2020年1月。まだ年が明けて間もないころ、あるニュースがTwitterを中心としたネットコミュニティを賑わせた。

香川県議会が子どものスマートフォンやゲームの使用を1日60分に制限する条例を通そうとしているーー」

【動画】KSB瀬戸内海放送が制作した「検証 ゲーム条例」

 18歳未満の子どもを対象にスマホやパソコン、ゲーム機の使用を平日1日60分、休日は90分までに控え、さらに中学生以下の使用は午後9時まで、それ以外は午後10時までにやめさせる、こうした規定が盛り込まれた「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」(以下、ゲーム条例)という条例の素案が提出されたのだ。

 この条例に対し、Twitterを中心とするSNSでは主に反対的な意見が集中。「科学的根拠が十分でないのでは?」「表現の自由の妨げでは?」「子どもの人権を侵すものでは?」といった批判が飛び交った。またWEBメディアも多くがその問題を指摘した。

 しかし、こうしたネット上での批判があったにも関わらず、ゲーム条例はなんとそのまま可決。批判を受けて条文の中から「スマートフォン等の使用」から「コンピューターゲームの利用」に変更されるなど、矛先を「ゲーム」に逸らしたものの、条文の多くはそのままに「ゲーム条例」は3月18日に可決、4月1日に施工されたのだった。

 原則として、日本において一度可決された条例が覆ったり、変更されることはほとんどない。一応、地方自治法の第七十四条により定められた「直接請求権」ーー選挙権を有する者は、政令で定めるところにより、その総数の五十分の一以上の者の連署をもつて、その代表者から、普通地方公共団体の長に対し、条例の制定又は改廃の請求をすることができるーーは認められているものの、現実的に「50分の1以上の連署」を集めることの難しさ、また集めたとしてもその多くが否決されることを鑑みれば、やはり条例は制定された時点で「手遅れ」である。

 だから、いかにネットで批判されようとも4月につつがなく可決された「ゲーム条例」もまた、常識で考えればまず覆るものではない。だがその「手遅れ」だったとして、条例の問題を検証しなかったり、条例の効力を取材したり、また権力の欠陥を指摘しない理由にはならない。「手遅れ」だからこそ戦い続けることが、本当の意味で“ジャーナリズム”なのではないか……。

 『ルポ ゲーム条例』を執筆した山下洋平は、まさにこの「手遅れの戦い」に挑んだジャーナリストの一人だ。香川に生まれ、東京大学文学部を卒業した後、KSB瀬戸内海放送の記者として四国の様々なスクープを追った山下が「ネット・ゲーム条例」の存在を知った時には、すでに条例は提出され、あとは可決されるのを待つばかりだった。だが条例が可決されるまでも、またされた後も、山下は約3年に渡りこの条例に関する取材を展開。同局にて2020年6月に『検証ゲーム条例』、2022年5月に『検証ゲーム条例2』をそれぞれ放送し、その集大成として2023年4月『ルポ ゲーム条例 なぜゲームが狙われるのか』を執筆した。

 この番組のキャッチコピーは「条例ができたら終わり、ではない」。「終わり」から始まる戦いに挑む、記者たちのジャーナリズムがここには詰まっていた。

■ゲーム条例の問題とは何か、その問題と戦うのは誰か

 「ゲーム条例」は条例が公表された当初から様々な批判に晒され続けてきたが、「批判」と一言に言っても、その論点は様々である。この本でまず注目するべきは、「ゲーム条例とは結局なにが問題なのか」を論理立てて分割、整理している点だろう。

 具体的に、この本で挙げられる「ゲーム条例の問題点」は2つある。ひとつは、特にパブリックコメントの偏りから明らかとなった、条例制定の“不透明かつ恣意的なプロセス”だ。そもそも、この条例は過程や根拠というものに大きな問題があった。今回はそれがたまたま「ゲーム」を扱ったことでネット上で大きな批判を受けたが、仮に「ゲーム」が「スポーツ」や「読書」であってもこの問題は変わらない。本書では主に第1章から第3章にかけて、この問題を追求する。

 まず第1章「全国初の条例ができるまで」では、条例が制定されるに至るまでの歴史的経緯が明らかにされる。2002年に発刊されて物議を醸した森昭雄著『ゲーム脳の恐怖』を皮切りにした「ゲームバッシング」とタイミングを同じくして、2003年に香川県議員に当選した大山一郎がゲーム批判を展開した過程、またそこに教育評論家の尾木直樹や、ゲーム脳の「専門家」こと久里浜医療センターの樋口進、また彼らの言い分を「素直に」報道した四国新聞など、大山を中心にした20年に渡る「ゲーム対策」の経緯が説明されている。

 この章で興味深いのは、かねてよりゲーム条例の中核的人物として槍玉にあげられてきた大山一郎を含む自民党香川県政会を中心に、教育評論家、医療機構、マスメディアといった、ある種のステークホルダー的な権益が「ゲーム依存症対策」を名目に醸成される一方、その間に議論が水面下で進められ続けた結果(ステークホルダー外を排除する形で)、条例という効力が生じる直前で青天の霹靂の如く世間に晒された、“政治と世間の認識のズレ”であろう。

 一方、「香川」がただの「地方」だからどんな条例でも通ってしまうのだという安易な偏見も、山下らは取材を通じて否定する。条例の発表を受けて、まず共産党、そして同じ自民党の議員会メンバーが条例に対して明確に反対意志を表明したこと、さらにリベラル香川の議員たちが熟慮の末に議場を退室したことに触れ、地方議会の中にも「県民や世論のための熟慮」が必要と考える議員がほぼ半数もいたことに触れている。とはいえ、僅差で大山ら県政会が条例を通過させることに成功する。

 次に山下らは、パブリックコメントへの疑惑を第2章「条例制定過程を検証する」で投げかける。たしかに「ゲーム条例」は可決されたが、それでもパブリックコメントの公募がある。パブリックコメントとは行政手続法、第三十八条から第四十五条に定められた制度であり、「命令等を定める場合に、当該命令等の案及びこれに関連する資料をあらかじめ公示し、意見の提出先及び意見の提出のための期間を定めて広く一般の意見を求めなければならない」というものだ。

 一度可決された条例を改廃するには、冒頭で述べた地方自治法の直接請求をするほかない。しかし、可決される直前のパブリックコメントで市民の意見を盛り込むことができれば、少なからず内容を変更できるかもしれない。事実、ゲーム条例のパブリックコメントには異例ともいえる2686件もの意見が寄せられ、「手遅れ」となった後もなお引き下がらない民意が現われていた。

 しかし、そのコメントのうち8割は、「賛成します」「賛同します」「明るい未来を期待します」といった意見というより、ただ賛意を露わにした極めて短いものばかり。しかもコメントのうち、「ご感て想」という同じ誤字が24件あったことなど、明らかに不自然なまでの一致を見せるものも多々あった。大山ら自民党県政会は長らくパブリックコメントの内実を「個人情報保護のため」として明らかにしようとしなかったが、いざ明るみになると不気味なまでに偏ったコメントばかりが集い、まして大山らはこれを根拠に「賛成8割」と自分たちの正当性を主張していた。

 本来であれば市民が政治の建設的な議論をするためのパブリックコメント制度。ところが、実際には特定の人々による不正と疑われても仕方ない形で利用され、ましてそれを根拠に「民意」とする議員の存在は、現代日本における民主主義の腐敗が水面下で進んでいることも疑わざるを得ない。山下自身が冒頭で「それは決して『一地方の話』ではない。国全体が抱える課題や社会のひずみは、まず地方に現れる」と語るように、“香川以外で同じことが起きていない”と言い切れないのだから。

 パブリックコメントの衝撃的な内容に愕然としながらも、第3章「高まる条例への疑問の声」で、山下らは条例に疑問を挙げる「県民」に着目する。最初に着目したのが、高松市の高校に通う「渉さん」。渉は条例の撤回を求める署名を手に、学業の合間を縫って大山ら議会への疑問を投げかける。とりわけ、「規制の対象となる学生を検討委員会に呼ばなかった理由」を当事者として尋ねる姿には、ゲームに日常的に親しむ学生たちを代表する正論が籠められていた。

 条例に疑問を投げかけたのは学生ばかりではない。まず、高松市長の大西だ。大西は「依存対策には一定の意義がある」としながらも、一律時間を規定することの有効性や、オープンな場で検討されなかったことは「残念に思う」と、行政側として異例の対応を行った。より驚くべきは、香川の約200人の弁護士が所属する「香川県弁護士会」が「ゲーム条例の廃止、特に本条例18条2項についての即時廃止」を求めたことである。弁護士会が条例に反対するだけで異例だが、まして「即時廃止」を求めることなど過去ほとんど例がない。
(※18条2項:時間規定を保護者に求める項)

 第1章から第3章にかけて、特にゲーム条例を推進する側の傲慢さ、直截に言えば民主主義の軽視は、読んでいるこちらが腹立たしくなるほど詳しく描かれている。それだけで、21世紀の民主主義を憂う人々にとって本書は必読と言えるだろう。しかし、なによりもこの本を読んでいて胸が打たれるのは、こうした惨状を「地方だから仕方ない」(あるいは、日本だから仕方ない)と自嘲を交えてただ否定的に報道するのではなく、香川県議会議員、高松市長、香川県弁護士会、KSB朝日新聞らのジャーナリスト、そして一人の高校生が戦う雄姿である。

 ゲーム条例を追い続けた山下洋平が、内心で大山らの民意を軽視する姿勢に怒りを抱いたことは、想像に難くない。しかし、本著はただ一方的に怒りをぶつけるのでなく、あくまで冷静に事実を羅列し、問題を俯瞰し、原因を究明しようとする謙虚な姿勢が現れる。一方、条例に戦う人々の姿も取材し、憎悪ではなく善意で捉えようともする。これこそ、現代において求められるジャーナリズムの姿勢ではないだろうか。

■ゲームのために戦う

 本著が指摘する「ゲーム条例」の2つ目の問題が、そもそも「ゲーム脳」や「ゲーム依存症」「ゲーム障害」といった、ゲームに依拠する疾病に果たしてどこまで実害があるのか、またそれに対してゲーム条例で掲げられる「ゲームの利用時間制限」といった行動が果たしてどこまで影響があるのかといった根拠の乏しさ、ゲームに対する偏見である。これは主に第4章から第5章で語られる。

 まず第4章、「ゲームは悪者なのか」ではゲームクリエイター、業界関係者、またゲームを愛好する県民らの立場から、ビデオゲームに対する偏見への反駁が行われる。ゲーマーやクリエイターといったゲームの当事者自らの憤りや問いかけ、研究者など(大山らが想定しない)「専門家」による「ゲーム障害」への疑問もしっかりと記載されていた。

 中でも胸を打ったのが、サウンドプログラマーとしてゲーム開発に携わる岩本翔の「『ハマり続けて抜け出せなくなるゲーム』などというものはゲームを作ったことがない人の幻想でしかない」という主張。これには筆者も心の底からうなずいた。いつまでも楽しく遊べるゲームを作ることがどれほど難しいか、またそれにどれほどの技術、情熱、能力が詰め込まれているのか……。仮にも「技術大国」とかつて謳われた日本で、そんな想像すら出来ないということが、情けなくてままならない。「舐めるな」という一言に尽きる。

 第5章、「問われる条例の是非」では条例可決後を巡り、渉さんをはじめとする2つの条例を巡る裁判、ほかの都道府県への影響、また香川県内での教育の変化が紹介される。冒頭で述べた通り、すでに可決されてしまった以上「手遅れ」になったものの、それで諦めることなく食い下がる報道、また関係者の戦いが追われており、「条例ができたら終わり、ではない」の精神が反映された章となっている。

 なお、我田引水となってしまうが、筆者も当時、ゲーム条例の他県への影響について取材している。取材したのは当時、東京都議会議員の栗下善行。本書で紹介されなかったものの、ゲーム条例にもSNSでいち早くコメントを出し、都議会の中でも再三、当時の小池都知事に対して本件の再考を訴えた。

 本書でも触れられているように、小池都知事は当初、ゲーム条例にやや肯定的な意見を出していたものの、11か月後には「科学的根拠に基づかない内容で、条例による一律の時間制限などを行うことは考えてない」と見解を改めている。このように、香川県外において栗下のようなゲーム条例に疑問を呈する議員たちの戦いが、条例の全国的波及を辛うじて防ぐことに貢献していたことも、筆者個人の取材経験から触れておきたい。

(参考:電ファミニコゲーマー香川県「ゲーム規制」が全国に波及する可能性── 規制に反対する若手都議に問題の本質を訊いた」https://news.denfaminicogamer.jp/interview/200321a)

■ゲーム条例で終わり、ではない

 『ルポ ゲーム条例 なぜゲームが狙われるのか』は、令和を迎えた日本における政治と社会を考えるうえで、極めて重要な一冊である。一見すると「ゲームと香川」というピンポイントな題材を扱っているようで、その本質は、現代日本における特定の人々や文化に対する偏見、またそうした偏見を公権力によって強引に制度化しようと試みる民主主義の腐敗、またそれにポジティブに抵抗しようとする主に若者を中心とした新しい勢力と、極めて普遍的なものだった。

 とりわけ、著者の山下が「条例ができたら終わり、ではない」と、もはや「手遅れ」同然の問題を報道し続けたジャーナリズム精神そのものが、現代日本におけるジャーナリズムを考える大きな転換点となっているのも興味深い。戦後から全国紙やテレビが続けてきたイデオロギーベースの過激かつ迅速なジャーナリズム精神とは異なり、ただ批判だけではなく肯定的な姿勢も伝え、「手遅れ」になっても粘り強く訴えるというのは、冷戦終結後、インターネット時代における新たなマスコミのスタンスと言えると思う。

 筆者自身、自分が置かれた世代の空気から、もはや若者たちが日本の未来を楽観視できる時代ではなくなったことを、ヒシヒシと感じる。そしてこの日本における絶望は、突然にして好転したり、あるいは破滅に至ることなく、真綿で首を締めるようにゆっくりと、着実に私たちの生活と幸福を蝕んでいくことだろう。だがいくら絶望しても「終わり、ではない」。それでも地味に抗い、暗闇ではなく光を探すことで、「私たちが私たちらしく生きる社会」を作ることは可能なのだと、この本から感じた。

(文=ジニ(Jini))

『ルポ ゲーム条例』