急速な人口減少に伴い、様々な業界でマーケットの縮小が続いています。苦境に立たされる中小企業は、生き残りのためにどのようなビジネスモデルを築くべきでしょうか。本連載では、戸波亮氏の『葬儀会社が農業を始めたら、サステナブルな新しいビジネスモデルができた』の中から一部を抜粋し、新事業展開によって経営基盤強化を実現した葬儀会社の事例を紹介しながら、中小企業の生き残り戦略を探ります。

甘い考えで転職した葬儀会社は倒産寸前

私は大学卒業後、大手運輸企業の子会社で働いていました。そして3年ほどした1994年、母方の祖母が創業した葬儀会社に誘われて転職したのですが、当時、葬儀業界についてはほとんど何も知りませんでした。

祖母は横浜の野毛や伊勢佐木町界隈でスナックとクラブを5店舗経営していたビジネスマインド溢れる人だったのですが、50歳ですっぱりとリタイアし、店を全部売り払って南房総の鋸南町に家を建て、悠々自適の隠居生活を始めました。

ところがその後、突然起業を決意して周囲を驚かせます。しかも葬儀業ということで親戚一同は猛反対だったのですが、それを押し切って1986年に会社を立ち上げました。祖母によると、近所の葬式に参列したときに設営や運営のレベルが低いことに驚いたのがきっかけで、根っからのビジネスマインドに再び火が付いたということでした。

当時、私は大学生で祖母が葬儀業を始めるという話は聞いていましたが、小学生の頃からずっと会っていませんでしたし、気にも留めていませんでした。ただ、母から「おばあちゃんが新しい会社をつくったから顔を見せに行っておいで」と言われ、葬儀業という未知の業者に対する好奇心から、夏の間1カ月ほどアルバイトに行ったことがありました。

それが突然、社会人になってから「支度金を渡すからうちに来なさい」と祖母が連絡してきたのです。祖母にとって私は外孫の次男であり、正直どうして自分が指名を受けたのかさっぱり分からないながらも、応じることにしました。祖母の血筋なのか、もともとビジネスに興味があったことも転職した理由の一つです。

経営者として経験豊富な祖母のやり方を近くで学べるというメリットを感じていました。

また、中高生の頃はちょうどスーパーカーブームの世代で、将来は社長になってフェラーリに乗りたいなどといった甘い考えもあったため、自分でゼロからビジネスを立ち上げるよりも、当時すでに売上が1億円以上あった祖母の会社を継げる可能性があるなら悪くないと思い、転職を決めたのです。

多額の投資で資金繰りが悪化

ところが、そんな甘い考えはいきなり打ち砕かれました。私が転職する前年、祖母の葬儀会社は当時の売上の倍以上の資金を借り入れ、初めてのセレモニーホールを千葉県君津市に建てたのです。

それまで自宅やお寺、集会所での葬儀が中心だったのが、セレモニーホールでの葬儀にシフトするという時代の流れを読んだ祖母の判断自体は間違ってはいませんでした。ただ、千葉の南房総では都市部に比べるとタイミングが少し早かったのです。

思ったほど利用者が集まらず、会社の資金繰りは急速に悪化していました。

当時、社員が6人で祖母ともう一人の親族が役員という構成でした。地元の葬儀業界では最後発であり、なかなか市場に食い込めていなかったということもあり、祖母は反転攻勢をかけようとしていたのです。

そのための要員として私が引っ張られたのだろうと思いますが、市場規模が徐々に縮小しつつあるなかで従来どおりの営業をいくら頑張ってみても、先は見えているというのが私の率直な思いでした。

そこで入社した私はさっそく、新しい営業施策を考えました。

例えば、地元で名の知れた先発組に対抗して個人の顧客を獲得するのは難しいと考え、労働組合といった法人先を開拓することにしました。葬儀の費用でそこそこの金額になるのが白木でできた祭壇のレンタル料です。

そこで生協や労働組合にあらかじめ専用の祭壇を買ってもらい、組合員はそれを割安に利用するという提案を行い、一定の成果を上げました。ただ、ほかにも新しいアイデアをいろいろ出したものの、業界の常識が染み込んでいた祖母や親族の役員とは意見が合いません。

祖母からの期待は感じていましたし、私なりに意欲をもって会社の立て直しに知恵を絞っていたのですが、親族の役員との関係性に気を使う面もあり、お互いに相手に対して踏み込み切れない、もどかしい状態になっていました。

そうこうするうち、会社の経営状態はますます悪くなっていきます。まだ20代半ば過ぎの私には再び転職する手もありましたが、せっかく祖母が立ち上げた会社ですし、投げ出すのも嫌でした。立て直しの方策はいくつか腹にありましたが、それを押し通せるほどの説得力が自分にあるだろうかという葛藤もありました。

しかしあるとき、祖母から「お前がなんとかしてくれ」と言われ、自分の手で立て直すしかないのだと腹をくくりました。

経営権を引き継ぎコストカットに着手

立て直しのために進むべき方向は私のなかで見えていました。ただ、祖母の会社であるということや、親戚の役員との関係性がいわば足かせになってしまっていて、そのままでは何もできないという状態でした。

変化しなければ生き残ることは難しいという危機感が私にはありました。葬儀業の常識の枠に収まっていようとすることは、淘汰を待つことと同じだと考えていました。

しかし、祖母と役員の親族や既存の社員たちは会社の業績を戻したいと願ってはいても、それはあくまでも過去の延長線上の話であって、私が言うような業態自体を見直すような変化は求めていなかったのです。

私は祖母と親族の役員に対して、自分に株式を渡して経営を任せてもらいたいと要求し、そうでなければ自分が辞めると迫りました。

当時、会社は債務超過寸前で株価はほぼゼロであり、株の譲渡に税務上の問題はありません。また万が一、会社が倒産ということになれば個人保証をしている祖母や親族の役員の個人資産にも影響が及びます。

さらに私は、祖母と親族の役員に退職金を支払うことを約束しました。中小企業ではよく役員への退職金の代わりに会社に籍を何年か残し、役員報酬の形で渡すといったことを行います。業績が悪くなれば金額を減らし、役員が早く亡くなればそれ以降の支払いは不要です。しかし、それでは経営権の所在が曖昧になります。

結局、当面は祖母と親族の役員には実質上、経営から手を引いてもらい、会社再建の目途が立った段階で退職金を支払い、株をすべて私に渡してもらうことにしました。そして4年後にそれを実現しました。

実質的に経営を引き継いだ段階で私がまず着手したのは、コストカットです。祖母が持っていた会社名義のクレジットカードを停止し、役員報酬を大幅に引き下げました。

また、社長室や役員室をなくし、業務効率をアップするため事務スペースや葬儀用品などの在庫スペースを広くしました。ちなみに、現在も私は本社の倉庫を社長室として使っています。

さらに取り組んだのが社員の意識改革です。それまで会社は祖母の「Myカンパニー」であって、社員も会社のためというより祖母の顔色をうかがうようなところがありました。祖母に悪気はないのですが、自分の言うことをよく聞く社員にはボーナスを多めに出すようなことをしていました。

これを正さないと会社の立て直しができないと考え、社員への説明と説得を始めましたが、既存の社員はなかなか話を聞いてくれません。会社がつぶれれば社員にとっても大きなマイナスなのですが、それまでのやり方を変えられないのです。

こちらは会社がつぶれるかどうかの瀬戸際です。腹をくくって社員ととことん話し合ったり、時には頑固な相手になんとかこちらの言い分を分かってもらいたくて、つい大声を上げたりすることもありました。