文=松原孝臣 写真=積紫乃

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スポーツで助けられている人生

 出水慎一がスポーツトレーナーを目指そうと考えたのは高校時代だった。

 当時、出水はサッカーに励んでいた。プロになりたいと思っていた。ただ怪我が多かった。

「それであきらめたということです」

 怪我がちな中で、得た知識があった。

「怪我するとレギュラーから外れるので怪我しても言わない。無理やりやっていてよりひどくなる。それを何回か繰り返していて、怪我すると当然リハビリ期間があるんですけど、怪我したところを強化するためのトレーニングが多いんですね。しっくりこないなと思い、怪我する前よりも体の状態がよりパワーアップしていい状態にならないのかなと調べていて、トレーナーという仕事があるのを知りました。

 もう1つ過去をたどると、私はスポーツで助けられている人生なんです。昔はやんちゃな方で、中学校でもサッカー部に入っていたけれど即レギュラーになれなかったから行かなくなったこともあります。でも2年生の3学期に顧問の先生が、『そろそろサッカー本気でやったらいいやん』と声をかけてくれた。もう1回サッカーを始めて、サッカーのおかげで高校にも進めるようになり、なんだかんだスポーツに救われたというのがありました」

 スポーツで生きていこう——選んだのがスポーツトレーナ―だった。

 

小塚崇彦との出会い

 専門学校で学び、縁のあったトレーナーたちに教わるなどして知識や技術を培った。

 その後、フィットネスクラブで働くなどして、30歳のとき九州医療スポーツ専門学校に入学、33歳で柔道整復師の資格を得た。

「他の学生たちに比べると、遅いと言えば遅い(笑)」

 その年齢になって学校に入り資格を目指したのには理由があった。

「18歳の頃から同じ専門学校に通い、仲が良かった友人がいます。最初に就職したフィットネスクラブも一緒でしたが22歳のときに彼はソフトバンク(当時はダイエーホークス)が優勝した瞬間をテレビで観ていて、『この場所は違う』と思ったみたいで辞めたんですね。そのとき10年後にまた一緒に働こうと話をしていて、10年目経ってちょうど連絡しました。『自分のほんとうにやりたいことを今後やらないといけないよね。表に出るには資格があったほうがいいよね』という話になって、勉強しようと」

 卒業して働き始めたあと、1つの縁を得た。フィギュアスケーターの小塚崇彦だった。当時、小塚は股関節に悩まされ、その治療とケアを方々に求めていた。

「当時の上司だった人が『ちょうどいいんじゃないか』と。そこからです」

 2013年、小塚のサポートが始まる。ただ、フィギュアスケートは「まったくの、ほんとうに初めて」。

「小学生のときに遊びでアイスホッケーをしていたので滑る感覚は分かっていましたが、跳ぶのは全く分からなかったです」

 出水はリンクに出向くと、実際にジャンプを跳ぶなど試してみた。

「動画を観て、どうやってジャンプするんだろうとかいろいろやってみました。何かしら競技につくときは絶対にやってみます。ジャンプは無理でしたけれど」

 小塚との出会いは、とても大きかったと言う。

「股関節がポイントだったので、練習していかに痛くならないかというところからスタートしましたが、彼はいろいろ教えてくれるんですよ。私がフィギュアスケートは初めてというのを踏まえて、『こんなにしてこうなるんですよ』と。フィギュアスケートのメンタル的なものも含め、フィギュアスケートの原点の部分を学べました。彼のコーチは佐藤信夫先生と久美子先生だったので、コンパルソリーやフィギュアスケートの基本の部分のお話をいただいて、自分でもスケートをやってみて『こういう風に体を使うんだ』『こんな感じで動くんだな』と積み重ねていくことができました」

 小塚に携わる中で、フィギュアスケートを学んでいった。

 

「もうちょっと早く出会えていれば」

 小塚は徐々に状態が上向き、迎えた全日本選手権では3位、シーズン最高の演技を見せた。

 それはうれしくもあったが、一方で悔しさもあった。

「それまでの状態を考えると全日本選手権で3位に入れたのは素晴しい。でもソチオリンピック代表にはなれなかった。彼のもう1回オリンピックへ、という夢を実現できなかった。もうちょっと早く出会えていれば、という思いとともに、もっとできることがいっぱいあったんじゃないかという思いもありました。もっと勉強しなきゃ、もっと工夫しなきゃ、そんなことを感じました。特にメンタル的なところのサポート。どうしても手探りな部分がたくさんあったので」

 それはのちにいかされることになる。

 例えば——。

「演技の前、最後はコーチが絶対選手に何か話すので、コーチの言葉をイメージして、僕は選手と会話をします。前もってノートに『こう言ったらこう返してくる、こういうイメージや気持ちになるだろう』とたくさん書いていきます。それをつなげて言葉のメッセージをつくるようにしています。それは彼のおかげですね。彼がうまくいかなかったときに『これを言っておけばよかった』と後悔したことがあったので」

 コーチが送り出すときにかける言葉をはじめ綿密にシミュレーションし、自分は何を語りかけるべきかを考え実践するようになったという。

 それは選手のメンタル面も重視することがトレーナーとして大切であるという出水の姿勢の表れでもあった。

 小塚とは引退するまでトレーナーとしてかかわっていたが、その最後のシーズン、もう1人担当する選手が加わることになった。宮原知子である。20152016シーズンのことだ。

「尊敬しかないですね」

 そう振り返る宮原との時間も、さまざまな思いを残した。

 

出水慎一(でみずしんいち)スポーツトレーナー。国際志学園 九州医療スポーツ専門学校所属。 専門学校を卒業後、フィットネスクラブに勤務。18歳からスポーツ現場や整骨院で修行を続け、その後、九州医療スポーツ専門学校で学び柔道整復師の資格を取得。スポーツトレーナーとして活動する中でフィギュアスケートにも深くかかわり小塚崇彦宮原知子宇野昌磨のパーソナルトレーナー等を務める。2018年平昌、2022年北京オリンピックにも参加している。

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