2022年12月26日宝塚歌劇団を退団した脚本家・演出家の原田諒氏。5月10日発売号の月刊「文藝春秋」に手記を寄稿し、退団に至る顛末と歌劇団に復籍を求め提訴したことを明らかにしました。原田氏による手記「宝塚『性加害』の真相」の一部を転載します(「文藝春秋2023年6月号より)。

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冬の日に受けた宣告

 阪急電車を降りると、鈍色の空が重くのしかかってきた。

 2022年12月5日午後3時半前。小糠雨の降る中、私は宝塚歌劇団の本拠地である終着駅の宝塚駅から2駅前で降り、売布(めふ)神社駅前にある公共施設の中の会議室へと急いだ。エレベーターで4階に上がると、ドアの前に総務部長が立っていた。案内されるがまま会議室に入ると、中には木場健之(こばけんし)宝塚歌劇団理事長と制作部長が並んで座っていた。

「この2、3日でA側の態度が硬化している」

 私が席に着くや否や、木場理事長がそう切り出した。

「Aの母親が、あなたを宝塚歌劇団から出さなければ、10日の土曜日に文春に情報を渡すと言ってきた。土曜に情報を渡せば、月曜日には記事にしてもらえるらしい。もう記者ともコンタクトを取っていると言っている。Aの脅しを免れるために、9日付であなたは阪急電鉄の創遊事業本部に異動してもらうことに決定した」

 私は困惑した。

「待ってください。こないだ12月2日の話では、懲戒委員会の準備をしろとおっしゃったじゃないですか。納得出来ません。それに昨日、Mさん(総務部長)からも懲戒委員会のための準備を進めてくれとメッセージが来たばかりです。だいいち、創遊事業本部に移って私は何の仕事をするんですか。他に方法はないんですか」

 木場氏は問答無用とばかりにこう吐き捨てた。

「個人的に言わせてもらうなら、自主退職という道もある。依願退職すれば懲戒委員会は行われないから、(処分を受けず)経歴に傷がつかない。異動はもう決まったことだから。業務命令!」

 私は呼吸が苦しくなった。慌てて総務部長がペットボトルの水を持ってきてくれた。震える手でマスクを外し、やっとの思いで水を口に流し込む。この日の雨よりも冷たい水が、乾いた喉の奥へ滑り落ちていった。

「明々後日の12月8日までに返事が欲しい」(木場)

「そんな急に――」(原田)

 1時間半に及んだ面談はそれで打ち切られた。突然の退職勧奨を受けた私は、茫然自失となっていた。駅の踏切で会議室に傘を置き忘れたことに気づいたが、取りに戻る気にはなれなかった。

なぜ手記を書いたのか

 私は宝塚歌劇団の演出家として、「清く正しく美しく」のモットーに相応しい宝塚歌劇の様式美と男役のリアリズムを追求し、私なりに人生を懸けて舞台を作ってきた。『ロバート・キャパ 魂の記録』『For the people』『ピガール狂騒曲』など、出演者・スタッフ一丸で作った作品はどれも愛おしい我が子のような存在である。

 ところが、昨年12月28日発売の『週刊文春』で私は「演出助手Aに性加害に及んだ」演出家であると報道された。報道を受け、宝塚歌劇団はホームページ上で〈ハラスメント事案があったことは弊団として確認しており、関係者から慎重に聞き取りを行い〉と、あたかもハラスメント行為を既成事実かのように認め〈ハラスメントを行った団員は既に退職しており、現在は宝塚歌劇団及びグループ会社のいずれにも所属しておりません〉と、声明を発表した。

 しかし、内情は大きく異なり、歌劇団は私の退職までの真相を、今日まで隠蔽している。様々な意見と批判、憶測が飛び交う中、私はこれまで反論する機会を持ち合わせなかった。あの時、私の身に何が起きていたのかをここに記し、組織としてのコンプライアンスはおろか、人権問題さえをも孕む一連の問題を詳らかにする。

宝塚独自の演出家育成法

 私がAに初めて会ったのは、1年前の春のことである。2022年4月、宝塚歌劇団の元花組トップスター真矢ミキさんからLINEが入った。

〈私の主治医の友人のご子息が宝塚の演出家を目指したいとのことで、何かアドバイス頂けたらありがたく〉

 都内の大学に通うAは、有名IT企業の内定を得ていたものの、宝塚歌劇団の演出助手の募集を知り進路を変えたいと云う。数日後、Aと会うこととなった。

 宝塚歌劇団の演出助手は、「演出家の卵」としての側面が大きい。「生徒」と呼ばれる出演者同様、演出家をも自社育成していくシステムだ。かつてあった徒弟制度の名残であるが、生徒同様演出助手も、そうした叩き上げで、一から大劇場の舞台作りのイロハを学び、宝塚ならではの演出助手、ひいては宝塚の座付作家・演出家として育てられる。運良く私はそうした形で演出家に仕立ててもらった。

 東銀座、三原橋の交差点を少し入ったところに約束のレストランはあった。4月8日、少し早めにその店に着くと、既にAは到着していた。

 リクルートスーツを着たAは、小柄な23歳の青年だった。福岡県の医者の家に生まれた一人息子で、陸上推薦で都内私立大学の付属高校に進学し、母と上京。大学では文学部で美学美術史学を専攻した。宝塚歌劇を観るようになったのは、子どもの頃、母方の祖母に連れられて観たのがきっかけだったと云う。

 私の目から見れば差し当たって特色のない青年だったが、ただ一つ、宝塚に対する愛情だけは感じられた。宝塚歌劇という特殊な世界で働くのに必要なものは様々ある。知識、コミュニケーション能力、忍耐力、現実と折り合いをつける力、そして愛情と情熱と夢を描く力である。かく言う私も、そんな情熱だけを持ってこの世界に飛び込んだのだ。こうして知り合ったのも何かの縁であるからには、「宝塚が好き」というかつての自分に似た彼を、自分なりにサポート出来ればと思った。面会後、Aから選考の課題脚本をみてほしいと頼まれ、気になった箇所を指摘するなど出来る範囲で協力した。

 宝塚の夏は暑い。春には桜のトンネルとなる花のみちも緑一色となり、朝から蝉時雨が降り注いでいた。

 7月30日の朝、Aから合格したと、LINEで連絡が入った。

〈明日、10分だけでも良いのでお時間頂けませんでしょうか?〉

 電話があるのかと思ったら、東京から宝塚の我が家へわざわざ御礼の挨拶に来たいと云う。自宅に入れるのは気が引け、宝塚駅近くで食事をした。

 以後、内定したAからは連日、LINEが送られてくるようになった。『週刊文春』では〈憧れの宝塚に入れる喜びから一転、Aさんの恐怖と戦う日々が始まった〉と報じられたが、私の認識とは大きく異なる。

 Aは早速、宝塚市内で住む場所を探し始めた。幾つかの物件情報や内覧写真を送り、感想を求めてきた。

〈毎日、池田文庫(宝塚関連資料を収蔵する図書館)に行って◯◯(私の住む地名)で待ってますね笑〉

〈◯◯◯(私の住所・番地)付近がいいです!笑〉

 記事には、Aの知人の証言として〈Aさんが宝塚で家を探す際にも、自分の家の近くに家を借りさせようとしていました〉などとあるが、実際は逆だ。当時は宝塚に合格した嬉しさがそうさせているのだろうと、私は適当に受け流すようにしていた。

〈足にならせてください〉

 私は、脚本・演出を務める新作『蒼穹の昴』の稽古を前に、8月2日から東京都内のスタジオで作曲家と2週間にわたる劇中音楽制作に入っていた。

 そんな折、入団前のAから連絡があった。

〈明日から東京とお聞きしていましたが、雨が降る可能性があります。羽田まで車でお迎えに行かせて頂きたいと思っているのですが、何時ごろご到着でしょうか!?〉

 演出家の中には公私の別なく、後輩の演出助手を私用に使う者がいるのも事実である。私はそういったことが嫌いな性分だが、上京する度にAから行動を共にしたいと、頻繁に連絡がくるようになった。

〈お身体とご予定が可能でしたら、朝ご飯をご一緒させてください〉

〈東京にいらっしゃる時は足にならせてください〉

モーニングコールはお任せください〉

〈宝塚に行っても、できる限りお側にいさせてください!〉

 Aの必要以上の慇懃さには抵抗感を拭えなかった。本心なのか社交辞令なのかもわからず、だいいちこんな運転手まがいのことは、やはり彼のすべきことではない。

「あなたは演出家の卵であって僕の付き人ではないんだから、やっぱりこんなことをする暇があったら自分の勉強の時間に回したほうがいい」

「母にも言われているんです。送り迎えさせてください。先生とお話しをさせて頂くのが何よりの勉強になります!」

 Aはいつもそう繰り返すのだった。これまで彼のように積極的に連絡をくれ、仕事のサポートをしたいと言ってくる後輩はいなかった。私は先輩から何かを吸収しようとする心意気を無下には出来なかった。送迎を強制したことは一度としてないが、時に仕事終わりの深夜に送迎してもらったことは事実である。今にして思えば、最初にきっぱり断るべきだった。

原田諒さんの「宝塚『性加害』の真相」全文は、月刊「文藝春秋2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

(原田 諒/文藝春秋 2023年6月号)

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