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「娘たちには『ありがとう』『ごめんなさい』だけは厳しくいいました。対等の関係で、カラオケでも私の歌を歌ってくれます(笑)」と元さん

【前編】元ちとせ 反戦歌『死んだ女の子』原爆ドーム前での共演でふれた坂本龍一さんのやさしさから続く

ウクライナでの戦争など世界で軍事的緊張が高まるなか、広島の原爆で亡くなった女の子の歌『死んだ女の子』を歌い続ける元ちとせさん(44)。

この歌は先日亡くなった坂本龍一さん(享年71)がプロデュースし、自ら指揮をして録音。

そこで知った坂本さんの平和への思い。間近で感じた、戦争という過ちを繰り返さないとの巨匠の強い思いとそこに隠された深い愛情を忘れないーー。

今年もまもなく終戦の8月を迎えるが、毎年、この時期に、元さんが大切に歌い続けてきた歌がある。タイトルを、『死んだ女の子』という。

45年8月6日の原爆投下直後の広島を訪れていたトルコの社会派詩人ナジム・ヒクメットの詩に作曲家の外山雄三が作曲した作品。広島の原爆により、7歳で死んでしまった女の子の声を代弁したものだ。

〈あたしは死んだの あのヒロシマで〉と訴える歌詞は、炎に焼かれて死んだ子は、二度と甘いあめ玉もしゃぶれないといった切ない内容に続いていく。

元さんは、05年以来、毎年夏にこの曲を期間限定で配信を行い、その収益をチャリティとして寄付してきた。広島、長崎のあの悲劇を二度と繰り返さないという平和へのメッセージが込められた曲をプロデュース、アレンジしたのが坂本龍一さんだった。

「お会いする前から、とにかく、まわりのスタッフたちがガチガチに緊張しているのが伝わって、坂本龍一さんってそんなに怖い人なのかなと。私自身は、いつもどおり、先入観を持たずにお会いしたいと考えていました。

初対面はニューヨークの、坂本さんが“社食”と呼んでいるイタリアンカフェでしたが、そのときに聞いたのは、それこそ『みんな気をつかって、僕にオファーをしてくる人はそんなにいないんだ』と。だから、私たちの依頼を本当に喜んでくれていた。素顔は、とてもおちゃめな方でした」と、語る元ちとせさん。

その数日後、スタジオの指揮台に立つと一転、音楽家として繊細かつ妥協のない姿があった。

「20人ほどの国籍も肌の色もさまざまな演奏家を前に、坂本さん自ら英語で『死んだ女の子』の歌詞の意味と、原爆が落とされた広島の歴史について解説をしてくれました。それから、『この音楽を、あなたたちがアメリカで演奏するということに大きな意味があるんだ』と、力を込めておっしゃいました。

演奏前にしっかり意思統一をして録音を一発で終わらせようとしたのは、弦楽器の奏者にすごくハードな演奏が必要だったので、何回もやらせたくないという坂本さんの心遣いもあって。そういうやさしさは、本当にかっこよかったですね」

やがてスタジオの演奏家らの気持ちも高まっていき、そこに元ちとせさんの、平和な世界を心から願うという渾身の歌声が重ねられていく。

「二度と同じ過ちを繰り返してほしくないという思いで、みんなが一つになりました」

■広島平和記念資料館で衝撃を受けて『死んだ女の子』に向き合った

79年1月5日鹿児島県大島郡瀬戸内町で生まれた元さん。

19歳の秋に上京し、数寄屋橋のCDショップでアルバイトをしながら、デビューに備えた。

「ちょっとデモ盤を録るから」

所属した音楽事務所の当時の社長でプロデューサーも務めていた森川欣信氏(70)からある1曲を渡されたのは、このころのことだ。

「それが、『死んだ女の子』でした。単純に、なんで、こんな怖いタイトルの曲をと思いました。歌詞も原爆で幼い女の子の髪の毛が焼けたりするという内容で、正直、私の中ではどういう感情で歌に向き合っていいのかわからなくて。その録音のあとは私自身、歌いたい気持ちも起きないままでした」

インディーズを経て『ワダツミの木』でメジャーデビューを果たしたのは’02年2月。同曲はオリコン1位となり、80万枚を超えるセールスを達成する。ルーツにシマ唄を持つ、独特の歌唱法で、天にも届くような歌声は「神様の声」とも絶賛された。23歳だった。

続く2曲目『君ヲ想フ』もヒットし、ファーストアルバム『ハイヌミカゼ』も1位となり、第44回レコード大賞ベストアルバム賞に輝いた。初の全国ツアーも大成功。

快進撃が続いていた’04年1月、ホームページで結婚と妊娠が発表された。そして人気急上昇のさなかに、拠点を沖縄に移した。

「スタッフの理解もあって、沖縄と東京を行き来しながらの生活が始まりました」

翌05年、長女が誕生。そして、戦後60年の節目でもあったこの年の夏、元さんは、『死んだ女の子』の音源を発表した。

「母親になったことも大きかったです。でも、私自身、あの歌を忘れていたわけではありません。いつも頭のどこかにあった。再び歌う気持ちになったのは、広島を訪れたのがきっかけでした」

デビューしてすぐのことだった。

「夏に音楽イベントがあって、広島に行ったとき、初めて広島平和記念資料館を訪れました。正直に言うと、最初はどんなところかわかっていなくて、遠足のような気分で出かけてしまったのですが、一歩、資料館に足を踏み入れたときの温度感や、展示されていた被害の現実は衝撃的でした。原子爆弾の熱線で石段に焼きついて残っていた女の子の影も実際に見ました。当時、私は24歳で自分はもう大人だと思っていましたが、こんな大切な歴史の真実も知らないで大人だと思っていた自分を恥ずかしいと感じたんです」

資料館を出て、原爆ドームを見上げながら、同行していた森川氏に言った。

「『死んだ女の子』って、こういうことだったんですね」

続いて、こう口にしていた。

「もう一度、歌ってみたいです」

こんな心境の変化があった。

坂本さんの助力を得て、元さんの新たな代表曲の一つとなった『死んだ女の子』は、’05年8月5日より配信が始まる。翌日の広島への原爆投下から60年という節目の8月6日、元さんは報道番組『筑紫哲也NEWS23』(TBS系)において、原爆ドームの前で、坂本さんのピアノの生演奏により『死んだ女の子』を披露。裸足で歌い上げるパフォーマンスは大きな感動を巻き起こした。

「平和であることが当たり前じゃないということを、忘れてはいけないと思うんです。もちろん母親として、自分の子供が戦争に巻き込まれてほしくないという気持ちも大きいです。この歌をきっかけに、その思いが多くの人々に届くといいな、と思いました」

このあと、09年に長男が生まれた元さんは、生まれ故郷の奄美大島に帰る。

「島に戻ったのは子育てのためというわけではなく、どこかで漠然と“いつかは島に戻るんだろうな”という気持ちがあって、それがそのタイミングになっただけ。とはいえ、本当に、まわりに助けられています。島のお母さんたちも多くが働いていますが、私の場合は、ライブなどで島を離れなきゃならないことが多いのも理解してもらっていて。一度もPTAの役に立ったこともないですが、『いいよ、いいよ』と。

子供は、小さなころは勝手にどこかの家に泊めてもらっていて、今日はウチの子はどこなんだろうと(笑)。また、悪いことをしたら、誰かが叱ってくれるという島ぐるみの子育ても、私の幼いころと変わっていませんでした」

その後も、子育てをしながらの歌手業が続く。’11年3月の東日本大震災福島第一原発の事故を経て、翌年夏の「NO NUKES 2012」には、女性のソロアーティストとしてはただ一人参加して、『死んだ女の子』を歌った。

「これも、坂本さんからお声をかけていただきました。『死んだ女の子』をレコーディングしたときも思いましたが、あからさまに戦争反対とかではなく音楽でしか生まれないもの、熱いものを、お互いに同じ温度感で作品に詰め込むことができた。つくづく坂本さんの音楽というのは、人そのものなんですね。彼のやさしさ、愛情、思いやりが、その根底にある」

■「戦争はいやだ」という作文を書いた娘。自分の歌の意味が通じた喜びを感じて

アルバム『平和元年』は、元さんが、戦後70年を迎えた’15年夏に発表した。『死んだ男の残したものは』『さとうきび畑』など平和への祈りが込められた12曲で構成され、『死んだ女の子』もこのアルバムで聴くことができる。

「全曲カバーのこのアルバムを作ろうと思ったのは、坂本さんとの共演もきっかけの一つですし、さらには、吉永小百合さん(78)との出会いも大きいです」

アルバムの題字を書いたのは、その吉永さん。

「広島の平和コンサートに坂本さんとともに呼んでもらったときに、吉永さんとお話ししました。あの方は、戦後と同い年なんですね。『戦争から何年たったかを忘れてほしくないから、年齢を公表しています』と。吉永さんが平和に対する思いを、朗読会などを通じて届け続けていることに心打たれました」

そしてもう一つ、元さんの気持ちを後押ししたものがあった。

「前年に当時小学3年生の娘が書いた作文のタイトルが『戦争はいやだ』。私は、あんまり教育熱心でもなく、立派なお母さんを目指したこともありません。母と娘というより、同じ一人の人間として互いに歩いているという気持ちできたので。

ただ、『死んだ女の子』もそうですが、子供に私の歌について話すときに、戦争で奪われなくてよかった命が奪われることもあるんだよ、ということは常々話していました。幼い娘が聞いて、そこで生まれたハテナが彼女の引出しに残っていて、やがて成長して戦争報道のニュースなどを見たときに、『あっ、ママの言ってたことはこれだったんだ』とつながっていたと知りました。ああ、歌い続けてきてよかったと思えたんです」

ウクライナロシアの戦争も出口が見えないなか、平和への願いを歌い続けている元さんが今、思うこととは。

「奄美や沖縄の基地のことも含めて、何も知らないですむことじゃないですからね。いろんな考えがあるのは当然ですが、自分の意志を持つことは大事と思っています。

私自身、奄美の歴史をほとんど知らずに育って、ようやく20代になって03年の復帰50年を機に学びました。本土と行き来するのにパスポートが必要だったりする苦労を乗り越えてできた、島の人の絆の強さを知りました。もっと早いうちに理解していたら私の中で何かが変わっていたかもしれない。

だから、今の若い人たちにも、そうした歴史などを知っていてほしいと思うんです」

昨年のデビュー20周年のアルバム『虹の麓』や記念ライブなどを機に、再び旺盛な音楽活動が始まっている。

「原点に戻ってシマ唄ともう一度向き合いたいし、『平和元年』の第2弾もいずれ作りたい。そんな話も、スタッフと始めたところです。

死んだ女の子』は、坂本さんの参加により、国際的にも注目される力のある作品となりました。

音楽というものは世界中の人の音が集まって重なり合っても争い事にはなりませんから、そうやってできた歌をこれからも届けていきたいと思うんです」