中世ヨーロッパから現代のアメリカに至る覇権の移り変わりは、金融の世界での主導権の推移とリンクしています。今回は田渕直也氏の著書『教養としての「金利」』から一部を抜粋し、金利が国力におよぼす影響を見ていきます。

銀行を仲介役とする近代的な金融システムの成立

現代の金融では、お金のやりとりを仲介する存在として銀行が重要な役割を果たしています。

このような銀行を介する金融機能が整備されるきっかけとなったのは中世のイタリアだったとされています。

12世紀から14世紀にかけて、地中海貿易で栄えたジェノバベネチアなどの北イタリアでは、両替や貿易金融を扱う両替商が生まれ、やがて国などに対する融資(お金の貸付、ローン)などの業務も行なうようになっていきます。

とくに複式簿記の発祥地ともされるベネチアでは、帳簿上でお金のやりとりを記録していく金融業者が興隆し、それが現代の銀行の起源になったとされています。ちなみに銀行を表す英語のbankは、イタリアの両替商が記帳台として使っていた長い机を意味するbancoが語源です。

さて、金融取引にともなって発生する金利は、先に触れたとおり、人類の文明に古くから深く刻まれたものである一方で、不労所得として蔑視されたり、宗教的禁忌としてタブー視されたりすることも少なくありません。

たとえばイスラム教では、現代でも金利のやりとりが禁じられています。しかし、金利が得られないとなると、お金を貸そうとする人が現れなくなって、経済活動は停滞してしまいます。そこで、イスラム金融では、手数料やリース(物品や設備の貸し借り)料という名目で金利に相当するものをやりとりします。

ヨーロッパはキリスト教の文化圏ですが、実はキリスト教でもかつては金利のやりとりが教会によって禁じられていました。ですから、中世のイタリア両替商などでも、現代のイスラム金融のような形で金融業務を行なっていたケースもあったようです。

その一方で、中世のヨーロッパではユダヤ人の金貸しが多く存在し、金利を徴収していました。ユダヤ教もまた金利のやりとりは原則として禁忌だったのですが、「他教徒からは金利を取ってもよい」とされていたので、キリスト教徒にお金を貸し付ける金貸しが多くいたのです。

金利が普通にやりとりされるようになるには、こうしたユダヤ系金貸しの存在が大きかったとも考えられます。

現代でも、ユダヤ系を起源とする金融機関や運用会社は数多く存在しており、金融の世界におけるユダヤ系の存在感はかなりのものです。それも、そうした歴史からつながっている現象なのかもしれません。

ただし、フッガー家やメディチ家といったヨーロッパの初期の大銀行家は別にユダヤ系というわけではないので、ルネッサンス期を経て、キリスト教徒のあいだでも次第に金利のやりとりが一般化していったものと考えられます。

金利は覇権の変遷をも左右してきた

金利は、いうまでもなく金融活動の中核に位置する存在ですが、その影響はたんに金融活動の枠内にはとどまりません。ヨーロッパでは、16世紀にはスペイン、17~18世紀にはフランスが大国として覇権を握りそうになりましたが、それに対抗したのがオランダイギリスといった金融先進国です。

スペインフランスは国土が広く人口も多い大国でしたが、オランダはもとより、イギリスも当時は人口が少なく、規模でいうとスペインフランスとはだいぶ差があったのです。それにもかかわらず、最終的にイギリスは、スペインそしてフランスを凌ぐ大きな力をもつようになり、大英帝国を築きました。

こうしたヨーロッパにおける覇権の推移に、金利が大きく影響したといわれています。

スペインフランスは、大国であるがゆえに多くの戦争に関与し、その莫大な戦費を調達するために、国王が多くの銀行家から借金をしていました。ところが、借金の返済が苦しくなると、王たちは簡単にこれを踏み倒してしまいます。大国の王だからそれくらいは許されると考えていたのでしょう。

この踏み倒しが原因でいくつもの銀行家が破綻に追いやられたりするのですが、生き残った銀行家たちはいつ借金を踏み倒すかわからないスペイン王やフランス王への融資を渋り、融資する場合でも高い金利を課すようになっていくのです。

一方、当初は大国ではなかったイギリスは、1688年の名誉革命の後、金融先進国オランダの支援のもとで金融システムや財政制度を近代化しました。

これは財政革命と呼ばれていて、その後のイギリス躍進の原動力になったと考えられています。戦費を借金で調達しなければならなかったのはイギリスも同じでしたが、イギリスでは名誉革命で議会が政治的な主権を握るようになるとともに、徴税権を裏付けとして国の借金の返済にも責任をもつようになったのです。

こうして生まれたのが、国が発行する国債という制度です。

王の借金ではなく、国家が責任をもって返済する借金に変わったということです。実際にイギリスは、返済が苦しくなっても、なんとかやりくりして借金を返済し続けます。

その結果、銀行家や投資家の信頼を得たイギリスの支払う金利は、その水準が大きく下がっていきます。名誉革命以前、イギリスは借金に対して平均10%超の金利を払っていました。それがフランスと絶え間なく戦争をしていた18世紀には、そのおよそ半分くらいにまで支払金利を引き下げることができたのです。

イギリスが世界屈指の海軍力を整備できたのも、大国フランスに対抗し続けることができたのも、最終的に起きたナポレオンとの苦しい戦争を戦い抜けたのも、この資金調達力があったればこそです。

逆に、少し前のスペインも、その後のフランスも、金利負担が次第に重くなり、やがて必要なときに必要な資金を調達できなくなっていったことが大きく足を引っ張り、最終的に勝利を掴むことはできませんでした。

なお、オランダは陸続きのフランスとの攻防に疲れて、これら一連の争いから脱落していくのですが、それでもこの小さな国が一時的にせよ、グローバル経済を先導する国家として繁栄を極めたのは、やはり金融の力が要因のひとつだったと考えられています。

ちなみに金利とは直接関係がありませんが、1602年に設立されたオランダインド会社は、世界最初の株式会社といわれています。実はオランダこそが現代資本主義の生みの親であり、先ほど触れたように、イギリスが財政革命でお手本にするような金融最先進国だったのです。

このオランダからイギリス、やがてアメリカへと続いていくグローバル経済における主導権の推移は、そっくりそのまま金融の世界における主導権の推移に重なっています。