昭和初期、東京の鉄道網をより効率化するために、新たな環状路線や放射路線が計画されていました。いったいどのような路線だったのでしょうか。

第3次「鉄道ブーム」となるはずの事業認定計画

東京では大正後半から昭和初頭にかけて、目黒蒲田電鉄(東急目黒線多摩川線)や東京横浜電鉄(東急東横線)、西武鉄道村山線(西武新宿線)、小田原急行鉄道(小田急電鉄)など山手線に接続する郊外私鉄が相次いで開業しました。

しかしその後は地下鉄を除いて大規模な新線建設は行われず、概ね昭和初期の路線網のまま現在に至っています。東京には多数の鉄道路線がありますが、それでも人口密度を考慮すれば路線と路線の間にもう一本路線があってもよかったように思います。なぜ東京の私鉄路線網はもう一段階の進化を遂げなかったのでしょうか。

東京では1900年代に電気軌道、1910年代に電気鉄道の出願ブームが訪れましたが、実は1920年代後半にも私鉄ブームが巻き起こりました。1923(大正12)年に関東大震災が発生すると、復興計画で幹線道路の整備など都市の近代化、あわせて郊外化が進んだのです。

復興計画の一環として地下鉄の整備計画が見直され、5路線からなる新たな路線網が策定されたことから、地下鉄整備でさらなる郊外化が進むと考えた勢力から新線の出願が相次ぎました。

こうした事態を受けて鉄道省は、都市計画を所管する内務省、陸運事業を所管する逓信省と協議し、将来の近郊開発と人口増加を考慮し、都市計画の道路計画と連携した鉄道整備で合意。その上で、地下鉄網を基準として「近郊鉄道網」を決定し、これに従って免許を与える方針を固めました。

これを伝える史料が国立公文書館の鉄道省文書、「鉄道免許・小田原急行鉄道(元帝都電鉄、山手急行電鉄)巻一」にとじ込まれています。「郊外地方鉄道網認定方針」と題されたメモに作成者や日付は記されていませんが、この文書の正式な位置づけや決定の経緯は不明ですが、1925(大正13)年2月15日読売新聞に「近く鉄道省で近郊鉄道網を作る」とあり、1927(昭和2)年3月発行の『交通と電気』が免許方針を固めたと報じていることから、この間に策定されたものと考えられます。

ではその内容はどのようなものだったのでしょうか。まずは前述の通り、鉄道省が現在の23区と隣接する周辺地域を意味する「大東京地域」内に放射路線と環状路線からなる路線網を設定します。

環状路線は山手線の外側2マイル(約3.2km)に2路線設定。放射路線は既設線から1マイル(約1.6km)以上離れた位置に設定し、起点は地下鉄計画5路線の終点とすることで既存ターミナルの混雑を防ぎます。また混雑の激しい既設線に対しては他路線とターミナルを繋ぐバイパス線の設置を認めます。

「2環状7放射路線」の整備方針リスト

そして、とじ込まれた「東京近郊地方鉄道網案」には次の9路線が掲げられています。

【環状路線】
1号線(27.6マイル)
起点 蒲田 終点 洲崎
経過地 池上、洗足、三軒茶屋、笹塚、中野、東長崎、下板橋、王子、北千住、鐘ヶ淵、中平井、新町、荻新田

2号線(33.9マイル)
起点 丸子多摩川 終点 洲崎
経過地 等々力世田谷新田、経堂在家、高井戸、正用、荻窪、南組谷戸、三軒在家、上板橋、志村、赤羽、下村、堀之内、梅田、五兵衛新田、普賢寺、奥戸、本色、大杉、東之江、二之江、小島、砂村

【放射路線】
1号線(5.2マイル)※前記「目黒玉川電気鉄道」
起点 目黒 終点 下野毛
経過地 中目黒、五本木、野沢、原、等々力(将来延長の場合大船に至る)

2号線(7.9マイル)
起点 渋谷 終点 吉祥寺
経過地 北沢、七軒町、高井戸、中屋敷

3号線(11マイル)
起点 新宿 終点 多摩墓地
経過地 川島、方南、大宮、打越、下山谷宿、南浦、野崎

4号線(5.5マイル)
起点 池袋 終点 向山(将来延長の場合越生町に至る)
経過地 北新井、向原、北早淵、田柄

5号線(5.5マイル)
起点 大塚 終点 戸田(将来延長の場合大宮に至る)
経過地 下板橋、志村、三軒家

6号線(7.5マイル)
起点 巣鴨 終点 鳩ヶ谷町
経過地 西原、船方、沼田、鹿浜、弥兵衛新田、八幡木

7号線(4.7マイル)
起点 南千住 終点 花(将来延長の場合野田に至る)
経過地 五反野、一ツ家

これを路線図に落とし込むと、環状路線は山手線を取り囲むように、放射路線は地下鉄の終端から既設線の間を縫うように郊外へ延びていることが分かります

実際に免許が下りたはいいが

それまで鉄道省は国有鉄道の併行路線を原則認めませんでしたが、都市部の利用者が急増する中、旅客の利便向上につながるならば積極的に認める方針に転じ、100件もの軌道・鉄道の出願から条件に合致する路線を選出しました。

1927(昭和2)年4月20日朝日新聞は、前日に行われた鉄道省議で東京大宮電気鉄道、目黒玉川電気鉄道、西武鉄道延長線、東京山手急行電気鉄道への免許方針を決定したと報じており、4月から6月にかけて以下のとおり免許が下りています。

1927年4月 東京山手急行電気鉄道 大井町~駒込~洲崎間(環状1号線)
・同月 (旧)西武鉄道 新宿~立川間(放射3号線)
・同月 目黒玉川電気鉄道 目黒~玉川間(放射1号線)
・同年6月 東京大宮電気鉄道 西巣鴨~大宮間(放射5号線)

実は4月20日は第1次若槻禮次郎内閣(憲政会)の最後の日であり、同日から田中義一内閣(立憲政友会)が成立します。つまり4路線への免許は政権交代前の"駆け込み決裁"だったわけです。

この裏には鉄道省内の方針の対立があったようです。同年7月発行の『交通と電気』には、東京山手急行電気鉄道の出願について、計画中の環状道路(現在の「環七」)が完成しバスの運行が予想される中、無理に山手線に近接した並行路線を建設しても経営的に成り立たないという根強い反対が省内にあったと伝えています。

しかし当時の次官が反対を振り切って無理やり決裁に持ち込んだようで、そうなると「認定方針」も鉄道省の公式な見解ではなかった可能性があります。

田中内閣の鉄道大臣小川平吉は免許を乱発し、のちに疑獄事件に発展したことで知られますが、こと東京については「認定方針」の影響も少なからずあったように思えます。小川在任中に免許された路線は以下の通りです。

1928年1月 城西電気鉄道 渋谷~吉祥寺間(放射2号線)
・同年2月 金町電気鉄道 金町~荻窪~鶴見間(環状2号線)
・同年6月 北武電気鉄道 日暮里~野田間(放射7号線)
1929年6月 東京西北電気鉄道 池袋~新座間(放射4号線)

しかし折しも昭和金融恐慌、昭和恐慌が直撃し、日本経済は長期低迷の時代に突入。元々、技術的、資金的裏付けに欠けた計画が多かったこともあり、東京山手急行電鉄と合併して小田急傘下の帝都電鉄となった城西電気鉄道がかろうじて現在の「京王井の頭線」を実現させただけで、他の計画は歴史の中に消えていきました。

戦後、都市交通審議会は既設線中間地域への地下鉄延伸を答申しましたが、私鉄各社が減収を懸念したことから実現せず、結果的に私鉄の路線図はほぼ昭和初期のまま現在に至っています。