明治初期、東京都心の人々の足となった最初の都市鉄道は「東京馬車鉄道」でした。年間3300万人が利用するほど繁栄したこの鉄道、どんな歴史を辿ったのでしょうか。

「新橋~横浜」開業後も都心交通はまだ未整備

日本で最初の鉄道は、1872(明治5)年に新橋~横浜間で開業した官設鉄道、現在の東海道線です。ではそのあとに東京に生まれた鉄道はどこなのでしょうか。それは10年後に誕生した、今は無き「東京馬車鉄道」でした。

わが国初の鉄道は、品川から田町付近まで約2.7kmに渡って海上に築かれた「高輪築堤」に線路を敷設することで、当時の中心市街地の境界にあたる新橋まで乗り入れました。欧米諸国でも都心に乗り入れていない路線が多かった時代、最初から大胆な選択をしたのは英断だったと言えるでしょう。

しかし「本当の都心」である日本橋付近までは直線距離で2.5kmほど、繁華街浅草は5km以上離れており、多くの人は徒歩で移動していました。ここで富裕層向けの交通機関を担ったのが1870(明治3)年に営業開始した人力車と、1871(明治4)年に市中での営業が解禁された「乗合馬車」でした。

とはいえ明治の世になっても東京の道路は江戸時代のままであり、人力車はともかく馬車が走れるインフラではありません。そこで東京府(当時)は人力車や荷車、牛車、馬車などに税金を課し、路盤の強化、車道と歩道の分離など、道路の改良を進めました

1874(明治7)年に新橋~万世橋・浅草橋間の改修が完了し、乗合馬車が営業開始。当時の新聞によれば千里軒という事業者が、30人乗りの「二階建て車両」を4頭の馬が牽く「大馬車」で、浅草雷門前から新橋駅まで所要1時間、6時から20時まで1日6往復を運行していました。運賃は二階席の方が安かったと伝えられています。

ところが当時の人々にとって高速で走る馬車は「未知の乗りもの」であり、たびたび人身事故が発生。開業翌月には二階建て車両の運行が禁止され、千里軒はすぐに廃業してしまいました。以降は小型の馬車が主流になり、1881(明治14)年の調査によれば品川~浅草間を中心に121台の馬車が運行していたそうです。

ライバルである人力車は1871(明治4)年末時点で1万台近くが営業しており、狭い道路で熾烈な競争が行われた結果、道路の混雑だけでなく乱暴な運転や馬の酷使が問題化しました(なお最盛期の1900年頃には4万台を越えています)。そうした中、千里軒の大馬車よりも大型の車両を用いた「馬車鉄道」の導入が議論されるようになりました。

「ただの馬車より効率的」海外の先進例を参考に開業

馬車鉄道とはレール上の客車を馬が牽く交通機関で、1832年にニューヨークで開業した「Street Railways(市街鉄道)」に始まります。その名が示すように世界初の「都市交通機関」でした。

ニューヨーク市街鉄道は事故が多発して一時営業が禁じられますが、1850年代に解禁されるとアメリカ各地に広がり、やがてイギリス、ヨーロッパでも相次いで建設されました。日本でも1872(明治5)年に初の馬車鉄道計画が浮上しますが、馬車鉄道を敷設するには道路が狭く、千里軒の件もあって慎重論が強く、1875(明治8)年に出願は却下されました。

それから5年後の1880(明治13)年、新橋から京橋、日本橋、上野を経て、浅草、蔵前、浅草橋経由で新橋に戻る新たな馬車鉄道計画を出願したのが「東京馬車鉄道」です。この頃には馬車鉄道の必要性が認められており、内務省や東京府は計画を承認。鉄道局も新橋駅構内の土地を車庫用地として貸与しました。

官設鉄道の「新橋以北への延伸」については、莫大な費用と労力を要することから事実上不可能と考えており、鉄道局は馬車鉄道の育成を図ることでこれを代替したいと考え、支援に踏み切ったようです。

そして1882(明治15)年6月25日、東京馬車鉄道は新橋~日本橋間約2.5kmで開業。毎月のように延伸を重ね、同年12月1日には新橋~上野・浅草間の全線が開業しました。運転速度は8km/h。所要時間は新橋~日本橋間14分、日本橋~上野間28分、上野~浅草間18分、浅草~日本橋間32分でした。

馬車鉄道は市民に熱狂をもって迎えられ、開業翌年の1883(明治16)年には年間390万人が利用。開業5年後の1888(明治21)年には755万人に達しています。この間、車両は42両から62両、馬は262頭ら444頭へと増強されました。

「利用が多すぎて限界」!? 都心の馬車鉄道は早くも「世代交代の波」に

しかし運行本数の増加は新たな問題を引き起こします。ひとつは人力車や乗合馬車と比較して大きく重い車両が頻繁に運行することによる道路の破壊です。鉄道運行によって生じる修繕費は東京馬車鉄道が負担すると決められていましたが、同社は大きな利益をあげているにもかかわらず消極的な態度を貫きました。

もうひとつは馬の糞尿です。東京の道路が舗装化されるのは何十年も先のことであり、路面を保護するため水で洗い流すことができないため、ひどい臭気が漂いました。交換待ちで停車時間が長い日本橋付近では「多数の馬が勢いよく放尿して地面が掘り起こされる」こともあったとか。しかし馬車鉄道はもはや東京に欠かせない存在となっており、抜本的な対策は先送りされました。

株式の売買を開始し、創業以来の負債を解消した東京馬車鉄道はさらに積極経営に転じ、1887(明治20)年に品川、新宿、板橋、千住の計4路線の新設を出願します。しかし、これら各方面では道路の改修自体が進んでおらず、いずれも認められませんでした(品川線は後に品川馬車鉄道として実現し、東京馬車鉄道と合併)。

1890年代に入ると日本経済の近代化が進み、1890(明治23)年に138万人だった東京の人口は1895(明治28)年に163万人、1900(明治33)年には194万人、馬車鉄道の利用者に至っては832万人から1547万人、3345万人へと急増しました。しかし存在感が増せば増すほど馬車鉄道の限界が見えてきます。

いっぽうで、1881(明治14)年にベルリンで世界初の電気鉄道(路面電車)が開業。日本でも1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会で電車の「展示運行」が行われ、1895(明治28)年7月に「京都電気鉄道」が開業しました。

東京では1889(明治22)年に最初の電気鉄道が出願され、東京馬車鉄道も1893(明治26)年11月の株主総会で動力の変更(電車化)を決議するなど、路面電車導入の機運が高まります。1900(明治33)年に動力変更が許可されると東京馬車鉄道は東京電車鉄道に改称し、1903(明治36)年11月に東京市内初の電車を新橋~品川間に開業しました。

日本初の本格的都市交通機関として開業した東京馬車鉄道は、様々な課題や限界を抱えながらも、その後の電車時代の下地を作った存在だったと言えるでしょう。

新橋駅前を通行する東京馬車鉄道(『日本鉄道紀要』より)。