舌鋒鋭い口調で関西最後の大御所と恐れられた上岡だが、意外な素顔があった。コンビ時代に「超次元タイムボンバー」(テレビ朝日系)で前説を務めたピン芸人・やくみつゆ氏が明かす。

「番組はこれからゲームセンターに導入されるゲームで芸能人が戦うというバラエティー番組。ただ、頻繁にマシンに不具合が発生するんで、そのたびにお客さんの前に出て行って、ネタを披露していました。急に止まった時は上岡さんも控室に戻らず、1時間くらいネタをやったこともありました」

 ある日、音楽コントで「ドレミファソラシ、げ~」というボケをかましたところ、ダメ出しが飛んだ。

「上岡さんは『そのネタはおかしいよ。音楽業界にゲー(Gのドイツ語読み)はあるから』と怒られました。そしたら番組に出ていた加藤茶さんも『あるよ』って。僕らのネタでも真面目に指導してもらって、ありがたかったです」

 この共演を縁に上岡の独演会にも招待されたことが今では懐かしい思い出だという。

 芸能界入りに際し、上岡は最初に浜村淳に弟子入りを志願し、断られたという有名な逸話が残っている。しかし、当時を知る芸能プロ関係者がこのエピソードの種明かしをする。

「実は、上岡さんは浜村さんの芸に憧れて弟子志願したのではなく、『どこやったら、いちばん早く芸能界で売れることができるか』と考えてのことだった。当時、渡辺プロに所属し、テレビやコンサートで引っ張りだこだった浜村さんのもとに入れば、すぐに人気者になれると思ったのでしょう。普通だったら“そんな芸に惚れたわけではない”とは言いませんが、そこは上岡龍太郎。『浜村淳程度であれば、僕ぐらいの力でも潰されずに、売れると思ったんですが‥‥』と、堂々とテレビでもしゃべってましたね」

 日頃「若い時の苦労は買ってでもしろと言いますが、それは違います。苦労なんか買わんでもどんどん向こうからやってきます」という上岡の名言が蘇るようだ。

 最後に植竹氏が引退後の上岡氏の晩年の様子について述懐する。

「年に数回はお電話でご挨拶をしていたんです。最近見たお芝居や映画などのお話をずっとされていて、現役時代と変わらないしゃべりと雰囲気がたまらなくよかった。だから一度だけ、ラジオで声だけでも出演してもらえませんか、とお願いしたのですが、『他のところもすべてお断りしているので、申し訳ない』と一貫して表舞台には出演されなかった。また、亡くなってから人づてに聞くと、体調を崩されていた時期もあったそうですが、僕にはそんなことは一切言わなかった。弱いところを絶対に見せませんでしたね。最後にお話をしたのは、まだコロナが猛威を振るっている頃『どこにも観劇に行けず、何もやってませんよ』みたいな、いつもと変わらない会話が最後になってしまいました。本当に残念です」

 2000年4月、大阪・松竹座での最後の舞台「かわら版忠臣蔵」で、

「なんの苦労もなく、楽しいだけの40年でした。もう思い残すことはございません」

 と、引退口上を述べた上岡。前言を翻すことなく、二度と芸能界に戻ることはなかった。

 故人の強い遺志によりお別れ会などは行われていない。謹んで稀代の天才芸人を追悼したい。

上岡龍太郎「知られざるタレント交遊」

横山やすし(享年51):「漫画トリオ」の付き人時代に「パンチさん(上岡)とコンビを組みたい」と熱望。しかし、「似たタイプが組んだらあかん」と反対される。後に西川きよしとコンビを結成

カルーセル麻紀(80):大阪ストリップ劇場「OSミュージックホール」で共演した古き友。上岡の番組企画で50人のゲイを集める協力も。東京進出後、上岡は「麻紀、東京は合わへん」と吐露したという

桂米朝(享年89):芸風にほれ込み弟子入りを目指すも、桂枝雀の芸達者ぶりに断念。引退後に「米朝・上岡が語る昭和上方漫才」を共著で刊行。15年の合同葬には一般人として参列した

立川談志(享年75):二ツ目・柳家小ゑん時代から「漫画トリオ」と交流。上岡は落語立川流の弟子として講談も行った。高座名「立川右太衛門」は敬愛する時代劇スター「市川右太衛門」に由来する

川藤幸三(73):「カネは出さぬが口は出す」と阪神の陰のオーナーを自称した上岡。83年、自由契約の危機の川藤のために「球団が出さんかったら、ワシらが給料を出す」とカンパを集めた

島田紳助(67):デビュー当時の「紳助・竜介」の暴走族ネタを絶賛、応援。以後、紳助も心酔。「EXテレビ」(読売テレビ)火曜日で共演。期せずして上岡より3歳若い55歳で芸能界を去る

和田アキ子(73):「ラブアタック!」(朝日放送)の司会で共演。その後、「笑っていいとも!」(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」コーナーでは友達の輪つながりで呼んだこともあった

藤山寛美(享年60):上岡は「用心棒」など本格的な殺陣より様式美チャンバラ映画と松竹新喜劇を愛好し、みずから劇団「変化座」を立ち上げた。演出に寛美を招いたが、急逝のため実現に至らず

有賀さつき(享年52):「上岡龍太郎にはダマされないぞ!」(フジテレビ系)で共演。番組テーマ曲「愛がきらめく時」(作曲デーモン小暮)でデュエット。上岡いわく「有賀のデビュー曲で緊張した」

ジミー大西(59):芸人として芽が出ず、ぼんちおさむの弟子から明石家さんまの運転手に。「EXテレビ」の絵画チャリティー企画で上岡から「天才や!」と才能を発掘される。その後、画家に転向

間寛平(73):初マラソンで3時間13分57秒の好タイムで走破した寛平に「3万1357円」の祝儀を贈呈。4万1000キロを走破したアースマラソンのゴール・なんばグランド花月前にも出迎えた

中村美律子(72):引退後は極秘に三池嵐次郎(ミケランジェロ)の名で作詞家活動も。16年発売の「美律子の河内音頭~酒飲め音頭」の詞を提供していたことが死後公表された

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