急速なデジタル化に伴い、社会自体が大きく変化している中国。なかでも、2018年に相互監視型医療共済として登場し、3年で運用終了した「相互宝」は、現代の中国社会を表象するサービスといえます。本記事では、一時は加入者数が1億人を突破した「相互宝」が、早々に運用を終了した理由について、NTTデータ経営研究所グローバルビジネス推進センターのシニアスペシャリスト岡野寿彦氏が詳しく解説します。

アリババの相互監視型医療共済「相互宝」が登場 

デジタル化は中国社会にどのような変容をもたらしたのか? 筆者は、

(1)「低い社会信用などの “困りごと”の改善、経済の構造改革」と「監視社会化」とがともに進展(両面をバランスよく見る必要)

(2)個人の意思決定において「テクノロジーを信頼」する傾向の強まり

(3)商品開発における消費者の主体性拡大

の3点に着目している。

本記事では(2)と(3)の代表的な事例であるアント・グループの相互補助・監視型保険「相互宝」についてケース分析を行う。日本と比較して、社会保険制度が整っていないとされる中国の課題を埋める形で一気に普及し、2021年12月時点で7500万人の加入者を抱えるまで成長した商品だが、2022年1月をもって運用を終了するに至った。

今後日本においても「自助」の必要性が高まる中で、デジタル技術を活用してどのような解決策をとり得るのか、どのような課題が生じるのかを考える参考としたい

「相互宝」の仕組み

芝麻信用(アント・グループが提供する信用スコアリング・サービス)のスコア600点以上の人を対象とする相互監視型医療共済である。加入時の保険金負担は不要で、ガンや心筋梗塞といった重大疾患時には30~39歳:上限30万元、40~59歳:上限10万元が保障される。

患者がオンライン上にアップした申請書類は、個人情報に配慮したかたちですべてのユーザーが閲覧でき、第三者機関の審査により保障金が支払われる。各期に認定された保障金の合計を参加者全員で割る仕組みで、アント・グループは8%の手数料のみを徴収する。

P2P保険(友人同士や同じリスクに対する保険に興味ある人たちでプールをつくり保険料の拠出を行う、保険をシェアする仕組み)はすでに存在するが、これに信用スコアを絡めて「相互監視しつつ皆で支え合う」ことがミソである。

芝麻信用で一定以上のスコアの人だけを対象にするので、ただ乗り志向の人は入れない。保障金の請求が加入者全体の負担費用に影響するため、案件の調査、紛争の解決など、透明性、公平性を保つことが重要になる。

信用スコアに基づく属性の近い集団が集まるからこそ、不正リスク対策のコストを抑えて運用を行える。また、社会行動が良い人はもともとリスクが少なく、さらに相互監視の中で健康な生活を送るように圧力がかかるため、検査による早期発見が増えて、結果として低い保険コストになるという循環を目論んでいる。

ブロックチェーンを利用し、契約、分担金の設定、支払いといった一連のプロセスの信頼性を担保している。

急速に拡大した「相互宝」だが…明らかになった課題

「相互宝」は、2018年に、「一人が病気になったら、皆で割り勘にする」を理念に、アント・グループを事業主体としてスタートした。2年という短期間で加入者は累計で1億人を超えた。単純に計算して、中国人の13人に1人が「相互宝」に加入したことになる。

アリペイ(モバイル決済)を入り口に簡単な操作で、当初の負担なしに加入できる手軽さで、低所得層や若年層が保険会社の保険商品に加入する前のつなぎのニーズに合致したことが、急拡大の要因とされる。

「責任準備金がない商品」であることに中国の保険会社から反発を受ける

中国の保険会社は、「相互宝」についてどのように見ているのだろうか? 実は、2018年10月のサービス開始時には、「相互保」という名称のアント・グループの金融商品ラインナップの中で保険業務をカバーする商品としてスタートした。しかし、中国金融監督当局から保険商品には該当しないとの指摘を受け、保険の「保」の文字を消去し「相互宝」へと変更した経緯がある。

中国の保険会社の知人に聞くと、保険会社は保険商品を販売するにあたり、顧客への保険金の支払いに備えて準備金を積み立てるが、これを行わない「相互保」が保険商品として発売されることに保険会社から反発があったとのことである。

加入者数が1億人を超えた「相互宝」は、保険会社としても、保障対象がかぶることもあって無視できない存在になった。同時に、次のような加入者のリスクが市場で指摘されることも増えて、保険業界関係者からは永続的な仕組みにはならないのではとの認識も聞かれていた。

市場で指摘された「相互宝」の2つのリスク

①会員の各期の分担金が急速に拡大

半月に一度、その期に保障金を申請して認められた総額を会員で割り勘する仕組みだが、公開されているデータによると、2019年6月上期に保障金を受け取った人数:100人、会員の分担金:0.33元/人だったのが、5ヵ月後の2019年11月上期にはそれぞれ1735人、3.03元/人と、分担金が10倍に急増している。

それでも年間(24期)で約100元ではあるが、発病する会員が増加、また「相互宝」を退会する会員が急増するなどの場合に、分担金がさらに増えるリスクがある。アント・グループは、顧客の不安を抑えるために、分担金は年間188元を超えない(超える場合はアント・グループが負担する)と言明したが、持続可能な仕組みなのか、懸念が持たれた。

②保障金支払が拒否されるケース:査定および会員による監査の仕組みが未成熟

「相互宝」が運用終了…理由は?

2021年12月28日、相互宝は、会員の権利・利益を長期的に保護するため22年1月28日をもって営業を停止すること、会員保障の中断を避けるため新しい保障プランを選択できることを発表した。

2018年の運用開始以来1億人を超える会員が参加し、17万9127人に保証金を支払ったこと、しかし最近1年間で相互補助・監視型保険をめぐる市場環境に重大な変化が生じたことが説明された。

2021年4月、アント・グループへの業務改善命令として「情報の独占の禁止」、「許可を受けた機関による金融商品やサービスの提供の遵守」が示され、ネット金融事業についても既存金融機関と同様の規制を適用するとされた。

「相互宝」は前述のように、当初は「相互保」という名称で保険商品として当局に申請したが、保険商品には該当しないとの指摘を受け保険の「保」の文字を消去し「相互宝」へと変更した経緯があり、規制強化の中で運営の継続は難しいと判断されたと考えられる。

「相互宝」の今後と日本への示唆

「相互宝」は急拡大の一方で課題が顕在化し、政府当局の規制が強化される中で、3年で運用を終了するに至った。信用スコアが社会インフラとして定着している中国と日本とを一緒くたに論じることはできないが、日本のデジタル化への示唆を3点挙げたい。

(1)「自助」とデジタル化

「相互宝」は、中国の社会保障制度の課題を埋める形で急成長した。相互宝の公開データによると1億人の会員のうち3割が農村・郡部、6割が3級都市以下の出身者であり、価格の安さと加入の敷居の低さというニーズに合致することで、健康保障市場で一定の役割を果たしたことは間違いない。

今後日本においても「自助」の必要性が高まる中で、一人ひとりの個人がより多くの適切な情報を得て自衛策を講じるために、これを支援することがデジタル化の大きな意義になるだろう。一方で、健康情報という機微な個人情報を「どこまで見える化することが適切なのか」、イノベーション創出とプライバシー保護のバランスが重要な論点になる。

(2)商品開発における消費者の主体性

伝統的な保険商品は保険会社が設計・販売・運用しているが、「相互宝」は、消費者の相互監視による「割り勘システム」がその本質である。アント・グループは、自らの収益を「運用手数料の8%のみ」とオープンにしている。

今後、ブロックチェーン技術の、「改ざんに強い」、「コストが安い」といった特徴を活かした分散型管理の実用化が進む中で、「相互宝」のモデルはさまざまな応用が考えられる。相互監視の仕組みがさらに進化するとともに、商品設計における収益構造の「見える化」が進み、消費者の関わり・主体性が拡大する可能性がある。

(3)アプリひとつで消費がすべて完結する「スーパーアプリ」の浸透

「相互宝」の急速な成長は、中国の消費者に浸透したアリペイの存在なしにはあり得なかっただろう。アリペイやWeChatなどいわゆる「スーパーアプリ」(一つのスマホアプリ内で、サードパーティ製のさまざまなアプリを起動できる、プラットフォームとなるアプリ)が、デジタル・イノベーションをつくり出すインフラの役割を果たした事例だといえる。

日本ではスーパーアプリは出現しづらいと筆者は考えるが、デジタル化の推進(デジタル政策)と電子政府の構築において、さまざまなサービスをつなぎ込める消費者との接点をいかにつくるかが重要ポイントとなることが本事例から理解できる。

※本記事は、岡野寿彦氏の著書『中国的経営イン・デジタル 中国企業の強さと弱さ』(日経BP 日本経済新聞出版)から一部を抜粋し、幻冬舎ゴールドオンライン編集部が本文を一部改変しております。

岡野 寿彦

NTTデータ経営研究所グローバルビジネス推進センター

シニアスペシャリスト

(※画像はイメージです/PIXTA)