ついにApple純正のXR(※1)HMDヘッドマウントディスプレイ)、『Apple Vision Pro』(以下、『Vision Pro』)が発表された。

 Appleがこういった取り組みをしているということを今回のニュースで初めて知った方も多いかもしれないが、じつはXR業界ではもう何年も前から「Appleが新しいHMDをリリースする」という噂があった。山のようなリーク情報に踊らされ、深夜の『WWDC』をリアルタイムで視聴しては「今年も何も発表されなかったね」と肩を落とすのが毎年の恒例行事だった筆者にとって、今年の『WWDC』でティム・クックが「One more thing.」と言ったときの興奮は一生忘れられないだろう。

【画像】自社製SoCやリュウズなど、Apple製品の特徴的な部品を採用した“集大成”のプロダクト『Apple Vision Pro』

(※1:「XR」……ARやVRなどの総称。今回の『WWDC』でAppleはARやVR、XRといった単語をあまり使わず『空間コンピューティング』という単語を用いていた)

 とはいえ、単にAppleがHMDを発表してくれればそれでいいというわけでもない。なぜなら、Appleが“どんな風に”HMDを出すかということが、XR業界全体の未来を左右する一大事だからだ。ということで、本稿では「今回の発表が業界にどんなインパクトをもたらすのか」について考えていきたい。(Psychic VR Lab・水谷享平)

■「没入する」のではなく「空間を身にまとう」ように Appleが目指す未来の形

 ちょうどこの記事を書いているとき、Meta社のマーク・ザッカーバーグが自社の社員に全社会議で語った言葉が話題になっていた。Metaの目指す未来はAppleが創りたい未来とでは、方向性がまったく異なるという内容だ。マーク・ザッカーバーグが指摘している通り、Appleの発表はこれまでMetaが推し進めてきたメタバース的な取り組みとは、全く相容れないものだった。
(参考:https://www.theverge.com/2023/6/8/23754239/mark-zuckerberg-meta-apple-vision-pro-headset)

 筆者が『WWDC』の発表を視聴して受けた一番の印象は、「Appleは、現実空間の日常でHMDを被って過ごすということを本気で目指しているのだな」ということだった。これが顕著に現れているのが『Vision Pro』を被ったまま子どもとコミュニケーションをとるシーンだ。というのも、子どもや家族と、既存のVR HMDというものは非常に相性が悪いのだ。これは想像に難くないと思うが、一度HMDをかぶると周囲とのコミュニケーションが遮断されるためだ。しかし、人によっては生活のベースである「家族」と相性の悪いデバイスが、日常で使われるわけがない。これは長年にわたり、XRデバイスの大きな課題のひとつだったように思う。

 今回の『Vision Pro』は、「EyeSight」などの機能によって、ある程度この課題を解決した“初めてのXR HMD”なのではないだろうか。XR業界にいる人々の多くが共通で持っている認識として「いずれ全人類が当たり前に一日中XR HMD(あるいはそれに類するもの)を装着して生活を送るようになる」というものがある。ARやVR技術により、デジタル情報を周囲の空間に配置することが当たり前になるというものだ。ちなみにこれを、筆者が所属しているPsychic VR Lab社では「空間を身にまとう」と呼んでいる。ご存じの方であれば、一発で分かる例えが『電脳コイル』(※2)の世界だ。

(※2『電脳コイル』……2007年のアニメ作品。「電脳」技術が普及した近未来を描いた作品で、人びとはメガネ型のXRデバイス「電脳メガネ」を身に着けて生活している)

 翻って、我々の生きる現実はどうだろう。先述した通り、既存のVR HMDは“現実のコミュニティ”と相性が悪く、「リアルで1人でいるときに使うもの」となっている。そのため、これまでの業界のアプローチは「日常の中でXRを使おう」ではなく「XRを日常にしよう(みんなでメタバースに行こう)」というものが多かったように思う。これは一定の共感を得ていて、実際に『VRChat』などで長い時間を過ごしている人がかなり増えてきている。

 だが、やはり現状では多くの人にとってXRとは「何か特別な行事」を体験する方法ーー「ハレとケ」の「ハレ」を体験するものに過ぎず、その代表がゲームやライブなどの「コンテンツ」だ。Meta社が『Quest』シリーズのプロモーションにおいて「ゲーム体験」を前面に押し出しているのも、そうした理由からだろう。

 そこへ来て、AppleはXR業界の歴史の中で初めて「家族がいる日常の中で自然に使えるデバイス」を用意してきた。これは日常のライフスタイルのなかで「XRを当たり前に使う世界」を夢想する我々にとって「それが夢ではなく現実になるのだ」ということを改めて確信させてくれる革新的な出来事だと言えるだろう。これまで『Mac』や『iPhone』、さらには『Apple Watch』や『AirPods』など新たなデバイスによって多くの人の生活習慣を変えてきたAppleがこの方針を打ち出してきたというのは、とにかく心強いというほかないのだ。

■Appleだからこそなし得た、垂直統合型のデバイス

 では次に、XR開発者の視点で今回の発表が「どのような意味を持つのか」についても考えてみたい。詳細なスペックについては、すでに多くのメディアでまとめられているので割愛するが、とにかく「いまできる全力を出し切った」仕様になっているという印象を受ける。Appleが垂直統合型ーーハードウェアからソフトウェアまでのすべてを自社開発のプロダクトで統一しているからこそできる、最適化され尽くしたデバイスのクオリティが高くないわけがないだろう。それから、これまで『iPhone』を通じて積み重ねてきたARのノウハウも惜しみなく活用しているようだ。ある種、Appleの“歴史の集大成”といえるデバイスなのではないだろうか。

 そんな『Vision Pro』は、HMDのジャンルとしてはいわゆる「ビデオシースルー」型のHMDに分類される。デバイスの外側に備えたカメラの映像をHMD内部で表示することで、あたかも外側が見えているような体験をユーザーにさせるデバイスのことを指す。これは昨年ごろから流行りはじめているジャンルで、すでに様々な企業からビデオシースルーが可能なデバイスが発売されている。

 ビデオシースルー型デバイスでは外部カメラの映像に対してバーチャルなレイヤーを重ね合わせることで、まるで現実にバーチャルなオブジェクトが存在するかのような体験を提供する。この感覚を言葉でお伝えするのはなかなか難しいのだが、現実空間にバーチャルオブジェクトが浮かんでいる光景というのは相当に新鮮で、大変面白いものなので、未体験の方は機会があればぜひ一度体験いただきたい。

 さて、これまでのデバイスはあくまで「VR」での利用が主な目的で、ビデオシースルーでのAR/MR的な利用は副次的なものだった。そのため、既存のデバイスにはすぐに分かる改善点がいくつかあった。とくに大きいのが「オクルージョン」と、「現実の見え方との誤差」だ。オクルージョンとは、バーチャルなオブジェクトと現実の物体の前後関係を正しく表示する技術で、たとえば「バーチャルの猫」が現実の椅子の陰に隠れたりすること。これがないと、途端に「現実の中に存在する感」が薄れてしまう。また、現実の見え方との誤差も大きな問題だった。既存のデバイスでは、カメラを通して見る周囲の「映像」と、HMDを外して実際に自分の目で見る「光景」に誤差や歪みが存在するため「HMDをかけたまま生活する」ことは難しい、という印象を筆者は受けていた。

 ところが、今回発表された『Vision Pro』はこれらの問題を解決しているように見受けられる。Appleが「iOS」向けに長年提供してきたAR開発ライブラリ「ARKit」や、深度センサである「LiDARスキャナ」を用いることで『Vision Pro』ではオクルージョンを実現している。また、先行で体験した方のレポートによれば、『Vision Pro』越しに見る外部の映像と、現実で見える光景にはほとんど差がないということだ。そのため、『Vision Pro』をかけたまま違和感なく生活できるとのこと。

■開発者にとって「最高の環境」と「デバイスで言い訳できない時代」の到来

 これらのことが、開発者にとって意味することはひとつ。ついに「デバイスで言い訳できない時代」がきたのだ。まだまだHMDは発展途上だから、いくら頑張って開発しても限界がある。これはXR業界にとってはある種の常識だった。だが、ここまでのスペックのものを出されてしまっては、もうそのような言い訳は通用しないだろう。

 さらにAppleは今回の『WWDC』で、数多くの開発者向けの情報を発信している。デバイスこそ配布しないものの、すぐにでも『Vision Pro』用のサービスを開発開始できる環境も用意されており、「最高のデバイスを用意したから、あとはよろしく!」というApple社からのメッセージがビシバシと伝わってくる。私たち開発者は、ついに最高の環境でMRコンテンツを作る“権利と義務”を同時に手に入れたのだ。

 では、具体的に『Vision Pro』の登場によってXRのコンテンツはどのように変わっていくのだろうか。コンテンツという観点で『Vision Pro』のPVを改めて見てみると、2DのUIが多いことに気が付く。これは、実はXRデバイスのPVとしては異例といえる。なぜならARやVRの最大の売りというのは「3Dで表示できること」で、「2Dなら既存のディスプレイでいいのでは」という考え方があるからだ。しかし、『WWDC』で用意された様々なクリエイター向けのセッションを見ても、今回のAppleからは「まずは2Dで日常で使えるものを作ってみよう」というメッセージを感じるのだ。

 せっかくのXRなのに2D? Appleは何を考えているのだろうか。それをもう少しくわしく考察してみよう。まず大前提として、実はVRやAR空間において2Dの表現を利用するというのは、それほど悪い選択肢ではない。ある程度VRやARの開発に慣れてくると「結局2Dのほうが視認性いいよね」といったところに落ち着く傾向があるように感じるのだ。とくに、現実空間の中にバーチャルオブジェクトを配置するAR・MRの場合、「現実空間にバーチャルなウィンドウが浮かんでいる」というのは、想像以上に新鮮で面白い体験だ。せっかく3Dが使えるのだから「立体的なものを置きたい!」となってしまいそうなところを、2DメインでUXを作り上げたAppleはさすがだ。

 また、2Dのメリットは既存のサービスを使い回せるというのも大きい。iOSやMacのアプリの多くが『Vision Pro』で動作可能という話もある。これによって新規デバイスが陥りがちな「コンテンツ不足」を一気に解消するのもAppleの狙いだろう。

 従来のVR HMDでは「いかに3Dを用いて没入感のあるコンテンツを作れるかが勝負」というようなところがあった。しかし『Vision Pro』においては、2Dでもいいから「日常の中で使えるサービス・コンテンツ」を作ることが、アプリケーションやサービスの開発者にとって最初の勝ち筋なんだろうと思う。そして、具体的にどんなものかといえば「空間におけるウィジェット」のようなものになる。(余談だが、今回の『WWDC』ではウィジェットの話も多かったように感じている)。たとえば、視界の隅につねにTwitterのタイムラインが流れていたら便利だとは思わないだろうか? そして、そのサービスのUIは“2Dで十分に実現可能”なはずだ。

 とはいえ、やはりXRデバイスなのだから3Dのコンテンツを作りたいと思うだろう。この点については、コンテンツクリエイターや開発者の腕の見せ所になる。

 ビデオシースルー型ARグラスはまだ歴史が浅いこともあり、そのコンテンツ制作におけるノウハウは業界的にもまだあまり蓄積されていない状況。というのも、VRと違ってARは“現実”をうまく活かした体験を作る必要がある。屋内・屋外なのか、明るい部屋・暗い部屋、一人か・周囲に人がいるかなど、ユーザーの置かれた状況は千差万別で、そのなかでうまくフィットする体験を作り上げるのは至難の業といえる。今後数年かけて、デザイン面でもさまざまなノウハウが業界全体に蓄積されていくことだろう。ただ、最初はやはり目の前になにか「バーチャルの物体がある」というだけでも非常に面白いものだ。そこからスタートして、我々が『Vision Pro』を被って日常生活の中で何をしたいのかを模索していきたいところだ。

 最後に、これまでXR業界には数多くの「元年」が存在した。たとえば、多くのHMDが発売された2016年は「VR元年」と呼ばれた。そして、筆者は『Apple Vision Pro』が発売される2024年こそが「リアルな日常でXRを使う元年」になるのだと予感している。ついに「すべての人が空間を身にまとって生活する時代」へのカウントダウンがはじまったのだ。

■水谷 享平
東京大学大学院工学系研究科卒。2012年、Googleに入社。モバイルアプリ開発者向けの技術コンサルタントを務める傍ら、20%プロジェクトとしてVR/ARの普及活動を行う。2018年にプロダクトマネージャーとしてPsychic VR Labに入社。翌2019年4月に執行役員に就任。STYLYのプロダクト開発全般に携わる。2021年6月よりCHROに就任。現在は人事に加え、経営企画をはじめとするコーポレート全般を担当。

『Apple Vision Pro』