、日本のゴミも散乱していたそう。

実は当時、世界で最も汚い山は富士山と言われており、野口は海外の登山家から「お前ら日本人はヒマラヤをマウントフジにするのかい」と皮肉を込めて言われた経験があるという。それもあって、野口はエベレスト富士山の清掃を始めたのだ。富士山に至っては地元のNPO法人と協力し、850トン以上のゴミを回収した。その成果として人々の意識も変わり、今ではむしろゴミを探すのが難しいほどに見違えるほど綺麗になったという。

野口健登山家としては、3.5流!?

2022年には、野口の元マネージャーで山岳ジャーナリストの小林元喜が執筆した『さよなら野口健』がその年の「ノンフィクション本大賞」にノミネートされたことが話題に。そこには、「(野口健は)登山家としては、3.5流」という驚くべき一文が書かれていた。しかし、3.5流と言われた当の本人はあっけらかんとしており、「清掃登山などの色んな活動は山岳界からしたら評価が高くないんですよ」と語る。

結局は目指すものの違いで、野口は前代未到ルート達成の偉業よりも山の楽しさや大切さを伝える活動に命を燃やしてきた。山の清掃だけではなく、募金を集め、ネパール・サマ村に学校と宿舎を建設したり、熊本震災テントプロジェクトを立ち上げ、テント村を開設するなど、その活動は多岐にわたる。

そんな野口は「なぜそこまで頑張れるのか」という質問に、「生きる死ぬギリギリでエネルギーをもらっている」と答える。死を身近に感じることで、生への執着心や喜びが強くなるというのだ。しかし、日本に帰ってくると最初のうちは何気ない生活のありがたみを感じるものの、だんだん刺激がなくなってきて、山にまた登りたくなってくるという。「ほとんど病気」「でもつくづく思うのは山は登るものじゃなく、眺めるものだね」など、番組中は野口らしいユーモアのあるセリフが次々と飛び出した。

最後に野口は自分が思うかっこいい大人について、「若い人より若い大人」と回答。その例をしてあげたのが、80歳でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎氏の名前だ。彼はいつも遠足に来ている子供みたいで自分よりも若く感じられるという。「そういう若い大人を見ると若い人が頑張ろうと思える」と野口は語った。

「最強の時間割 ~若者に本気で伝えたい授業~」に登山家・野口健が登場/(C)TVer