公的年金は受給開始時期をいつに設定するかによって、受給額が大きく変わります。特に、「繰り下げ受給」をすると、年金額が増えます。ただし、従来は、途中で繰り下げ受給を取りやめた場合に損をする場合がありました。しかし、2023年4月1日から新たに導入された「繰り下げみなし増額制度」により、「繰り下げ受給」を選ぶとどう転んでも確実に年金額が増えることになりました。本記事で解説します。

公的年金の額は受給開始のタイミングで増減する

まず、「繰り下げみなし増額制度」について説明する前提として、公的年金の受給開始のタイミングを変える制度、「繰り上げ受給」と「繰り下げ受給」について知っておく必要があります。

公的年金の受給開始は原則として65歳からです。60歳まで保険料を払い込んで、65歳になってから年金を受給するというわけです。

「繰り上げ受給」は受給開始のタイミングを60歳まで早めることができる制度、「繰り上げ受給」は75歳まで遅らせることができる制度です。

いずれも、1ヵ月単位で設定できます。

「繰り上げ受給」は年金を早く受給開始できる代わりに年金額が減額されます。また、サラリーマン(会社員・公務員)は年金制度が「老齢基礎年金」と「老齢厚生年金」の「2階建て」になっていますが、片方だけ繰り上げることはできず、両方繰り上げとなります。

これに対し、繰り下げ受給は、受給開始が遅くなる代わりに年金額増額されます。また、「老齢基礎年金」と「老齢厚生年金」を別々に繰り下げることができます。

なお、1966年以前に生まれた方は、60歳~64歳の間に「特別給付の老齢厚生年金」(特老厚)を受給できることがあります。しかし、こちらは、旧制度から現行制度に移行するうえでの経過措置にすぎないので、受給開始年齢を動かすことはできません。

特別給付の老齢厚生年金については詳しくは2023年5月10日の記事「『もらい忘れ』は損!年金受給開始の『65歳』より前に受け取れる『特別の年金』とは」をご覧ください

寿命により「損益分岐点」が異なる

では、「繰り上げ受給」または「繰り下げ受給」を選んだ場合、それぞれの損益分岐点はいつになるでしょうか。

それは結局、年金を受け取る期間の長さ、つまり、何歳まで生きるかによって異なります。未来のことなど誰にもわかりませんが、一応の目安にはなります。

65歳受給開始の場合の年金額を150万円として、試算してみましょう。

◆繰り上げ受給(60歳受給開始)を選んだ場合の損益分岐点

まず、繰り上げ受給を選び60歳から受給開始した場合について計算しましょう。

繰り上げ受給を選んだ場合、受給額の計算式は以下の通りです。

【繰り上げ受給した場合の受給額の計算式】

年金額-(年金額×0.4%×繰り上げた月数)

したがって、65歳受給開始の年金額が150万円のところ、60歳から繰り上げ受給した場合の年金額は、

150万円-(150万円×0.4%×60ヵ月)=114万円

となります。

繰り上げ受給せず、65歳から受給開始した場合と比べると、以下の通り、80歳11ヵ月の段階で、逆転されます。

【80歳11ヵ月時点での受給総額】

・60歳から繰り上げ受給(年114万円×受給期間251ヵ月)⇒2,384.5万円

・65歳受給開始(年150万円×受給期間191ヵ月)⇒2,387.5万円

したがって、60歳から繰り上げ受給開始した場合は、損益分岐点は80歳11ヵ月ということになります。80歳10ヶ月までに亡くなれば、トータルでの受給金額で得をしたことになります。

◆繰り下げ受給(75歳受給開始)を選んだ場合の損益分岐点

続いて、「繰り下げ受給75歳から受給開始にした場合について計算してみましょう。

繰り下げ受給を選んだ場合、受給額の計算式は以下の通りです。

【繰り下げ受給した場合の受給額の計算式】

年金額+(年金額×0.7%×繰り下げた月数)

したがって、65歳受給開始の年金額が150万円のところ、受給開始を75歳まで繰り下げ受給した場合の年金額は、

150万円+(150万円×0.7%×120ヵ月)=276万円

となります。

65歳から受給開始した場合と比べると、以下の通り、86歳11ヵ月で逆転します。

【86歳11ヵ月時点での受給総額】

・75歳まで受給開始繰り下げ(年276万円×受給期間143ヵ月)⇒3,289万円

・65歳受給開始(年150万円×受給期間263ヵ月)⇒3,287.5万円

したがって、75歳まで受給開始を繰り下げた場合は、損益分岐点は86歳11ヵ月ということになります。87歳まで生きなければ、トータルでの受給金額で損するということになります。

しかし、何歳まで生きるかは、亡くなるまでわかりません。したがって、以上はあくまで参考程度のものととらえておく必要があります。

繰り下げみなし増額制度とは

以上を前提に、2023年4月から施行されている「繰り下げみなし受給」の制度について解説します。

これは、「繰り下げ受給」を選んだ人が、70歳以降に繰り下げ受給を取りやめて受給開始する場合に、65歳から受給開始したとみなして、65歳まで遡って一括受給できるという制度です。

なぜ「70歳以降」なのか。それには理由があります。繰り下げみなし増額制度がなかった2023年3月以前と比べて説明します。

◆2023年3月以前(繰り下げみなし増額制度導入前)

2023年3月以前も、繰り下げ受給を取りやめて受給開始することはできました。しかし、過去の分を一括受給しようとした場合、65歳受給開始の場合の受給額を、過去5年分までしか受給できませんでした。

たとえば、65歳受給開始の場合の年金額が180万円の人が、72歳で繰り下げ受給を取りやめた場合、67歳以降の5年間分に相当する900万円しか受け取れませんでした(【図表2】参照)。なぜなら、それ以前の分は「消滅時効」によって消えてしまうからです。

つまり、繰り下げた恩恵をまったく受けられないどころか、2年分損してしまいます。「泣き面に蜂」です。

繰り下げ受給をいったん選んだ後で、何らかの事情によって取りやめざるをえなくなった場合、大損をしてしまうのです。これでは、おいそれと繰り下げ受給を選ぶことができません。

◆2023年4月以降(繰り下げみなし増額制度導入後)

これに対し、2023年4月以降に導入された繰り下げみなし増額制度では、いったん繰り下げ受給を選んだあとで、70歳以降に取りやめた場合、5年前の時点まで受給開始を繰り下げたとみなします。

たとえば、65歳受給開始の場合の年金額が180万円の人が、72歳で繰り下げ受給を取りやめた場合、67歳から繰り下げ受給を開始したとみなし、5年間分に相当する1,051.2万円を一括受給できることになったのです。しかも、67歳から繰り下げ受給した場合の額(年210.24万円)を一生涯受給できます(【図表3参照】)。

80歳時点で総額2,733.12万円となります。2023年3月以前であれば総額2,340万円しか受給できなかったのと比べ、393.12万円も増えます。

これによって、いったん繰り下げ受給を選んで、あとで取りやめたとしても、少なくとも、5年前の時点まで受給を繰り下げた場合の受給額を受け取れることになり、損することはなくなりました。

したがって、以前よりも、繰り下げ受給を選びやすくなったといえます。

何歳まで生きるか、何が起きるかは、誰にも予測できないので、大変ありがたい制度変更だといえます。

繰り下げみなし増額制度導入に込められたメッセージ

さて、今回の制度変更には、どんなメッセージが込められているでしょうか。

未来の予測が不可能だとすると、年金について、「トータルでいくら受け取れるか」という損益分岐点で考えること自体が、あまり生産的ではないといえます。

そこで、公的年金制度の根本の趣旨に立ち返って考えてみる必要があります。

公的年金制度は「長生きリスクに備える保険」として設計されたものです。だからこそ、私たちが納めるお金も「保険料」といわれているのです。貯蓄とは異なります。だからこそ、若い世代が高齢者の分を負担している特殊なしくみがとられているということです。

この分野の第一人者である日本年金学会幹事の谷内陽一氏の有名な格言に、「繰り下げて後悔するのはあの世、繰り上げて後悔するのはこの世」というのがあります。これがまさに正鵠を射ているといえます。

繰り上げ受給して、80歳より長生きしてしまった場合、トータルでの受給額は減ります。しかも、80歳以降については減額された低い受給額をずっと受給し続けることになります。

これに対し、繰り下げ受給をすれば、年金の額が最大で84%増え、長生きした場合にお金が足りなくなるという事態が起こりにくくなります。

また、高度成長期と今とでは、状況がまるで違います。日本経済の勢いも、人口構成も、大きく異なります。

高度成長期は、日本経済が好調なのに加え、高齢者よりも若年層の方が圧倒的に多かったのです。しかも、平均寿命も今よりは短かったので、老後資金の心配はそれほど必要ありませんでした。

しかし、現在は高齢化、少子化が進行しており、今後さらに進むことが予測されています。

寿命が延びて老後が長くなっていけば、老後資金をその分、多く賄わなければなりません。

他方で、現実に少子化が進行するなか、若い世代に過大な負担を負わせないように工夫する必要があります。

そのなかで、「繰り下げみなし受給」の制度は、公的年金制度をできる限り長く維持するための、有効な選択肢の一つといえるのではないでしょうか。

とはいえ、公的年金は、国民の老後の生活を保障するための根幹です。

最近、国はiDeCoやNISAといった、自己責任による投資をうながす「私的年金」の制度を充実させています。これはけっこうなことであり、重要なことであるといえます。しかし、その比重を大きくしていくことが、公的年金をはじめとする社会保障に対する国の責任放棄につながることになってしまわないよう、国民の立場からは、チェック機能を働かせていく必要があります。

(※写真はイメージです/PIXTA)