「孤独」や「孤立」は、高齢者に限らずですが現代社会の問題となっています。特に高齢者については、孤独が健康に悪影響を及ぼすことがいくつもの研究によって明らかになっていますし、高齢者を狙った犯罪の増加、地震や豪雨災害時の対応、孤独死などが具体的な問題として挙げられます。

 とはいえ、「孤独はよくない。できる限り交流や社会参加をしましょう」と言うと、必ず「一人がいい。人に関わるのは面倒だ」という声が返ってきます。この年齢になって、気が合わない人に会ったり、気を使う場に出たりするのは勘弁してほしいという意味ですが、確かにそれもよく分かります

 現役時代には、仕事や家事、子育て、近所付き合いなどで嫌なことがあってもしなければなりませんし、気の進まない人や場面から逃げるわけにはいかないことが多いものですが、高齢期になるとそれらがなくなってきます。だからストレスが減少し、自由や幸福を感じやすくなるという面があります(高齢期の主観的幸福感の向上を説明する「離脱理論」と呼ばれます)。

 確かに、せっかく嫌なことをしなくてもよくなったのに、また「人に会おう」「場に行こう」と言われるのですから「勘弁してくれ」となるのは当然かもしれません。

選択した孤独か、意図せぬ孤独か

 大事なのは、その孤独が“自分で選択したものかどうか”であると、NPO法人「老いの工学研究所」理事長を務めている筆者は考えます。

 皆で大いに盛り上がった後に心身の疲労を感じるとき、読書や創作に没頭したいとき、何かを熟考したいときなど、「物思いにふけりたい」「一人になりたい」という欲求は誰にでも生じます。そんなとき、一人になれない、ずっと見られたり話しかけられたりしているような環境はつらいでしょう。

 他者から孤独に見えたとしても、それが「一人になりたいときに、一人になっている」のであれば、何の問題もありません。離脱理論から考えても、「選択した孤独」は尊重すべきです。

 問題は、交流したいのに一人でいるしかない、自分で選択したわけではないのに常に一人になってしまっているという「意図せぬ孤独」です。

 これには、「周囲に人が少なく、会話や交流をする相手が見つからない」「集いの場はあるが、距離が遠く不便である」といった環境が原因であるケース、交流の場や機会に関する情報提供や、誘ってくれたり、とりなしてくれたりする人の不在という人材不足が原因であるケース、そして参加する意欲や勇気の不足、あるいは場への不適応といった本人が原因となっているケースがありますが、このような「意図せぬ孤独」に対するケアこそが、解決すべき課題といえるでしょう。

芭蕉に学ぶ、「孤独と交流の選択」

 松尾芭蕉は、東京・日本橋を拠点に、宗匠として多様な俳人や弟子たちとの交流の中で暮らしていましたが、晩年に深川へ転居しています。鴨長明も同じように「方丈庵」を作って移り住みました。

 何不自由のない暮らしをしている活躍の著しい俳人・歌人がなぜ、わざわざ質素な家での一人暮らしを選んだのか。諸説ありますが、創作者としての高みを目指すために、孤独が必要であると考えたのは間違いないでしょう。日々、人が寄ってきて関わり合いを持たなくてはならない日常からは生まれてこない作品を創りたかったのではないかと思います。まさに、「選択した孤独」です。

 もう一つ注目したいのは、2人とも、そんなに不便で辺ぴなところに移ったのではないことです。日本橋と深川は大した距離ではありません。方丈庵があった場所も、山を少し下りていけば人里があるような場所であったようです(長尾重武著「小さな家の思想 方丈記を建築で読み解く」より)。つまり、人々と交流したいときは交流できる、一人になろうと思えば一人になれる、孤独と交流を自分の意思で選択できる環境であったということです。

 こう見てくると、孤独がダメで交流がよい、というのは単純すぎるきらいがあります。高齢期によくないのは「意図せぬ孤独」と「意図せぬ交流」であり、重要なのは、自分の意思で孤独と交流を選択できる環境であるということだと思います。

NPO法人・老いの工学研究所 理事長 川口雅裕

高齢者の「2つの孤独」とは…