企業・政府・市民。かつてその均衡は保たれていたが、近年、企業は株価を上げることに苦心し、損失を「税金による救済」で賄うようになった。なぜこのような資本主義の負の側面が露呈したのか? 新たな経済を構想することは可能なのか。情報政策の専門家、ニューヨークタイムズ紙のベストセラー『未来化する社会』の著者であり、イノベーションに関する世界的な専門家のひとりであるアレック・ロス氏の著書『99パーセントのための社会契約』(早川書房)から一部抜粋転載して紹介します。

「安定」に重きをおき続ける国・日本

ある日本人経営者から、日本の大手通信会社に勤める友人がこぼしたという話を聞いた。

友人の上司が脳疾患で倒れ、発話できなくなったが、会社はその上司に業務を継続させた。上司は毎日会社に来て、口から唾液が垂れるのをうまく止められないまま机のまえに座っていたという。日本人経営者は言った。

「アメリカではありえないことだ。退職に伴う手当は払うだろうが、仕事を続けさせることはない」  

終身雇用労働者に経済的安定を保証したし、企業も安定した労働力を確保できた。だが、病気で弱った人が管理職を続けられるような経済に、長期的な成功は見通せない。

世界経済の動きがいっそう速くなり、デジタル化も進むにつれて、日本はスランプに陥り、そこからまだ抜け出していない。1990年までの30年間で年平均6%の成長を遂げたが、それ以降の30年間はわずか1%だった。忠誠心を重んじる企業文化は、企業に素早い成長か素早い失敗が求められる経済には適さない。

近年、日本企業は終身雇用の方針を転換し、より柔軟な労働力を追求しはじめている。日本の若い労働力も、キャリアアップの機会が増えるこのダイナミックな労働市場を受けいれている。

ある調査では、2019年に大学を卒業する日本人の約半数が10年以内に転職する意向をもっているという結果が出た。大学新卒者が最初の10年間に多くの職場を渡り歩くことの多い欧米では、この数字はむしろ少なすぎると映るかもしれないが、日本にとっては歴史的な変化なのだ。

日本はアメリカ、中国に次ぐ世界第三位の経済大国であることに変わりはないが、伊藤はその地位をいつまで維持できるか不安を感じている。

「(日本は)老い、貧しくなりつつあり、油切れのおそれがある。盛りかえせるだけのエネルギーが残っているだろうか」

戦後の日本が築いてきた政治・経済モデルは、成長ではなく安定を重視していた。右派政党と大企業が権力を維持し、大衆は雇用主が用意する手厚いセーフティネットによって護られてきた。

アメリカの政治・経済システムは国民に機会の平等を提供するもので、結果の不平等は避けられない。日本はその逆だ。ルールに従っているかぎり、誰もがほぼ同じ結果を期待できる。

このような厳格な社会契約は、20世紀の中央集権的な産業経済に急速な成長をもたらし、冷戦時代にはアメリカの地政学的利益に貢献した。だがそれは2020年代の経済には当てはまらない。

とはいえ、古より日本文化そのものが「安定」に最適化されていたのだ。日本人の約70%が敬いの気持ちをもつ神道は、成長よりも再生に重きを置く。これは山の多い島国に住む日本人に適した考え方だ。海に囲まれているためどこにも行き場所がなく、何千年ものあいだ、島のなかで繁栄することがすべてだった。

アメリカやヨーロッパが西への拡大や植民地主義によって「成長中毒」になったのに対して、日本は似たような拡大志向をもつことはなかったと、日本のスタートアップのパイオニアで、のちにマサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボを率いた伊藤穰一は言う。彼はこの状況がすぐに変わるとは思っていない。

日本の歴史は長いから、変えるのはむずかしい。この1900年間、たいして変わっていない」

この先の未来は

多くの日本企業は何世紀にもわたって、再生の原則を実践してきた。日本には世界最古と認定された会社がある──。1300年以上前に開業した西山温泉(山梨県)慶雲館という温泉旅館だ。

伊藤穣一が贔屓にする料理店〈大市〉は京都で340年ものあいだ、すっぽん料理を提供しつづけている。

伊藤は、そこで働く人たちがその店に誇りをもっているのだと教えてくれた。

「彼らの目標は、社長になることではない。支店を増やすことでもない。そんなことをしたら、創業以来同じ建物で続けてきた商いが危うくなりかねない。職人という人たちは、商売を大きくしようとは思わない。もっと腕を磨こうと考える。商売の規模を二倍にしないのなら、どうする? 取り組んでいる仕事の質を2倍にするのだ。彼らの精進は量より質の向上にある」

今後数十年のあいだに、日本の経済は現在のハワイと同じように観光業中心になると伊藤は見ている。すでに中国人観光客に人気の旅行先であり、中国経済が成長しているあいだ、旅行客は増えつづけるだろう。

「日本のおもな生産物は文化になると思う」と伊藤は言う。

「一抹の寂しさはあるものの、それも悪くはない。日本の職人技や文化を後世に残していける」

伊藤の想像どおりに進むのか、それとも日本は経済的にもっとダイナミックに躍動し、レガシー産業や日本文化を超えたイノベーションと新しい富の創造源になるのか。

いま世界を再構築している力―いい面でも悪い面でも―を知り、みなさんがそれぞれの結論に至るうえで、本書が役に立てれば幸いに思う。アメリカを含め私たちはいま、颯爽とスタートを切れなかった2020年代の始まりにいる。いや、怒りにたぎっている。

この10年間が終わるときに私たちはより幸せになっているのか、それとも逆なのか。この先を読み、自身で判断していただきたい。

(※画像はイメージです/PIXTA)