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 JR東海の社長・会長を務め、2022年5月に亡くなった葛西敬之氏。安倍元首相との緊密な関係から、7年8か月に及ぶ長期政権下では陰に陽にその力を発揮した。国家プロジェクトを操る葛西氏のスケール感は、いったいどこから来たのか。2人の評論家・作家が語った。

(*)本稿は『日本の闇と怪物たち 黒幕、政商、フィクサー』(佐高信・森功/平凡社)の一部を抜粋・再編集したものです。

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国鉄民営化に関わったのがきっかけだった

佐高 JR東海葛西敬之*1を扱いたい。

*1 葛西敬之(1940〜2022) 1963年東京大学法学部卒業後、国鉄(日本国有鉄道)入社。86年職員局次長。87年、JR東海発足とともに取締役総合企画本部長に就任。常務取締役などを経て、95年同社社長、2004年に会長、14年に名誉会長に就任。06年から11年まで国家公安委員を務めた。

 葛西は昨年5月に亡くなり、その半年あまり後に森さんの『国商――最後のフィクサー葛西敬之』が刊行されました。これまで、葛西の安倍への影響という面はさほど取り上げられなかった。また葛西の素顔も伝えられなかった。森さんの本は丹念な取材でそこを描き出しています。

 葛西こそが安倍政治の元兇と呼ぶべき存在だということが、この本でよく分かる。

 葛西をよく知る佐高さんにそう言っていただけるとありがたいです。

佐高 まさに「国商」というのは、「政商」のさらに上の存在ということだと思います。

 あとで詳しく話しますが、2017年の日米首脳会談で、安倍がトランプに高速鉄道プロジェクトを売り込むのを見て、葛西は「よくやってくれた」とほくそ笑むわけです。

 そういう国家規模というか国際規模のプロジェクトに介入するスケールと、もう一つ、安倍を利用してNHK人事にも介入し、ためらいなく思想統制に踏み込むという支配欲、権力欲、それと自信ですよね。これは異様なものがある。

 こういう桁違いのフィクサーぶりは、葛西が国鉄民営化という、いまの新自由主義社会を生み出すきっかけになった、とんでもない国家事業に関わったからだと思います。

 葛西との因縁で言うと、かつて私は国鉄の分割民営化に反対していたので、そのいきさつも交えて話したいと思います。

非主流の分割民営化路線をひっくり返した

佐高 国鉄改革三人組というと、井手正敬*2、松田昌士*3、そして葛西というふうになるわけですけども、やはり葛西が一番過激というか急先鋒でしたよね。

*2 井手正敬(1935〜) 1959年東京大学経济学部卒業後、国鉄入社。87年、JR西日本代表取締役副社長、92年社長、97年に会長就任。2003年に相談役に就任。05年に起き、107名が死亡したJR福知山線脱線事故の責任を取って相談役を辞任。

*3 松田昌士(1936〜2020) 1961年北海道大学大学院法学研究科修了後、国鉄入社。JR東日本では93年に社長、2000年に会長就任。02年に政府の道路関係四公団民営化推進委員会委員に就いたが、他の委員と対立して辞任。05年に起きた羽越本線の脱線死亡事故の責任を取って会長を辞任。

 そうですね。この三人は年代が少しずつ離れているんですね。井手が1935年生まれ、松田が36年生まれ、で、葛西が40年生まれとなる。

佐高 一番下の葛西が一番アクティブだった。

 当時有名になった葛西の発言があります。

 1986年5月21日に、国鉄本社職員局次長だった葛西は動労(国鉄動力車労働組合)の幹部役員を前に講演して、当時の国労(国鉄労働組合)の山崎俊一委員長の腹をぶん殴ってやろうと思いますと笑わせた上で、「不当労働行為は法律で禁止されていますので、私が不当労働行為をやらないと言っているのは、つまり、うまくやるということでありまして」と言った。これはかなり問題になったんですよ。

 つまり葛西は、国労と動労に対してストによる損害賠償請求裁判をやる構えを見せて、そのとき動労が転向しますよね。松崎明*4コペルニクス的転回、コペ転と言われている。そこで葛西は動労に対しての分だけ裁判を取り下げる。

*4 松崎明(1936〜2010) 1955年、川越工業高校を卒業後、国鉄に入社。61年、動労青年部を結成して初代部長となり、ストを辞さない過激な闘争手法で国鉄当局と対立。その後組合活動を理由に解雇されたが動労に残る。75年のスト権奪還闘争では国労と一体となって、全国の列車を8日間にわたって止めるなど、「鬼の動労」の象徴的存在だった。国鉄の分割民営化には当初反対したが、その後に方向転換し国労を切り捨て、当局寄りの鉄労(鉄道労働組合)と手を組み、労使協調、民営化賛成にまわり、“松崎のコペルニクス的転回(コベ転)”と言われた。

 葛西というのはエリート集団のなかでそういうエグい攻撃をやってきた。普通は、そこまで悪どいことはやらないのがエリート集団だけれども。

 そうですね。普通の国鉄キャリアというか、キャリア官僚はね。

佐高 エリートの中でも、葛西は言ってみれば肉食獣だよね。大体は草食系なんだけれども、葛西は珍しく臆面もなく肉食獣だな、と。

 ただ、国鉄分割民営化路線は、最初は主流じゃなかったわけだから、そのプロセスでは葛西は冷や飯を食わされてもいますよね。それを力ずくでひっくり返していく。

 当時の葛西がやったことは、言ってみれば、田中角栄*5への挑戦ですよね。国鉄というのは田中の天領みたいなものだったから。

*5 田中角栄(1918〜1993) 新潟県生まれ。高等小学校を卒業後、上京して働きながら中央工学校を卒業。1947年民主党公認で衆議院議員に初当選して以来、86年の総選挙まで連続16回当選。48年、炭鉱国家管理法に絡む疑獄に連座し、収賄容疑で逮捕(二審で無罪)。57年、当時としては史上最年少の39歳で岸内閣の郵政相。池田、佐藤両内閣で蔵相、通産相、自民党幹事長、同政調会長など要職を歴任。72年7月、自民党総裁選福田赳夫を破り、54歳で首相(党総裁)に就任。「今太閣」「庶民宰相」などと評された。同年9月、日中国交正常化を果たす。74年10月に自らの金脈問題が表面化し、金権政治の批判を浴び12月に退陣。76年7月にはロッキード事件で外為法違反容疑で東京地検に逮捕される。直後に自民党を離党するも最大派閥を率いて最高実力者として君臨。ロッキード事件は一審、二審とも懲役4年の実刑判決、死去したときは最高裁に上告中だった。

 田中は日本列島改造と鉄道建設を強力にリンクさせていた。

 それ以前は国鉄は、戦後、鉄道総局長から身を起こした佐藤栄作の天領だったわけだけども、国鉄をめぐるそういう体制に対する反対派の中心に、葛西がいたんだなという、そういうことだと思いますね。

 そうですね。そのエネルギーだけは凄まじい。

公の私物化と国労つぶし

佐高 国鉄分割民営化に対する、当時の私たちの反対の論理というのは、分割民営化とは会社化であるという認識が基本でした。

 80年代までは「三公社五現業」という言葉がありましたよね。三公社とは、国鉄、専売公社、日本電信電話公社のことで、五現業とは、郵政省の郵政事業、大蔵省の造幣局と印刷局による造幣事業と印刷事業、農水省林野庁による国有林野事業、それと通産省によるアルコール専売事業を指した。

 つまり分割民営化とは、国鉄を三公社五現業という公的なものから会社にするということです。それに対して、内橋克人さんや私は力を尽くして反対したんです。

 日本の会社の実態を嫌というほど見ている者からみると、会社にすれば良くなるというのは当たらないという現実認識と、国鉄という国民の財産である「公」の存在を切り売りすることへの危機感です。そこにたかってうまい汁を吸おうとするやつらは許せないという思いがあった。

 それともう一つは、国労つぶし、そして社会党つぶしという明らかな権力側の意図です。これは中曽根康弘*6がはっきり明言しているわけですね。

*6 中曽根康弘(1918〜2019) 群馬県生まれ。東京帝国大学法学部卒業後、内務省入省。海軍主計少佐、警視庁監察官などを経て、1947年衆議院議員に当選。科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通産大臣、行政管理庁長官などを歴任し、82年内閣総理大臣に就任。「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行い、当時のレーガン米大統領とは日米関係強化を進めた。2003年に政界引退。

「国労は総評の中心であるから、これは崩壊させなくてはならない。首相になって国鉄の分割民営化を真剣にやった。みなさんの協力で成し遂げられた。最も反対していた国労は崩壊した。そうして総評が崩壊し、社会党が崩壊した。それは当初から意図してやったのだ」

 安倍以降の保守政治家の異様な劣化のなかで、リベラル側までが、かつての中曽根はいまの首相とは次元が違う国家観、世界観を持っていたという話をしがちで、事実それは当たっている部分もあるんだけれど、私なんかは、中曽根こそが「公」を破壊して、いまの新自由主義全盛の時代への道筋をつけた張本人だと思っています。そこを批判し続ける必要があると思う。

 公のものを平気で私物化する。

 つまり葛西は公ということを考えていないと思うんですよ。というか理解できない。

 ものみな会社化へという潮流のなかで、何か水を得た魚のように、多方面に動き回り、力を伸ばしていく。

 私が国鉄分割民営化への反対運動をしていたころ、葛西のことはさほど意識していなかったけれども、その後、中核はこいつだったんだな、と気づくわけです。

「分割論も研究すべきじゃないか」

 いまにして思えば、というところがありますよね。その後の成り行きを見ていると、当時一番若手だった葛西が中心になっていった。そのあたりの経緯は、僕も佐高さんと同じように見ています。

佐高 松田も井手も、葛西ほどきめ細かく、また強引にはやれなかったというところがあるでしょう。

 この間、井手に会って、そういう話もいろいろとしました。もともと分割民営化は誰の発想だったのか、ということを訊いたんですね。そうしたら、あれは我々三人組とか言われるけれども、国鉄側はそこには一切タッチしていないのだ、と答えるんです。

 やれと言われたことを官僚としてどういうやり方があるかを模索したのであって、要するに「分割」と「民営化」と二つの話があって、当初は民営化論が先行して、その後解体というか、分割に近い話になっていく。

 最終的に分割になるというのは、それはやはり国労つぶしの意図が大きかったんでしょう。当時、国労の組合員は20万人ぐらいいたんですね。井手の話を聞いていると、国労は全国組織なので、それを解体しなくてはいけないという大命題が、どこからか降って湧いたように出てきたという印象です。

 1985年に、三人組の中で井手が中心となって、最後の国鉄再建計画というのをまとめるんですよ。その内容はまだ分割にまでは踏み込んでいなくて、それに対して最初に「分割論も研究すべきじゃないか」と言い出したのは、一番若手の葛西だったということのようです。

 だから、国鉄側で分割論に与して、それを主導していたのはやはり葛西なのかなという気がしているんですね。

佐高 電電公社は民営化されてNTTになるわけだけど、分割じゃないですよね。あそこには全電通委員長の山岸章*7という物分かりのいい人がいて、「民営化賛成、分割反対」だったからですよね。

*7 山岸章(1929〜2016) 富山県郵便局勤務の労働運動に身を投じる。電電公社(現NTT)の労組委員長として公社の民営化に立ち会う。1989年に総評と同盟が合流して発足した連合の初代会長として組合員約800万人の先頭に立った。また、93年には自民党を離党した小沢一郎と連携し、細川連立政権の樹立の仕掛人とされた。

 だから、NTTの全電通との対比で言うと、国鉄のほうはあくまでも国労の力をそぐという狙いが先行した。

 その過程ではまず民営化しておいて、しばらく様子を見ようじゃないかという方向性もあったわけですね。

 そういうことだと思います。

佐高 そういうなかで、葛西が分割民営化へと突っ込んでいったという印象ですよね。

 これは井手の話ではないんですけど、別の当時の国鉄幹部に訊いたら、実際たしかにそのとおりで、しかもそれは瀬島龍三*8の発想だと言うんですよ。要するに、分割論は葛西と瀬島が組んで進めたのであり、瀬島の入れ知恵だと。

*8 瀬島龍三(1911〜2007) 富山県生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校を首席で卒業し、1939年大本営参謀となる。その後、関東軍参謀を歴任。敗戦後、ソ連抑留。56年に帰国し、58年伊藤忠商事に入社。安宅産業との合併責任者を務めるなど、伊藤忠を繊維商社から総合商社に脱皮させるのに尽力した。副社長、副会長、会長を経て81年に相談役。87年から2000年まで特別顧問。また、81年から83年まで第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員、83年から86年まで、第一次臨時行政改革推進審議会(第一次行革審)委員、87年から90年まで、第二次行革審の会長代理を務める。

「分割して国労をつぶせ」。

 それは実際に、中曽根が後に言ったとおりになったわけですが、分割によって労働運動を解体するというのは、なるほど瀬島という作戦参謀らしい発想だという気がしますね。そこに葛西が乗っかる形で進められたのが国鉄分割民営化だ、と。

 この話は分割民営派ではなく国体護持派だった人の話だから、若干割り引かなければいけないかもしれないけれど、それにしても、なるほどと頷けるものがありました。

 松田は亡くなったけど、井手に言わせると、「自分たちの発案じゃない」ということだったから、そこは整合性があるのかなと思います。

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