《写真あり》他人の腕の血管をみるたびに注射を打ちたくなったことも…ヤクザ→薬物中毒→46歳・弁護士の壮絶人生 から続く

 今では弁護士として暴力団からの離脱支援や薬物事件の刑事弁護に取り組む諸橋仁智氏(46歳)。しかし、かつては自身も薬物使用に悩み、精神病院に入院していたことも……。「いま思い出してもトラウマ」と語る、精神病院時代の記憶とは?

 諸橋氏による初の著書『元ヤクザ弁護士: ヤクザのバッジを外して、弁護士バッジをつけました』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

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都立松沢病院を退院

 松沢病院にいたときのことは、記憶がうすい。かなり強い精神薬を飲まされていたんだと思う。1週間の「措置入院」だったらしいが、退院するときに仲間が迎えにきたときのことをうっすら覚えているだけだ。フワフワした気分でぽけーっとなっていた。

 渋谷スクランブル交差点のときの記憶がないのも、松沢病院の精神薬のせいかもしれない。

「措置入院」というのは、自傷他害のおそれがある場合に本人の意思にかかわらず強制的に入院させられる手続きだ。スクランブル交差点で交通整理するようなエキセントリック野郎だったから「他害のおそれあり」と簡単に認定されただろう。

 ところで後から知ったことだが、この松沢病院は重度の精神疾患患者を引き受ける病院としてかなり有名だ。1週間くらいで退院してきた僕は珍しいらしく、通常は措置入院患者を受け入れるとなかなか社会復帰を許さないところらしい。

 退院したあと先輩に、「おまえよく帰ってこれたね。あそこに連れて行かれて帰ってきたのおまえくらいだよ」と言われた。

 病院内はどんな処遇だったのか? 記憶のないことが惜しい。覚えていれば、今後の弁護活動の役に立ったかもしれない。

 松沢病院を出たはいいけど、渋谷にはもう僕の居場所はないように感じた。

 きっと仲間に取り上げられたのだろう、自由に出入りしていたたくさんの事務所の鍵は手元になく、西国分寺アニキアパートにとじこもっているようにと仲間から言われた。

 僕は渋谷に行って、出入り自由だったヤミ金事務所に立ち入ろうとしたけど、どこからも「悪いけど入れるなって言われてるから」と追い返された。

 僕のことを心配したみんなが、シャブに関係するところから引き離そうとしてくれていたのだと思う。しかし、自分がおかしくなっていることを理解できていなかった僕は、この対応に対して非常に疎外感を覚えた。それどころか、自分のシャブの商売も乗っ取られたような気がした。疑心暗鬼になるのも、シャブによくある症状だ。

 西国分寺で3万くらい小遣いを渡されたが、そんなのはその日のうちに使い切った。

「金がなくなったら、連絡をくれればまた持っていく」と仲間に言われていたけど、連絡しなかった。仲間たちに対する不信感と、「街にでれば金はなんとでもなる」という訳のわからない自信で、無一文のまま街をほっつき歩いた。

目の前には怪物や妖怪が…止まらない幻覚

 このときほっつき歩いていた記憶はあるのだが、東京の街がファンタジーメルヘンかみたいな世界に見えていた。

 そこらじゅうに怪物だか妖怪だかがいて、僕だと気づかれると攻撃してくるから、そーっと歩いていた。怪物に気づかれて追いかけられた時は、走って逃げた。

 話しかけてきた人と立ち話をしていたら、急にその人は壁のポスターに変身した。

 走っている車がすべてパトカーに見えて、幻覚だと思って一台の窓をコンコンして話しかけたらやはりパトカーだった。

 5分くらい前のことも忘れてしまうから、ポールペンを右手にもっておいて左腕のそこら中にメモ書きした。

 金ももたずに雀荘へ行って、リーチ宣言牌を対面のお客さんに投げつけて叩き出された。

 ビルから飛び降りようとしている警備員を見つけて止めようと話しかけたら、逆に飛び降りないように説得された。

 とにかく、どれもめちゃくちゃすぎて思い出すだけで気持ち悪くなる。死ななかっただけよかった。

 ファンタジーの世界をほっつき歩いてるうちに携帯も財布もすべてなくし、僕は途方にくれた。携帯がなくては仲間や事務所に連絡することもできない。一家の事務所に電話するなりなんらかの方法もあっただろうけど、このときの僕は事務所の電話番号すら思い出せない状態だった。

「10万あればまたシャブを仕入れて売りさばいてすぐに元の状態をとりもどせる」と、携帯もないくせにこんな考えにとりつかれていた。僕は10万を借りるため友人の家に行こうと府中街道でタクシーをひろった。

 そして、このタクシーに乗ったのが表の世界へ戻るきっかけとなった。

 あのときのタクシー運転手は天の使いだったんじゃなかろうかと、妄想めいた思いがいまだにめぐる。

 僕は友人の家の住所もわからなかったから、「右行け」だの「左曲がれ」だのぐるぐるしているうちに、様子のおかしさを運転手に見抜かれて、交番に連れていかれた。

 交番でタクシー代を立て替えてもらい、警察官に訳のわからない事情を一生懸命に説明した。

「誰かタクシー代を払ってくれる人はいないのか?」「家族は?」と聞かれて、僕は仕方なくいわき市の実家の電話番号を答えた。実家の番号だけは不思議と覚えていた。

 実家の母親は相当驚いていた。何年も連絡をよこさなかった息子のことで、急に警察から「息子さんの様子がおかしい」「タクシー代を払ってほしい」と連絡がきたのだから、当たり前だ。

 母は「タクシー代をもっていきますから、そのまま息子をそこにいさせてください」と警察に頼んで、東京にいた僕の従姉妹2人に連絡した。

 数時間後、従姉妹2人が迎えに来てくれて僕は無事に交番から解放された。従姉妹に金を貸してほしいと頼んだところ、「一度実家に帰ったほうがいいよ」と説得された。タクシー代も払えず金を持ってきてもらった立場の弱さもあり、僕は実家へ帰ることに同意して、一緒に母親が迎えにくるのを待った。

 従姉妹たちには本当に感謝だ。おかげでこちらへ戻ってこられた。

 このとき、どういう流れか立川で従姉妹2人とジブリの映画を見たのだが、映画の途中で気分が悪くなってトイレで吐いたのを覚えている。吐瀉物はドス黒くて気持ちが悪く、あのとき僕のなかに巣食っていた悪いものを吐き出せたんじゃないかと感じている。

いわき市精神病

 母が東京まで迎えに来てくれて、いわき市の実家へ帰った。

 母は完全に頭がぶっこわれていて訳の分からないことばかり話している僕の姿にかなり驚いたようだ。背中の刺青を悲しんでいた。

 母と叔母さんとにいわき市内の精神病院へ連れて行かれて、入院させられた。もちろん僕は入院を嫌がったのだが、ぶっとい注射を打たれて、気づいたらオリ付きの部屋だった。

「医療保護入院」と言って、家族の同意がある場合、本人の同意なしに入院をさせられるという手続きだったようだ。短期間の間に、松沢病院の「措置入院」、この精神病院の「医療保護入院」という2つの強制的な入院手続きを経験した。なかなか貴重な経験だ。

 弁護士になってから何度か精神病院の入院手続きを扱ったのだが、そのときに、当時の自分が入院させられた手続きをよく理解することができた。

トイレおまるで窓もない部屋

 最初に入れられた部屋は、いま思い出してもトラウマだ。

 オリにとじとめられた独居部屋で、窓がない。部屋の広さはそこそこあったけど、おそろしく冷たい床に1畳だけ畳が敷いてあってそこが寝床だった。

 トイレおまるだ。留置場でも保護房は経験していたけど、トイレはあった。おまるで用を足すことに、ひどく尊厳を踏み躙られる気分だった。でも、強い安定剤(?)が効いていたから文句を言う元気もなかった。

 1週間くらいで普通の閉鎖病棟に移ったけど、あそこに半年いたら自殺していたと思う。普通の感性なら、死にたくなるようなところだ。

 閉鎖病棟にうつると、公衆電話で電話をかけることができた。毎日のように誰かが警察へ電話して、「助けてください。殺されそうです」と訴えていた。警察は相手にしていなかった。

 僕はアニキに電話して、「渋谷の一家に戻りたい。隙を見て病院を逃げ出すから迎えに来てほしい」と頼んだ。アニキは、「しっかりシャブをぬいて、元気になってから戻ってこいよ。あせらなくていいよ」と優しく諭してくれた。

 僕は、逃げ出したりすることをあきらめて、病院職員に従順な態度をとることにした。逃げ出すのではなく、なるべく早い退院を目指すという方針に切り替えたのだ。

 アニキから一家を「破門」されたと言い渡されたのは、その3カ月後くらいだった。僕からアニキに電話をしたら、「月寄りでひとまず破門することになった。シャブで下手うったんだから破門されるのは仕方ない」とのことだった。「また戻れるようにしてやるから、しばらく辛抱しておけな」とも言われた。

 この「破門された」という通告は、なかなかにショックだった。退院したら渋谷に戻ってヤクザを続けるつもりだったから、突然戻るところをなくしたという喪失感があった。

 しかし、一家から破門されたおかげで、退院後は実家に戻ることを決められたし、ヤクザで成功するという人生の目標を失ったからこそ、宅建の勉強を始めることもできた。

 週1くらいで売店に行って、お菓子ジュースの買い物をできるのが一番の楽しみだった。売店に行けるというのは、刑事施設では考えられないくらい嬉しい処遇だった。

 売店は病院の中だったけど、ほぼシャバの空気だった。缶のコーラをプシュッとしてゴクゴクッと飲むと、缶ビールを飲んでいるような気分を味わえた。

 他の患者たちと整列して連れ立って売店にいく。僕が嬉しそうに整列している姿をみて「悲しくて涙がでた」と母がいまだによく言っている。子どもが幸せそうにしている姿を見て親が心を痛めるというレアケースがここにあった。

 この病院で処方されていた精神薬は、僕には弱く感じた。前述の通り、精神薬中毒でもあった僕には、満足できる強さでなかったのだ。「もっと強いクスリをください」と何度も医師に頼んだけどダメだった。

ヒマつぶしに始めた資格勉強

 シャブボケの症状は、入院して1カ月くらいでほぼ消えた。ボケていたときの幻覚の記憶のせいでまだ錯乱しているように見えたようだけど、脳の機能はかなり回復していたと思う。

 薬ばかり求める僕に対して、医師から「クスリに頼らないで、何か趣味みたいなことをしなさい」と言われた。

 僕は、宅建の資格の勉強をすることにした。母が宅建の資格をもっていたこともあったし、ヤクザをやめて目標を失った僕は、とりあえず不動産の知識を入れておけば退院後に役立つだろうと考えたのだ。

 そして、何よりやることがなさすぎてヒマだった。入院中にはじめたヒマつぶしが資格試験の勉強スタートということだ。

 しかし、宅建のテキストを母に買ってきてもらっただけで、勉強はまったく進まなかった。ヤクザが勉強を始めるというのはそう簡単なことではない。それに、常に誰かの叫び声が響いているような環境で勉強する気になれなかった。(#1から読む)

(諸橋 仁智/Webオリジナル(外部転載))

かつて薬物中毒者だった弁護士の諸橋氏。彼が語った「精神病院時代の記憶」とは?(画像:本人提供)