
1982年の盛夏、ミスコンの最終審査に選ばれた10人の女子大生。彼女たちが戸惑いを隠せなかった「驚きの選考方法」とは?
ヌードモデル、AV女優、そして歌舞伎町のバーのママという異色のキャリアを歩んできた中村京子さんの人生を、作家・本橋信宏氏の最新刊『歌舞伎町アンダーグラウンド』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「別れた男には優しいかも」「カウンターに、付き合ってた男たちが3人並んだことありましたよ。めんどくさいから、昔付き合っていたこといいますよ。わたしって、別れた男には優しいかも」
新宿ゴールデン街「中村酒店」のママ、中村京子がカウンターのなかから語りかける。
何の悩みもなさそうに語尾を伸ばす、80年代女子大生特有の言葉遣いがまだ生き残っている。
通説ではあるが、売春行為を黙認する区域を警察が地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街を俗に「赤線」と呼んだ。これに対して特殊飲食店の営業許可なしに、普通の飲食店の営業許可のまま、売春行為をさせていた区域を地図に青い線で囲み、「青線」と呼んだ。
中村京子の中村酒店は旧青線地帯、新宿ゴールデン街にある。
1階が極小空間の飲み屋、2階は青線時代の名残、娼婦が客を取る部屋で、現在は2階も別の店が営業している。
ここは長屋だから壁一枚で隣の店に連なっている。
人口密集地帯で、安あがりの店が寄りそう。
街には文化人、小説家、評論家、映画監督、俳優、テレビディレクターがやってきた。
ゴールデン街は酒で気が大きくなった彼らの論争の場となり、しばしば腕力に訴える場にもなった。その意味においてきわめて歌舞伎町的であった。
「この店は2002年からはじめたんで、20年になりますね。いい歳になってきたんで、AVの仕事より何か違うことやらなきゃなと思って。この界隈では飲んでなかったんですけど。この店の入口に『貸店舗あります』って貼り紙があったんです。いま、ゴールデン街は大人気だから1年半とか待たないとお店が持てないけど、20年前はまだそんな感じで。たまたま見つけて電話したら7人応募者がいて。大家さんが、女の人にやってほしいということで、すぐにわたしに決まっちゃった」
ゴールデン街のほとんどの店舗には大家がいて、店子に貸し出す形式である。
「大家さんが1万円のお祝い袋みたいのをくれるから、びっくりして。マンションとかアパートを借りるときはそんなことやってくれないじゃない。大家さんの旦那さんは公務員。わたしが家賃払って3年くらいたったら、新宿に大家さんのビル建ってた。家賃収入って大きいなって思って。アハハハ。ベランダ代はわたしが払ってるな」
一説にはゴールデン街の店舗所有権の値段は2、3000万円ともいわれている。
「20年やってきて、景気のほうは山あり谷ありですね。谷はいま(取材時のコロナ第6波)なんだけど。山はラグビーワールドカップのとき。外国人のインバウンド景気がすごくて、この辺は日本人がアウェーみたいになってた。外国人向けガイドブックでゴールデン街のことが紹介されてたり、SNSとかでも広がってるんで。うちもその期間、常連になる外国の人がいた。イギリスの人が多かったかな。1カ月かけて、そこら中にラグビーの試合見にいってた裕福な人も多くて。ニュージーランドの人たちは店の中でハカを踊ったりしてた。アハハハ」
中村京子といえば、Dカップ京子の異名を持ち、80年代『平凡パンチ』をはじめとして数多くの雑誌グラビアのヌードモデルとして活躍した。
80年代は素人がもて囃された時代だった。
その筆頭が女子大生であり、中村京子は第一走者になった。
人生を変えた「にっかつ新人女優コンテンスト」1982年盛夏。
静岡県立大学の女子大生は、ささいなことから同じ大学の彼氏と大喧嘩してしまった。
和歌山県から1人、大学に通うため静岡県までやってきて、最初に付き合った彼氏だった。
女子大生は、彼氏の部屋に積んであった映画雑誌を広げた。
ふーん。こんなのがあるんだ。
ほんとは東京で暮らしたかったんだ。よーし、東京見物がてら、コンテストに出てみよう。彼氏を心配させてやるんだ。
翌週、数年前にできたばかりの池袋サンシャイン60に彼女はいた。ここの大会議室がコンテスト会場だった。
静岡県立大学の女子大生は、スタイルのいいYという出場者と仲良くなった。
「コンテストのために、歯を治したの」
「最後におっぱいを見せてくださいっ!」数十名の参加者が水着になって、審査が進行する。女子大生は、最終審査の10名に勝ち残っていた。
「それでは皆さん、最後におっぱいを見せてくださいっ!」
司会者が大声を発した。
え? 胸?
女子大生は戸惑った。隣のYは平然とブラジャーを外した。ええ? みんな取っちゃうの?
女子大生は大喧嘩したとはいえ、彼氏以外に、胸を見せたことはなかった。公衆の面前で、カメラマンたちのフラッシュの嵐のなかで、脱げというの?
だが勢いというのか、若さというのか、80年代初頭という熱気がそうさせたのか、女子大生も自分でブラジャーを取った。
オーッ!
どよめき。
静岡県立大学の女子大生の乳房は、出場者のなかでもっとも大きかった。まだ巨乳という言葉も一般化されなかった時代である。
のちに彼女は「Dカップ京子」と呼ばれ、Dカップは大きな乳房の代名詞となるのだった。
優勝者は看護師だったが、大事になっていくことに怖じ気づいたのか、当人が賞を辞退し、第2位のYが繰り上げデビューを果たした。
Yは新婚夫婦がアメリカで銃撃され、のちに保険金殺人ではないかとマスコミが大報道したいわゆる「ロス疑惑」騒動に巻き込まれた。被害者の女性が殺害される前に、ホテルで何者かに殴打された事件があった。その加害者がYだったのである。コンテスト出場のとき、すでにYは殴打事件を起こしていたのだった。
コンテストは出場者の人生を翻弄していく。女子大生は惜しくも入賞を逃したが、東京の取材陣からたくさん名刺をもらい、ヌードモデルの仕事が舞い込んできた。
もっとも当の本人はいたってのんきだった。就職活動を控えていたので、彼女は地元静岡で一番給料が高くて夕方5時には帰宅できる消費者金融の入社試験を受けてみた。本人は受かるつもりだったが、甘えんぼうのような語尾を伸ばすしゃべり方がまずかったのか、落ちてしまった。
そのころ、東京でヌードモデルの仕事があった。手取り3万円。女子大生の初任給が14、5万円の時代、これは大きかった。
静岡県立大学生の最初の仕事は、週刊ポストの女子大生ヌードだった。(続きを読む)
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