2023年3月、世界中に惜しまれつつこの世を去った坂本龍一YELLOW MAGIC ORCHESTRAのメンバーとして絶大なる人気を誇り、圧倒的な音楽知識から“教授”の愛称で親しまれた坂本は、映画音楽の巨匠でもある。このたび、Amazon Prime Videoチャンネル「スターチャンネルEX」では、ベルナルド・ベルトルッチ監督と組んで、坂本が音楽を手掛けた「オリエント三部作」を配信中。ラインナップは、坂本が日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞した『ラストエンペラー』(87)、北アフリカサハラ砂漠を舞台に夫婦関係を描いた『シェルタリング・スカイ』(90)、1990年代シアトルと2500年前の古代インドが交差する『リトルブッダ』(93)の3作品。本人に取材経験のあるライター、吉田伊知郎が、「オリエント三部作」における坂本龍一のディープな映画音楽の世界を紐解く。

【写真を見る】『ラストエンペラー』で坂本はわずか1週間で45曲を作った

■俳優と音楽の間で…『ラストエンペラー

戦場のメリークリスマス』(83)で初めて坂本龍一映画音楽を担当させた大島渚監督と、『ラストエンペラー』のベルナルド・ベルトルッチ監督に共通するのは、当初、坂本をミュージシャンとしては見ていなかったという点だろう。実際、彼らは自作に俳優として坂本を呼び寄せたが、音楽を作ってほしいとは言っていない。逆に坂本からやりたいと申し出たことで、『戦場のメリークリスマス』も『ラストエンペラー』もあのメロディが誕生したのだ。

1983年の第36回カンヌ国際映画祭で『戦場のメリークリスマス』が公式上映された際、坂本はベルトルッチと初めて対面する。それ以前から、中上健次の小説「千年の愉楽」を映画化するなら監督はベルトルッチしかいないと考えていた坂本と、『戦場のメリークリスマス』の音楽を絶賛するベルトルッチが顔を合わせたのだから、たちまち打ち解けることになった。

2年後の1985年、第1回東京国際映画祭の審査員として来日したベルトルッチは、坂本に清朝最後の皇帝を主人公にした映画を撮るつもりだと熱っぽく語りかけ、1986年4月に、『ラストエンペラー』へ出演するよう持ちかける。それが満洲映画協会理事の甘粕正彦役だった。この時点でも、坂本に音楽を依頼するという話はまったく出ていない。坂本の出演シーンの撮影は、1986年10月から約1か月を中国ロケ、続いてローマの撮影所チネチッタで2週間のセット撮影が行われた。以前、筆者が坂本にインタビューした際、この時初めて訪れた中国についての印象を尋ねたことがある。

「ようやく文革(文化大革命)の騒ぎが終わって少し解放に向かっていった時期でした。あの時期の中国の姿を自分の目で見ることができてラッキーだったなと、いまさらながら思いますね。政府の偉い人とも会いましたし、本当は外国人が行っちゃいけない人民のデパートや食堂にも入って、彼らの日常の姿と接することが出来たし、とても貴重な体験だったと思います」(『象は静かに座っている』(19)劇場パンフレット)。

撮影中から坂本は、音楽をやりたいとアピールしていたものの、エンニオ・モリコーネをはじめ、巨匠たちもこぞって手を挙げるなかでは、まだ3本しか映画音楽を手掛けていない坂本の存在は霞んでしまう。幸いしたのは『戦場のメリークリスマス』と『ラストエンペラー』が共にジェレミー・トーマスのプロデュースだったこと。ジェレミーは坂本を強く推した。

試用試験のようなものが、撮影中に行われたこともあった。長春で撮影を行っていると、唐突に明後日の戴冠式の撮影で流す音楽を作れというのだ。前述したように、この時点では坂本は音楽を担当することになっておらず、俳優として体一つでやってきただけだ。坂本は調律もされていない古めかしいピアノを調達して作曲を行い撮影に間に合わせた。「キネマ旬報」(2023年6月下旬号)によると、坂本の音楽制作に協力してきた上野耕路は、この時、坂本から当時の式典で演奏された楽曲の調査を依頼されたと証言している。上野は伊福部昭のもとへ向かい、助言を仰いだ。伊福部は『ラストエンペラー』で描かれている時代に、甘粕本人から依頼されて作曲を行ったことがあるからだ。

こうした短期間で完成度の高い楽曲の制作を評価されたのか、正式に坂本が『ラストエンペラー』の音楽を担当することが決まったのは、撮影終了後の1987年に入ってからだった。プロデューサーのジェレミーから、明日から音楽を作れと命じられ、1週間で45曲を作ったという。

ベルトルッチからの注文は、坂本によると、「基本的には西洋音楽なんだけど、中国系も取り入れたい」(「シネ・フロント」1988年2月号)、「非常にレンジが大きい音楽で、しかもこの時代、主として1920年代30年代の雰囲気が欲しい、だけど今日の映画なんだからモダンじゃなきゃいけない」(「リュミエール」1987年冬号 No.10)という難易度の高いものだったという。

編集が済んだものをビデオで渡され、それをもとに作曲を行ったが、いざ音楽を収録しようとすると、編集が大幅に変更されており、坂本はその調整に苦労することになる。最終的には、編集があまりにもどんどん変わっていくことから全体をコントロールすることは不可能と諦め、ベルトルッチに一任している。

しかし、坂本が作曲したパート(3人の作曲家が本作に参加している)は、オリエンタルな響きに満ちた「戴冠式」、スペクタクル性にあふれた「Open The Door」、長い歴史の時間を奏でる「The Last Emperor (Theme)」をはじめ、とても短時間で作られたとは思えない忘れがたい珠玉の名曲が並んでおり、第60回アカデミー賞作曲賞を本作で受賞したことには誰もが納得するだろう。

■坂本の映画音楽の最高峰『シェルタリング・スカイ』の苦難

オスカー9部門を受賞した『ラストエンペラー』の世界的な大ヒットは、坂本だけでなく、ベルトルッチ、大島の運命も変えることになる。それを後押ししたのは、前述のプロデューサーであるジェレミー・トーマスだった。

ベルトルッチは、次回作に低予算のシンプルな映画を作ろうとしていた。それがポール・ボウルズ原作の『シェルタリング・スカイ』。モロッコサハラ砂漠などでオールロケを行う1組の夫婦の物語は、確かにローバジェットで作る映画に相応しい。ところが、最終的に製作費は『ラストエンペラー』に匹敵する額となり、砂漠に豪華なセットを建てるなど、『ラストエンペラー』バブルの余波が、本作に波及する。

大島も、サイレント時代にハリウッドで活躍した日本人スター、早川雪洲を主人公に、製作費70億円の大作『ハリウッド・ゼン』をジェレミーのプロデュースで準備していたが、これも『ラストエンペラー』のヒットあればこその企画だろう。同作の主演と音楽はもちろん坂本である。

『シェルタリング・スカイ』をベルトルッチが映画化するという噂を聞きつけた坂本は、オファーされる前から原作を読んで準備に入った。もっとも、日本人が登場しないことから俳優としての出番はないだろうと判断し、音楽での参加を望んでいた。

ベルトルッチは本作の音楽について、「アフリカ的な音楽で西欧との葛藤をダイレクトに描くのではなくて、クラシックなスコアのなかにどこかローカルな感じのものを投げ入れて、両者の対立を際立たせるという、そういう音楽になりました」(「シネ・フロント」1991年4月号)と語る。しかし、その繊細な注文を実現させるには、苦難の道のりが待っていた。なにせ、レコーディングを開始する瞬間に、立ち会っていたベルトルッチが「このイントロは好きじゃない。変えろ」と注文を付けてくるのだから。

この時、坂本はオーケストラを30分待たせて、その場でイントロを作り直し、映画の中に流れる曲を完成させた。それは坂本自身も気に入る完成度となったが、ベルトルッチの映画に音楽を付ける作業は、その瞬間ごとに、素早く新たなアプローチで曲を生み出すことが求められた。個人的には、本作のテーマ曲「The Sheltering Sky Theme」は、坂本の映画音楽の最高峰ではないかと思えるほど美しく、叙情性とメロドラマ性にあふれ、深い余韻を残すと感じるだけに、ベルトルッチとの仕事が毎回、時間に追われるなかでここまでの高い完成度を到達させていたことに驚かざるをえない。

■ベルトルッチへの“スウィート・リヴェンジ”『リトルブッダ

『シェルタリング・スカイ』を撮り終えた時、ベルトルッチは次回作の候補にインド、中国、日本を舞台にした企画を3本抱えていた。インドブッダをテーマにした大作、中国はアンドレ・マルローの小説「人間の条件」の映画化、日本は谷崎潤一郎の小説「少将滋幹の母」の映画化である。

ベルトルッチが選んだのは、最も実現が困難と思われていた『リトルブッダ』だった。坂本とベルトルッチが組んだ最後の作品でもあり、SFXを駆使したベルトルッチ版スティーヴン・スピルバーグ映画というべき豪華絢爛な超大作である。

しかし、『ラストエンペラー』を「変身(メタモルフォーゼ)を主題とした映画」と定義するベルトルッチにとって、メタモルフォーゼ=転生がテーマの『リトルブッダ』を手掛けることは、自然の摂理だったに違いない。

坂本との作業を、ベルトルッチは「最初はインド的なものからインスピレーションを得ていたのですが、音楽は、西欧風の叙事詩的な映画の伝統、すなわちハリウッド流のやりかたで修正されました」(「すばる1994年6月号)と語るように、決して順調に進んだわけではなかった。実際、ベルトルッチは坂本の音楽に基づいてインドヴァイオリン奏者に演奏し直させるなど、これまでにないリテイクが発生した作品になった。坂本によると、70曲ほど映画のために作ったが、実際はその3倍は書いたという。

本作が公開された1994年に発売された坂本のアルバム「sweet revenge」に収録された表題曲は『リトルブッダ』のために書かれたもので、ベルトルッチの判断で没になった曲である。タイトルも、それを踏まえて付けられている。

1980年代後半から1990年代前半にかけて、坂本はベルトルッチと3本の大作映画を共にしてきたが、その間に再三延期されたきたのが大島の『ハリウッド・ゼン』だった。製作費の調達が思うように進まず、ジェレミーは『シェルタリング・スカイ』『リトルブッダ』を当てることで実現にこぎつけようとしていた。しかし、『ラストエンペラー』のようなヒットにはいたらず、遂に幻のまま潰えた。

坂本は、「ジャズの時代の1920年代をどう表現するか自分も楽しみにしており、『戦メリ』以上の作品にしたい」(「キネマ旬報」1992年4月上旬号)と『ハリウッド・ゼン』への抱負を語っていただけに、『シェルタリング・スカイ』での到達を思えば、続いて本作を手掛けていれば、どんな音楽が生まれていたのだろうと思わずにいられない。

こうした周辺状況を踏まえて「オリエント三部作」を観れば、〈生まれてきた映画と音楽〉と、〈生まれなかった映画と音楽〉にそれぞれ想いを馳せた映画体験になるだろう。

文/吉田伊知郎

参考文献「キネマ旬報」「映画芸術」「リュミエール」「シネ・フロント」「すばる」「土曜ソリトンサイドBリターンズ」

坂本龍一が第60回アカデミー賞作曲賞に輝いた『ラストエンペラー』/[c]1987 THE RECORDED PICTURE COMPANY.YANCO FILMS LTAO FILMS.S.R.L.ALL RIGHTS RESERVED