太平洋戦争中の日本海軍は、太平洋の遥か洋上に哨戒線(ピケット・ライン)を構成していました。そこに投入されていたのは、ほぼ武装のない徴傭された漁船たち。漁船を総動員した結果、日本の漁業は大打撃を受けることになりました。

漁船を改装した「特設監視艇」

太平洋戦争中、敵の艦隊を警戒する日本海軍太平洋上に哨戒線(ピケット・ライン)を張り巡らせていました。ここに投入されたのは、海軍に徴傭(チャーター)された民間の漁船でした。本稿では彼らの過酷な運命を振り返ってみたいと思います。

当時、どこの国の海軍でも、平時に軍籍にあるフネだけでは、戦時における海軍作戦をまっとうすることはできませんでした。戦時に必要な各種の艦艇を取りそろえるため、大は大型輸送船から小は港で働く雑役船まで、日本海軍はさまざまな民間船を徴傭しました。

このなかで、漁船、とくに遠洋航海が可能なマグロカツオ漁船は様々な形で日本海軍に使われました。対潜水艦用の捕獲網を敷設して潜水艦を捕獲する「特設捕獲網艇」、捕獲網艇とコンビを組んで敵潜水艦を撃破する「特設駆潜艇」、そして「特設監視艇」などとしてです。

このなかで、比較的有名なのが、宮崎 駿のマンガ『最貧前線』(『宮崎駿の雑想ノート』収録)でも知られる「特設監視艇」でしょう。1942(昭和17)年4月18日、日本本土を初めて空襲したドーリットル襲撃隊を載せたアメリカの空母部隊を発見した「第二十三日東丸」(日東漁業、90総トン、乗員14名)も、この特設監視艇の1隻でした。

ドーリットル襲撃隊を載せた空母「ホーネット」を発見し、さらにアメリカ軍を警戒させることで作戦のタイムスケジュールを大幅に狂わせた特設監視艇隊は、本土方面を担当する第五艦隊に所属する特設巡洋艦「粟田丸」「浅香丸」から編成される第二十二戦隊に所属していました。

この第二十二戦隊は、通称「黒潮部隊」ともよばれ、北緯24度~53度・東経147度~53度(東西1700km~南北3000km)に広く散開し、手薄な東方洋上を監視することを任務としていました。

こうした特設監視艇の隻数は、太平洋戦争開戦当初は38隻でしたが、その後急速に整備され、1942(昭和17)年2月25日には第一監視艇隊が25隻、第二監視艇隊が25隻、第三監視艇隊が26隻の計76隻となり、その後さらに196隻が追加されます。

「知られざる特攻隊」

このように、戦争初期に少なからぬ効果が認められ、規模を拡大していった特設監視艇部隊ですが、戦局が不利になるにつれ、その状況は変化していきます。

その後、1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島が陥落し、同諸島からB-29が日本本土空襲を行うようになると、それを警戒するために東哨戒線と中哨戒線が設けられます。しかし、飛来するB-29を発見し、無線でそれを知らせても、日本にはすでに有効な防空網はなかったのです。

さらに、無武装に近い特設監視艇は、哨戒飛行を行うアメリカ軍機に次々と撃沈され、浮上したアメリカ軍潜水艦にさえ撃沈される事態すら起こるようになります。

「敵発見」がそのまま「撃沈」につながってしまう特設監視艇は、まさに知られざる特攻隊だったとも言えるでしょう。

こうして、特設監視艇の喪失数は300隻、損耗率73.7%に上る結果となりました。特設監視艇以外のものも含めて、海軍が様々な用途で徴傭した漁船という視点で統計を取ると、その損耗は650隻といわれ、この数字は徴傭漁船群全体の77%になります。

もっとも実際のところは、徴傭された漁船の喪失数は戦後様々な研究があったものの、はっきりとした数は出ていません。今でも人知れず、広大な太平洋の海底で眠る徴傭漁民が多く存在するはずです。そして、こうした漁船・漁民の被害は、別の意味で深刻な影響を日本にもたす結果となります。

築地から魚が消えた…

戦前の日本人はタンパク質の多くを米と魚からとっていました。しかし相次ぐ漁船の徴傭により、すでに開戦翌年の1942(昭和17)年の7月には、遠洋漁業も近海漁業も実質的に壊滅し、残されたのは手漕ぎの漁船か、30トンに満たない漁船による沿海漁業のみとなっていました。

同年、東京中央卸売市場(築地市場)から魚介類が消えました。また1943(昭和18)年頃の全国平均魚介類摂取量(干物なども含む)は、1年あたり15kg程度に低下しました(ちなみに、2000年の統計では40.2kg)。

漁船の大量徴傭は、日本の漁業の急速な壊滅を招き、戦時の国民生活をさらに窮乏させる結果となったのです。

空母「ホーネット」から発進する、ドーリットル中佐に率いられたB-25双発爆撃機。太平洋上で漁船(特設監視艇)が発見していた(画像:アメリカ海軍)。