ウクライナの大規模な反転攻勢はいつ始まるのか。
ロシア国防省は、6月5日、ウクライナ軍が大規模な反転攻勢を開始したと発表した。
一方、ウクライナのマリャル国防次官は6月4日、SNSで反転攻勢について、「計画は沈黙を愛する。開始の宣言はない」と述べた。
ウクライナ軍の大規模な反転攻勢は、既に沈黙のうちに大きく動き始めている可能性がある。
元産経新聞モスクワ支局長の佐々木正明氏は、「今回の反転攻勢は天王山。失敗すると、西側は兵器供与をやめて、領土奪還できないまま停戦を促すかも」という最悪のシナリオを述べている。
筆者の見立ても佐々木氏とほぼ同じである。
筆者は、ロシア・ウクライナ戦争の長期化は避けてほしいと思っている。是非とも、今回の大規模な反転攻勢で、ウクライナ軍が大勝利して、停戦交渉又は和平交渉を開始してほしいと思っている。
これまで4回の対面での交渉と1回のオンラインでの交渉が行われた。
最後の第5回目の交渉は、3月29日、トルコの仲介によりイスタンブールで開催されたが、いまだウクライナ戦争の終結に向けての和平交渉再開への道筋が見えてこない。
さて、本稿では戦争の終結の方法について過去の歴史を振り返り、ロシア・ウクライナ和平交渉の見通しを探ってみたい。
初めに、一般的な戦争終結の流れについて述べ、次に戦争終結の実例として、朝鮮休戦会談と日露講和会議について述べ、最後にロシア・ウクライナ和平交渉の見通しについて述べる。
1.戦争終結の流れ
伝統的な戦争終結方法は、休戦交渉、休戦協定の締結、和平交渉、平和条約(または講和条約)という経緯をたどるとされる。
ここでの休戦協定は、和平交渉の間の敵対行為を停止させる軍事的側面にとどまり、和平交渉が決裂すれば敵対行為が再開される。
また、休戦には全般的休戦と部分的休戦がある。
これに対し、平和条約は領土や賠償など武力紛争の政治的・経済的・社会的側面を包括的に扱うものであり、和平交渉が成功した結果として締結され、これにより戦争は終結する。
しかし、現実はその通りにはなっていない。
後述する朝鮮戦争では、休戦協定が締結されたが、平和条約は未だ締結されていない。
また、日露戦争では講和会議の最終段階で休戦協定を締結している。
ちなみに、「停戦」であるが、「停戦」と「休戦」は、同じ意味で使われることも多く、違いはそれほどはっきりしていない。
2.戦争終結の実例
(1)朝鮮休戦会談
本項は、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会斎藤直樹著「朝鮮戦争の休戦会談と休戦合意についての一考察」を参考にしている。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、3年間の闘いの末、1953年7月27日には休戦協定が締結された。
1951年7月10日に休戦会談の第1回本会議が開城で始まった。中朝合同軍側の首席代表は、北朝鮮人民軍総参謀長南日大将であった。
他方、米国連軍側の首席代表は、米極東海軍司令官チャールズ・ターナー・ジョイ中将が務めた。
①議題の採択。
②朝鮮半島における休戦の前提条件として非武装地帯を設立のための軍事境界線の設定。
③休戦の条件を実施する監督機関の構成・権威・機能を含め、朝鮮半島における休戦の実現に向けた取り決め。
④捕虜に関する取り決め。
⑤双方に関与する諸政府に対する勧告。
議題が決着するやいなや両陣営は鋭く反発し合った。まず俎上に載ったのは軍事境界線を侵攻前の北緯38度線に固定すべきか、あるいは両軍が実際に対峙している接触線とすべきかであった。
●軍事境界線を巡る論争
軍事境界線を38度線としなければならないと力説したのが南日大将であった。
南曰大将曰く、38度線へ復帰することになれば、南北とも戦前の現状を回復することができることから、いずれの側にとっても不都合とはならないはずである。
不用意な武力衝突を防ぐ意味から38度線に沿うように幅20キロの非武装地帯(DMZ)を設置することが相応である。
これに対しジョイ中将は猛反発した。
ジョイ中将によれば、1950年6月に戦闘が発生して以来、13か月で幾度も両軍が38度線を往ったり来たりした現実に照らし、38度線は架空のラインに過ぎずいかなる正当性もない。
軍事境界線は軍事的に見て明白な根拠に基づかなければならない、それゆえ38度線でなく両軍が対峙する実際の接触線に基づくのが妥当であると強く主張した。
しかし数週間で双方は当時実際に対峙していたカンザス線(Kansas Line)で合意した。
休戦協定第1条により、南北朝鮮を分断する全長155マイル(約248キロ)の軍事境界線(MDL:Military Demarcation Line)が設けられた。
軍事境界線は南北朝鮮が調印当時に事実上対峙していたカンザス線を引き継いだものである。
また、軍事境界線に沿って南北にそれぞれ約2キロの幅で非武装地帯(DMZ:Demilitarized Zone)が設定されている。
●捕虜交換問題
1952年5月までに5件の議題のうち4件について妥結をみた。残る議題は捕虜交換問題となった。
同問題を巡り双方が激しく対立したため、休戦合意への展望は遅々として開かれなかった。捕虜送還をどのように行うかが交渉の問題でもあった。
共産側には1万人以下、国連軍には15万人の捕虜がいた。
捕虜の待遇に関する1949年のジュネーブ協定第118条によれば、戦争捕虜は敵対行為の終了後、遅滞なく解放され、かつ本国に帰国しなければならないとある。
この規定を盾にすべての捕虜が交換されなければならないと共産側が頑強に主張したのに対し、米・国連軍側は交換対象となるのは自発的な帰国を希望する捕虜に限定されるべきだと激しく反駁した。
捕虜交換問題には次の特殊な事情があった。
朝鮮人民軍の侵攻後に捕虜となった韓国軍捕虜の多くは人民軍に編入された。ところが、その兵士が米・国連軍によって拘束されるという状況が生まれた。彼らは、韓国側に引き渡されるべきだと強く希望した。
また、中国人民志願兵の捕虜の中に蒋介石率い国民党軍の元兵士が少なからず含まれていた。彼らは台湾への移送を希望した。
ところで、1952年4月上旬、米・国連軍によって拘束された約17万人の捕虜に対し本国への帰国を希望するかどうかについて調査が行われた。
面談に応じた10万6000人のうち、本国への帰国を希望した捕虜の数は7万人にとどまった。これは共産側にとっては威信と面目にかかわる数字であった。
これに憤慨した共産側は、ジュネーブ協定第118条に従い、すべての捕虜が帰国しなければならないと突っぱねた。これにより休戦協議はまたしても閉塞状態へと陥った。
最終的な休戦合意では、送還問題を処理する中立国送還委員会が設立された。
休戦協定は捕虜に関する規定も設けた。
「この合意が発効してから60日以内にいかなる妨害を受けることなく当事者は直接捕虜の送還を行い、纏めて捕虜にした側に送還を求める捕虜すべてを引き渡す」と規定した。
結局、北朝鮮や中国の兵士2万2000人が送還を拒否した。一方、韓国の兵士327人と米国の兵士21人、英国の兵士1人も送還を拒否し、北朝鮮や中国に残った。
その後戦況は米国が核兵器使用を検討するほど泥沼化したが、1953年に転機が訪れた。
1月に米大統領がハリー・トルーマン氏からドワイト・アイゼンハワー氏に交代し、旧ソ連では最高指導者のヨシフ・スターリン共産党書記長が1953年3月5日に死去したのである。
共産主義陣営を主導してきたスターリンが死去したことで残された毛沢東は、ようやく戦火を収めることに同意した。
その後、休戦交渉が進み、1953年7月19日に休戦に関するあらゆる問題について合意に達した。
1953年7月27日、休戦協定は朝鮮人民軍代表兼中国人民志願軍代表南日と国連軍代表ウィリアム・K・ハリソン・Jrにより署名された。署名から12時間後に休戦協定は発効した。
また同日午後、汶山里近郊の基地において、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将により正式署名された後、金日成と彭徳懐のもとに送付され、その署名を経てすべての手続きは完了した。
休戦協定は、「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」と規定した。
しかし、「最終的な平和解決」(平和条約)は、現時点でのいまだ成立していない。
(2)日露講和会議
本項は、アジア歴史資料センター「日露戦争史」を参考にしている。
日露戦争は、日本とロシアとの間で1904年2月に開戦。セルドア・ルーズベルト米大統領の仲介で1か月にわたる講和会議が行われ1905年9月、日露戦争を終結させるポーツマス条約が結ばれた。
このとき和平交渉に尽力したルーズベルトは、1906年にノーベル平和賞を受賞している。
ア.講和交渉
1905年8月10日、仲介を務めたルーズベルト米大統領が指定したポーツマスにおいて、小村寿太郎外務大臣、セルゲイ・ヴィッテ元大蔵大臣を日露両国の首席全権とする日露講和交渉が開始された。
交渉にあたり、日本政府は閣議で講和条件案を決定した(1905年4月21日)。
8月10日の第1回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してヴィッテの了解を得た。小村がヴィッテに示した講和条件は次の12箇条である。
①ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。
②ロシア軍の満洲よりの全面撤退、満洲におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。
③満洲のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。
④日露両国は、清国が満洲の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。
⑤ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。
⑥旅順、大連およびその周囲の租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交付すること。
⑦ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交付すること。
⑧満洲横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設に伴う特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。
⑨ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。
⑩損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。
⑪ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。
⑫ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。
このなかで、①韓国を日本の自由処分に委すこと、②日露両軍の満州撤兵、⑥および⑦ロシアが清より得ている遼東半島租借権およびハルビン-旅順間の鉄道譲渡の3点が「絶対的必要条件」として重視されていた。
それに対してヴィッテは、8月12日午前の第2回本会議において、②③④⑥⑧については同意または基本的に同意。
⑦については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」。
⑪については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」。
⑫に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、⑤⑨については、不同意の意を示した。
この日は、①の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた。
すべての会議開催日程は次の通りである。
8月9日 非正式予備会議
8月10日 第1回本会議
8月12日 第2回本会議
8月14日 第3回本会議
8月15日 第4回本会議
8月16日 第5回本会議
8月17日 第6回本会議
8月18日 秘密会議、第7回本会議
8月23日 秘密会議、第8回本会議
8月26日 秘密会議、第9回本会議
8月29日 秘密会議、第10回(最終)本会議
9月1日 非正式会見(当日2回開催)
9月2日 非正式会見(当日2回開催)
9月5日 講和条約調印
第6回本会議までには日本側の求める講和の条件はほぼロシア側も認めるところとなっていたが、樺太割譲、賠償金の支払い、ロシア艦艇の引渡しおよびロシアの極東における海軍力の制限の4点をめぐって対立が続いた。
特に樺太の割譲と賠償金の獲得は、日本の国内世論が強硬化していたこともあり日本側としては譲れない条件となっていた。
(当初は「比較的必要条件」という位置づけであった)
このため一時は交渉決裂も危惧されたが、日本側は賠償金断念・樺太の割譲は南半分のみと譲歩し(第8回本会議)、講和成立を優先させた。
8月29日の第10回本会議で日露双方は講和条件に合意し、その後の非正式会見による調整を経て9月5日午後3時に日露講和条約の調印式が執り行われた。
講和内容の骨子は、以下の通りである。
①日本の朝鮮半島における優越権を認める。
②日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満洲から撤退する。
③ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
④ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
⑤ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
⑥ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
日本は1905年10月10日に講和条約を批准し、ロシアは10月14日に批准し、批准交換は11月25日に行われた。
イ.休戦議定書の調印
ポーツマスの日露講和会議では、講和条約の交渉と並行して、戦闘行為をいつどのように停止するかについても話し合われた。
講和交渉が始まった当初、日本は休戦を提議しないことや、ロシアから提議がなされるまでは軍事行動を計画どおり継続する考えであった。
その後、日露両国の委員や米大統領との間で様々なやり取りがなされたが、議定書の締結につながる話し合いが始まったのは、会議の最終盤にあたる8月29日であった。
まずロシア首席全権委員のヴィッテが休戦を提案し、日露双方が協定案を持ち寄って話し合った結果、1905年9月1日に日露間で合意されたのが「休戦議定書」である。
ただし、この合意によって戦闘がただちに停止されたわけではなかった。
休戦の具体的な条件については、議定書の第5条と第6条により、両国の軍司令官が講和条約調印後に決定することになっていた。
9月5日に日露講和条約が調印されると、各司令官に対して休戦が命令されるとともに、9月7日に東京で休戦条約が発表された。
そしてこれ以後、満州、韓国、海上の3方面で軍司令官による休戦条件の交渉が開始された。
満州方面の休戦協定は、福島安正陸軍少将、オラノフスキー陸軍少将を委員として、9月13日に中国遼寧省昌図郊外の沙河子で調印され、9月16日正午までに休戦を実施することになった。
韓国方面では、9月16日に双方の委員が会見したものの協定締結には至らず、その後事実上の休戦状態になった。
海軍では、第二艦隊司令官島村速雄と露国艦隊司令官エッセンが委員となり、9月18日までに朝鮮半島北東部の羅津浦港外で交渉が行われ、「海上休戦地域劃定に関する協約書」が合意された。
以上で、日露戦争は終結した。
3.ロシア・ウクライナ和平交渉の見通し
(1)仲介者
現在、中国の習近平国家主席とブラジルのルラ・ダシルバ大統領が和平交渉の仲介に意欲を示しているが、両者ともロシア寄りの言動をとっており、筆者は両者とも不適格であると考える。
和平交渉の仲介者は中立でなければならい。そこで、筆者は国連とトルコによる仲介を期待したい。
2022年7月、国連とトルコの仲介で、同年2月のロシアのウクライナ侵略以降、途絶えていたウクライナの穀物輸出が、国連、トルコ、ウクライナ、ロシアによる4者合意により黒海を通じた輸出を再開した。
この4者合意による穀物輸送の航路の安全確保というのはある意味で休戦協定である。
国連とトルコには、この4者合意を取り纏めた経験を生かして、和平交渉にも頑張ってほしい。
本来、和平交渉は、当事国が直接交渉すればよいのであるが、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ロシア軍がウクライナ領から撤退しない限りロシアと対話しないとの立場を明言しているので、仲介者がいないと交渉は始まらないであろう。
(2)早急に開始すべき部分的休戦協定
6月6日、ロシアが占拠するウクライナ南部ヘルソン州のカホフカ水力発電所のダムが爆破された。
ジュネーブ諸条約の第1追加議定書の第56条(危険な力を内蔵する工作物および施設の保護)は、次のように規定している。
危険な力を内蔵する工作物および施設、すなわち、ダム、堤防および原子力発電所は、これらの物が軍事目標である場合であっても、これらを攻撃することが危険な力の放出を引き起こし、その結果文民たる住民の間に重大な損失をもたらすときは、攻撃の対象としてはならない。
明らかな国際法違反である。国際法はいとも簡単に踏みにじられている。
さて、ウクライナのザポリージャ原発は現在ロシア軍が占拠していて、今後も周辺で激しい戦闘が予想されることから、事故などの危険性が高まっている。
国際社会は、できる限り早くザポリージャ原発の安全確保のためザポリージャ原発周辺地域の休戦交渉を開始しなければならない。
この休戦交渉の仲介役は、穀物輸送船の航路の安全確保に成功した国連(IAEAを含む)とトルコに期待したい。
この際、交渉対象にはチェルノブイリ原発も含めるべきである。
原子力周辺地域に限定した休戦協定であれば、ロシアとウクライナ両者の妥協点を見つけることも可能であろう。
原子力事故の怖さを知っている日本が、この休戦交渉の早期開始を国際社会に訴えるべきである。
筆者は、この休戦が成立した場合には、国連は総会決議により第1次国際連合緊急軍のような平和維持部隊を派遣すべきであると思っている。
(3)休戦交渉または和平交渉
これから始まる大規模な反転攻勢でウクライナ軍が大勝利を収めれば、ウクライナは休戦協定または和平交渉を有利に進めることができる。
休戦協定になるか和平交渉になるかは、ウクライナ軍が反転攻勢でどの程度失地を回復できるかである。
2つのシナリオが考えられる。
第1のシナリオ:
ウクライナの攻勢を受け、大部分のロシア軍がウクライナ領土から撤退する。この場合は和平交渉が開始される。
第2のシナリオ:
ウクライナの攻勢にもかかわらず、ロシア軍がほぼ現在の占領地を維持する。この場合は休戦交渉が開始される。
休戦交渉も和平交渉も仲介者は国連とトルコで、場所は第5回停戦交渉が行われたイスタンブールである。
ア.シナリオ1の和平交渉の場合
主要協議事項は、①捕虜と強制移住者(子供を含む)の返還、②ロシア軍のウクライナ領内からの撤退、③ロシアがウクライナに払う賠償金および④戦争犯罪等の処罰となるであろう。
①については、捕虜等に対し本国への帰国を希望するかどうかについて直接確認するために朝鮮休戦協定のような中立な送還委員会を設立する。
②については、ウクライナは、ロシア軍のウクライナ領土からの完全撤退を要求するであろう。
一方、ロシアは、クリミアの併合承認や、親ロシア派の武装勢力が事実上、支配している東部ドンバスの独立承認などを求めてくるであろう。
最後までロシアが譲歩せず、ウクライナが和平交渉の成立を優先するならば、筆者の考える妥協点は、ロシア軍は2月の侵攻開始前のラインまで撤退し、クリミアの併合承認や東部ドンバスの独立承認の問題は今後15年間で、外交交渉で問題解決を図るとするしかないであろう。
③については、戦争による損害の賠償金は通常、敗戦国が支払うが、ロシアは敗戦国の立場を認めず、支払いを拒否するであろう。
2022年9月、ウクライナのシュミハリ首相は、7500億ドル(約103兆円)が必要になるだろうと述べた。
ウクライナはこのような巨費を単独では調達できないし、ロシアからの賠償金も当てにできない。
よって、世界銀行、欧州投資銀行(EIB)、欧州復興開発銀行(EBRD)といった国際開発機関が資金供給する必要がある。西側各国政府(日本を含む)、欧州連合(EU)の貢献も求められるであろう。
④戦争犯罪等の処罰については、自国で裁判可能な場合以外は、国際刑事裁判所(ICC)に捜査を付託するしかない。
ICCは、「集団殺害犯罪」「人道に対する犯罪」「戦争犯罪」「侵略犯罪」を行った個人を裁く、常設かつ独立した裁判所である。
2023年3月17日、ICCは戦争犯罪の容疑でロシアのウラジーミル・プーチン大統領に逮捕状を発出した。
しかし、ICCは容疑者不在の「欠席裁判」を認めないため、訴追には容疑者の逮捕と引き渡しが不可欠である。
ウクライナはプーチン容疑者をICCに引き渡せと要求するであろうが、プーチンが失脚しない限りその可能性はほとんどない。
イ.シナリオ2の休戦交渉の場合
休戦協定は、最終的な平和解決が成立するまでウクライナの領域(領土・領空・領海)における戦闘行為の完全な停止を保証するものである。
主要協議事項は、①捕虜と強制移住者(子供を含む)の返還、②休戦ラインの設定、③休戦を監督する機関の設定となるであろう。
①については、上記和平交渉と同じである。
②については、ウクライナは昨年2月24日の侵攻開始前のラインを要求するであろう。一方ロシアは現在の両軍が対峙している接触線を休戦ラインにすることを要求するであろう。
ここで、仲介者である国連、トルコの役割が重要である。
国際法を順守するようにロシアを説得できるかどうかである。両者が譲歩しない場合は、休戦交渉は決裂するであろう。
③について筆者は、国連は総会決議により第1次国際連合緊急軍のような平和維持部隊を派遣すべきであると思っている。日本もこの平和維持軍へ要員を派遣するべきである。
さて、話は変わるが、ゼレンスキー大統領はロシアによる再侵略の防止のために「キーウ安全保障協定」を提案していた。
具体的には、「キーウ安全保障協定」と呼ばれる法的拘束力のある条約を米欧やカナダ、トルコ、オーストラリアなどの保証国と結び、保証国は武器や技術の輸出、軍事訓練などでウクライナの防衛力を高める。
ウクライナが将来に再び攻撃を受けた際は政治、経済、軍事面で支援する。
最近、NATO(北大西洋条約機構)は、ウクライナに対して長期的な安全保障を提供する新たな枠組みについて検討している。
これは、イスラエルとの関係をモデルにした安全保障協定といわれる。7月にリトアニアで開かれるNATO首脳会議の主要議題になる見通しである。
おわりに
「戦争は始めるより終わらせる方が難しい」という言葉がある。
1904年に日露戦争が始まったとき、日本の為政者には終戦の絵図も念頭に入っていた。
開戦が決まった直後、前司法大臣の金子堅太郎を米国に派遣した。金子はハーバード大学に留学したとき、セオドア・ルーズベルトと同窓であり、そのとき以来、金子とルーズベルトは親友であった。
この目論見は成功した。
ロシアはルーズベルトの斡旋に応じ、両国は1905年にポーツマス条約を結んで講和した。
一方、戦争の終結のことを考えずに太平洋戦争に突入した日本は、敗戦の色が濃くなった戦争末期に、ソ連仲介による和平工作やスウェーデン仲介による和平工作などに動いた。
日本政府は、対日参戦を密約(1943.10.30モスクワ会談)したソ連仲介による和平工作を1945年6月8日の御前会議で正式に決定した。
案の定、和平工作は上手くいかず、無条件降伏を受諾することとなった。
ところで、ウクライナの休戦交渉または和平交渉であるが、筆者は、仲介役には国連事務総長が最適だと思っている。
かつて1953年から2代目の国連事務総長の地位にあったスウェーデン人のダグ・ハマーショルド氏は、危機の平和的解決に尽力し、国際の平和と安全を維持するという国連の目的の遂行に寄与した。
しかし在職中の1961年9月18日、コンゴ問題の和平ミッション遂行中、飛行機事故に遭って帰らぬ人となった。彼は、困難な国際紛争の解決に尽力し、国際社会から高い評価を受けていた。
現事務総長のグテーレス氏には、これまでのところ、ハマーショルド氏のような積極的な行動が見られない。
国連憲章は事務総長に対し、国際の平和と安全を脅かす問題が生じた場合、安全保障理事会に注意を喚起する権限を与えている。
安全保障理事会が機能不全に陥り何の行動も取れないならば、事務総長自らが行動すべきであろう。それに異を唱える国はないであろう。
グテーレス氏は、今すぐキーウとモスクワを訪れ、ゼレンスキー大統領とプーチン大統領と会い、ザポリージャ原発周辺地域の休戦のため仲介の労を取るべきである。
筆者は、事務総長がそれをできないならば国連は解体すべきであると考える。
かつて、わが国をはじめ国際社会は、国連に大きな期待を寄せていた。しかし、今、わが国のみならず国際社会は、国連に大きな期待を寄せていない。
国連を解体し、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有する民主義国家で新たな国際機関を創設することを検討すべきであろう。
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