
“名人・渡辺明の93分”が意味すること 藤井聡太竜王との「足を止めて打ち合う珍しい展開」で大きな1勝 から続く
衝撃的な結末だった。攻めをつなげる技術では棋士ナンバーワンの渡辺明名人の攻めが、中盤で切れてしまった。手数わずかに69手、夕食休憩前に投了に追い込まれてしまった。
5月21・22日に福岡県飯塚市の「麻生大浦荘」で行われた、渡辺明名人に藤井聡太竜王が挑戦する第81期名人戦第4局は、なぜこういう結果となったのか? 私は現地には行けず、ABEMAや携帯中継でずっと追っていた。その代わり、立会を務めた深浦康市九段と、記録係を務めた石川優太五段にお話をうかがったので、2人の視点を交えながら解説しよう。
仕事がなくなったことを嬉しそうに話す師匠たちまずは前日と当日の様子から。
「前夜祭には300人集まっていただきまして、それだけの方に来ていただいたということで渡辺さんはテンションも上がっているように見えました。ファンの方に『お越し下さりありがとうございます』と感謝の言葉を述べていましたね。
対局初日は両対局者とも普段どおりでした」(深浦九段)
すこし話がそれるが、深浦の弟子の佐々木大地七段が棋聖戦と王位戦でダブル挑戦者になったことが大きな話題となっている。私が叡王戦五番勝負第3局を見に、名古屋に赴いたとき、控室で深浦と藤井の師匠・杉本昌隆八段と一緒になった。深浦が「弟子が挑戦することになったので、よろしくお願いします」とメールを送り、杉本が「弟子のせいで仕事がなくなった仲間が増えて嬉しいです」と返信をした、という話をしていた。
タイトル戦の立会は八段以上の棋士が務めるが、弟子が出場する場合は立会も副立会もできない。深浦は棋王戦、王将戦、名人戦で立会を務めたが、棋聖戦と王位戦ではできない。杉本に至っては立会ができる可能性があるのは王座戦だけだ。2人は仕事がなくなったことを嬉しそうに話していて、どんだけ弟子が好きやねん、とツッコミそうになった。
藤井は昼食休憩を挟んで98分の大長考さて戦型は、後手の渡辺が角道を止めて雁木に。対して先手・藤井は囲いに手をかけず急戦の構えに。第72期王将戦七番勝負第3局と似た進行で、その将棋では後手の羽生善治九段が、中央に銀を2枚並べて守備的な布陣をしいた。
だが、渡辺は素早く右桂を跳ね出して攻撃的な布陣にする。玉の移動も右銀の活用も捨て、打ち合いに持ち込むと決断したのだ。
藤井にとって雁木は予想通りでも、攻撃的な構えでくるとは想定外だったのか、1日目の午前中で動かなくなった。昼食休憩を挟んで98分もの時間を使った。大長考のすえ飛車を浮く。前述の王将戦でも藤井が指した手で、羽生がもっとも感心したという一着だ。しかし、カウンター狙いの陣形に対して指してもいいのだろうか? 藤井の銀に対し渡辺の桂では、攻めの速度が違うのではないか。玉の位置も不安定だし、前例通り飛車は下から狙ったほうがいいのではないか、と私は思った。
渡辺は角を引いて桂を跳ね、香も走って全軍に猛攻撃を命じる。藤井は香を取らずに歩を受け、渡辺が桂頭に歩を打った局面で1日目を終える。
名人戦は今期から記録係が2人体制に飛角桂香の4枚が攻めに参加し、先手の飛車は狙われそうな位置におり、しかも指揮をとるのは渡辺だ。攻めがつながらないわけがない。と、私だけでなく、プロ棋士は誰しも思っただろう。
「取材した記者にうかがったのですが、渡辺さんは飛車浮きも予想していて、36手目に香を走るところまで予想の範疇だったそうです。ただ香を取らずに歩を受けたのが意外だったみたいです」(深浦九段)
「私は振り飛車党なので、この将棋について詳しくないのでよくわからなかったですが、ただ、渡辺先生の攻めがつながってほしいなあ、という願望はありました。9筋も絡めて香も攻めに参加しているので」(石川五段)
ところで名人戦は今期から記録係が2人体制となった。しかし、本局の石川五段は1人で務めていた。
「実は第3局は現地の控室に出向いていたんです。見ていて記録2人の交代制ってめっちゃいいなと。対局室では対局者と一緒に考えられるし、休憩中には検討に加われるし、両方できるってすごい勉強になるので。今回は三段リーグと日程が重なって三段が記録を取れなかったですし、福岡なので都合がつく棋士もいなかったので仕方なかったですが、1人で記録はとても寂しかったです(笑)」(同前)
渡辺の角引きを藤井は完全に無視私は第2局の封じ手開封を対局室で見た。そのときも藤井が封じたのだが、藤井の様子は落ち着いていて、1日目の対局前と変わらなかった。だが本局では違ったそうだ。
「印象に残っているのは2日目の朝の藤井さんの様子です。まだ名人も入室しておらず、駒も並べていなかったんですが、藤井さんは前傾姿勢で、右手で扇子をパチパチやっていて、左手も動いていて、何も並んでいない盤をにらんでいて……。すごい集中力だなあ、早く将棋を指したいのかなあ、って見ていて思っていました。何を考えていたのかはまったくわからないですが(笑)」(深浦九段)
藤井の封じ手は、歩を角引きで取らず、桂をかわして跳ねる手だった。ちなみにその歩を打つのに渡辺は1時間近くかけていた。その後も、銀取りには銀を逃げ、角で王手されても玉を逃げと、ひらりひらりとかわしていく。渡辺は我慢しきれず、ついに切り札の角引きだ。これで渡辺の飛車は先手陣に通り、次に4筋の歩をつけば飛車銀両当たりになる。
ところがである。この角引きを藤井は完全に無視したのだ。
飛車先を叩かれた局面でまた大長考角のリーチで飛車を抑え、長らく放置していた質駒の香を取る。銀頭への歩のたたきは堂々と玉で取る。玉が露出しても意に介さない。王手をかけられても平然としている。王手されるのに慣れきっている。
飛車銀取りには銀のほうを引いて飛車角交換に。渡辺は角と引き換えに飛車を手駒にしたものの、自陣に角を打たれるスキが多く、居玉のままでは防ぎきれない。いつの間にか形勢が大差になってしまった。
渡辺が効果を期待した「角引き」が通らなかった。これが、早く終局してしまった要因である。
「僕も、角引きには飛車を逃げるのかと思っていまして、ああそうか放置するものなのかと感心していました。渡辺先生が角を王手で出た手に80分考えて、角を引いた手に対し飛車先を叩かれた局面でまた大長考していたので、そこで長考は明らかに変だなと感じていました。形勢が傾いたところでは、渡辺先生は局面をさかのぼって何が悪かったか考えているような印象でした」(石川五段)
藤井は読み切っていた雰囲気だったのだろうか。
「いや、雰囲気を見てもわかりませんでした。常にひたすら手を読んでいる印象で、集中力がものすごいなあと」(同前)
夕食休憩前に終局ABEMAの中継では、解説の郷田真隆九段も手詰まりの印象を語っていた。
「これは困りました。色々な含みを残すのがプロの技なんですが、歩切れで技が使えないのが辛いんですね。これぞプロという手が指せなくなってしまいました」
やがて渡辺は、藤井相手に無駄な手は指せないと、夕食休憩前に潔く頭を下げた。
感想戦、渡辺は角引きを無視する手に気が付かなかったことを悔やみ、「(角引きには)基本リアクションしてくれないのね」「そうか攻め方が難しいのか」とぼやいた。
藤井は相変わらず楽しそうで、笑顔を見せている。
渡辺は「もっと下準備しておくべきだった」と反省渡辺の攻め方がまずかったということで代案をいくつか検討するが、ここでも藤井はまったく違う方向性の読みを見せた。それは、角を王手で飛び出す手に代えて、歩で香を叩いてから香取りに飛車を出る手順だった。金を上がって守りを厚くすると思いきや、なんと藤井は香を打って香を守る手が本線だったという。以下、玉自ら危地に赴いて守る、危険きわまりない手順をにこやかに示した。
「渡辺さんは、1歩あれば攻めがつながると思っていたが、いざその局面になると難しかったと。もっと下準備しておくべきだったと反省していたそうです。ですが、ただでさえ膨大な研究量だったでしょうし、そこまで調べるのは大変でしょう。感想戦で出た香打ちですか? あの手はAIも候補にあげていたんですが、怖すぎて指さないかと思っていたんです。ところが藤井さんは本線だったみたいで驚きました。玉を上がって眉間で受ける手ですからねえ……」(深浦九段)
渡辺明も我々も、この世界で戦っていくしかないもう藤井以前と藤井以後では、将棋の感覚がまったく変わってしまった。AIの影響はもちろんあるが、それだけではなく、藤井聡太自身が切り拓いている新しい将棋の世界に連れてこられてしまった。そしてもう戻ることはできない。渡辺明も我々も、この世界で戦っていくしかなくなってしまったのだ。
石川がこのカードで記録係を務めるのは、2年前の棋聖戦の防衛局以来となる。藤井が馬の利きに飛車をただ捨てした将棋だ。鈴木大介九段は、「一生に一度指せたらいいくらいの大妙手なのに、藤井さんはそれを1分で指すとはなんなんでしょうね」と嘆息していた。眼前であの手を見た石川は、どう感じていたのだろうか。
「そのときは双方1分将棋という状況だったので、秒読みしながら、どういう手を指してくるのか考えていたんですけれども、飛車引きはまったく予想していなかったので、最初は何を指したのか、何が起こったのかわからなかったんですよ。棋譜を入力して、秒を読まなければいけないので、終わるまで、わけがわからなかったですね。後で見たらすごい手だったんだなとわかったんですが(笑)」(石川五段)
千田翔太七段も「渡辺名人の強さの一端を知る身としては、衝撃的な展開」私は、第3局での素晴らしい終盤戦を見て、渡辺がむしろ五分に戻すのではないかと思っていた。
個人的な話になるが、私は18年前、当時竜王2期の渡辺と順位戦で戦った。たった1手の歩突きでバッサリと斬られて、負けて悔しいというよりも、さすがは竜王と感心したことを覚えている。
いや、私だけでない。千田翔太七段もTwitterで「渡辺名人の強さの一端を知る身としては、衝撃的な展開でした。中盤で攻めが切れるのは想像しがたいです。名人が攻めに窮したのは、対藤井竜王用に新しい積極策を採用し、ギリギリの勝負をしていたからこそと思います」とつぶやいている。千田は2017年、渡辺棋王との第42期棋王戦五番勝負において、2勝1敗と追い込みながら渡辺の攻めに屈して連敗し初タイトルを逃している。その千田が「衝撃的」というのだから他の棋士も同様の感想を抱いているだろう。
そもそも渡辺より若い棋士で、タイトル戦番勝負で渡辺に勝っている棋士は藤井以外にいないのだ。
このまま藤井が名人奪取となるのか、次局先手番の渡辺が踏みとどまるか。名人位の行方だけではない、将棋そのものの大きな変化を我々は同時代者として見ている。第5局は5月31日~6月1日に長野県の藤井荘で行われる。
(勝又 清和)

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