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鈴木喜美子。1943年7月、埼玉県草加市生まれ。職業は画家。

裕福な商家に生まれ、東京の私立中高校を経て、美大に進学。中退後、草加に戻って、絵画教室を開く。セザンヌが好きで、パリに留学し、ボーヴォワールに遭遇。と、ここまではありがちな履歴、お嬢さん画家のプロフィールのひとつといっていいかもしれない。

1978年、鈴木はスケッチ旅行に訪れた栃木県で、旧足尾銅山を含む「足尾」と遭遇する。足尾は日本で最初の公害発生地だが、当時鈴木は知らなかった。以来、現在まで45年、足尾通いを続けている。その回数は8千回に及ぶだろうか。毎年、足尾の絵画を描き続けている。彼女の画家としての履歴がユニークなのは、モチーフとして足尾しか描かないことだ。

なぜ足尾だけを、の答えが簡単に解けるものではないと推量するが、すこしでも内実に迫りたいと鈴木を追い続けている。

頭とこころが、これは何かと急き立て…

1978年8月、眼前にある「足尾」を眼前に、鈴木はスケッチもせず、立ち尽くした。自宅アトリエで開く美術教室に集う若手の中学校美術教師らと日光の戦場ヶ原の光徳沼にスケッチ旅行に来ていた。山の後ろには何があるのかと鈴木が問うと、「足尾銅山がある。先生知らねえのか」と教え子の中から答えが返った。行先を変更して向かったのが足尾だった。

「足尾の引き込み線のところに立つと、工場と山がわあっと迫ってきた。頭とこころが、これは何かと急き立てるけど、言葉が出てこなかった」と鈴木は振り返る。鈴木がその日のことを冷静に語れるようになるまで、30十年を要した。

突然、色が消えた

1970年代半ば、鈴木が30歳代のころ、両親を相次いで病気で亡くした。好きな画業の道に進むことを選んだ鈴木の背中を押してくれた愛情深い両親だった。オートバイやカメラが好きなモダンボーイだった父と無条件にやさしかった母。1960年代末、セザンヌに憧れる鈴木がパリ留学を望めば、支援してくれた。

鈴木の人生を彩っていた温かさの象徴だった両親の逝去。その後、繁盛していた鮮魚・乾物の卸商のお店も傾き始めた。見たくないものをいっぱい見てしまった鈴木喜美子のキャンバスから色が消えた。それまでよく使っていた赤や黄色などの暖色が使えなくなってしまった。色が消えた。

暗雲が立ち込めて、画家として立ち直れない日々を過ごしていた78年に、鈴木は偶然に栃木・足尾銅山に遭遇した。夕日に染まった銅山や工場を目にして、鈴木は言葉にならない衝撃を受けた。その風景は、絵筆もとれなくなっていた日々が続いていた彼女の心を揺り動かす。

峻烈な光、そして深い影

鈴木が運命のように遭遇した「足尾銅山」。足尾銅山は日本の近代に峻烈な光を残した。光が強いぶん影も濃い。明治期、日本一の生産量を誇り、殖産興業の誉れではあったが、日本で最初の公害事件「足尾銅山公害事件」の舞台にたった。鉱毒で被害を受けた渡良瀬川流域の農民らが大衆運動を起こした歴史的な事件だ。

旧足尾町(現日光市)は渡良瀬川の上流で、備前楯山が銅発掘の中心地だ。現在のわたらせ渓谷鐡道足尾駅から北西約2キロのところにある。足尾銅山は1550年に発見されたとされている。江戸時代は幕府の管理下におかれ、1877年、創業者古河市兵衛の「古河」が経営を始める。

1884年、足尾の産銅量は日本一となる。1905年個人経営から会社組織に変更。社名を「古河鉱業会社」とする。その後数の社名変更をされ、現在の「古河機械金属株式会社」に至る。便宜上、「古河」と表記する。

明治政府が進めた富国強兵政策をとるなか、「古河」の足尾銅山は外貨を稼ぎ、日本の近代化に大きく貢献した。銅山の最盛期にあたる1916年、足尾町の人口は3万8428人で栃木県内二位だった。第二次大戦後も採掘は続いたが、海外の鉱石輸入におされるとともに、鉱脈の枯渇などにより、1973年に閉山した。掘られた坑道は延べ1234キロに及ぶ。

日本最初の公害事件

一方で、足尾銅山は、近代日本最初の公害事件「足尾鉱山鉱毒事件」の舞台となる。銅山から流出する鉱毒で被害を受けた渡良瀬川流域の農民らが操業停止を求めて立ち上がった。1894年、栃木県出身の国会議員田中正造が帝国議会で鉱毒問題を質問、1903年、田中は明治天皇に直訴した。

画家鈴木喜美子が足尾に足を踏み入れた1978年は、銅山の鉱脈は掘り尽くされ、輸入鉱石を搬入して操業する精錬の工場が稼働していた頃だ。操業開始から一世紀が過ぎていた。近代日本産業の盛衰を沈殿させたような土地だった。

歴史も公害も知らなかった

鈴木の足尾通いは1978年から始まった。その冬から週に一度のペースで足しげく通った。最初は外から眺めているだけだった。銅山の歴史も公害事件のことも知らなかった。その後、独学で知識を増やし、地元足尾に生きる人を通じて足尾になじんでいく。

冬場、たまたま立ち寄った靴店の主人に、足元を注意された。「絵描きとして」足尾を歩いていると聞いた靴店主は黙ってゴム長靴を鈴木に差し出して、勧めた。これがきっかけで鈴木の「身元保証人」となり、彼女は町の教育庁や婦人会のメンバー、無縁仏が眠る寺の関係者、銅山を管轄する古河関係者にも知己を得ることになる。愚直で真摯に足尾に向かい合う鈴木の姿勢が周囲を動かしていく。

モノクロームから色が出るように

足尾を描く鈴木の油彩画は、1980年代半ばまで、冬一色だった。白と黒を基調にして、山の稜線を生かした緊密な構成となっている。画調はさびしくて、厳しい。90年代になると、色合いが少しずつ戻ってきた。銅山の資料も読んだ、公害のことも知った。かつての足尾の様子を後世に伝えたいと願う元町民や古河関係者とも知り合い、「足尾を咀嚼できるようになった」と鈴木は振り返る。

このころの作品では、暖色系の色があらわれ、寒色との融合を意識するようになった。それは鈴木の心の変化の表れだった。「色が付いてきた。描く山の形が変わってきた」と鈴木は言い、自身も転換点の時期と位置付ける。

鈴木に再生の光が差してきた。と同時に、足尾の「環境」も再生の兆しが表れていた。

ニューヨーク国連本部で個展開催、「環境」考える機会に

2005年、国連本部で個展「『足尾』 風土円環 鈴木喜美子展」を開いた。個展に来場した国連勤務の女性からかけられた言葉が忘れられない。

「こういう環境問題は地味なテーマだけど、続けて描いていってほしい」

鈴木は足尾を描く中で、環境問題や公害を声高に叫んだことは一度もなかったが、これが「環境」を改めて考える機会になったと振り返る。

鈴木にとって、コロナ元年2020年は特別な年になった。足尾への旅は冬場から延び延びとなっていて、7月まで訪れる機会はなかった。大がかりな個展の開催も延期を余儀なくされた。

本来ならアトリエにこもって絵画制作に時間を費やしている時期である7月のある日、鈴木は本山と工場跡が見える定点のような場所に立って、山並みを一望した。すると、思いがけず鮮やかな緑色が目と心に飛び込んできた。見慣れたはずの足尾の風景が変わったように映った。

それ以上に、それを受け止める自分の心のありようが変容していることに気付いた。西日とはげ山だけが印象に残った40数年前の風景を重ね合わせ、人生と自然の生々流転を強く感じた一瞬だった。

「私も(豊かに再生した自然と同様に)元に戻れる。変わっていける」

埼玉県草加市に2006年開設した美術館ミュゼ 環 鈴木喜美子美術館」がある。鈴木の私設美術館だ。300号を超える大作を含む約100点の一部が常設展示されている。展示作品は年3回のペースで入れ替える。環という言葉は、自然も人生もめぐり巡って往還するという意味が込められている。美術館に飾られる一枚の色紙がある。鈴木が足尾通いの中で知り合った作家立松和平(故人)が記したものだ。この「檄文」を載せて、本コラムを締めくくる。

【足尾の風景に心魅かれるのは、人の営みと愚かしさが誰にもわかるようにはっきりと刻まれているからだ。樹木は枯れ、表土の剥がれた岩山は、人類の未来の風景である。この岩肌に希望を見い出す意思を込めて、鈴木喜美子さんは絵筆をとる。だから廃墟を描いても深く美しいのだ。画家の希望が、私たちの未来だと思いたい】

おそらく集大成となる個展「『足尾』風土円環 鈴木喜美子展」(栃木県日光市など後援)が、6月12日から18日まで、栃木県総合文化センター(宇都宮市本町1-8)で開催される。

(敬称略)

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 春山陽一(Haruyama yoichi)

1953年群馬県生まれ。早稲田大学政経学部卒業後に渡仏、パリ、ブザンソンで暮らす。1978年朝日新聞社入社。1986年~2007年、アサヒグラフ、週刊朝日、AERA,、一冊の本編集部に在籍。2014年、朝日新聞社東埼玉支局赴任、2021年に退職。著書に『トキ物語 風のように 光のように』(中公文庫)などがある。

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