2022年に、メジャーデビュー35周年を迎えた酒井法子1985年に発売した『男のコになりたい』でいきなりトップアイドルに駆け上がり、「のりピー語」を駆使し、正統派アイドルとは微妙に路線を画したユニークな存在として80年代のアイドル界に新風を巻き起こした。あれから35年――記念のベストアルバム『Premium Best』をリリースする酒井に、“アイドルな日々”を振り返ってもらうと、「私たちはソロだったから、ファンの方はアイドルと疑似恋愛ができた。憧れの存在にしやすかったのかも」と言うように、今また、Z世代女子を中心に盛り上がりを見せる80年代女性アイドルの人気の秘密が見えてきた――。

【貴重写真】“おキャンなレディ”…1987年デビュー時のキュートな酒井法子

■アイドルになったきっかけは、松田聖子への憧れ

のりピーの愛称で親しまれる酒井法子は、1985年に行われた、資生堂シャンプー「ヘアコロン」のイメージガールオーディションを受けたことをきかっけに芸能界への入り口に立った。その頃酒井が憧れていたアイドルは、80年代アイドルの先駆け的存在の松田聖子だったという。

「テレビっ子でしたし、小さい頃からテレビに出る人になりたいと思っていました。ある日、親戚のお兄ちゃんが聖子さんのカセットテープをプレゼントしてくれて、その中に入っていた『制服』という歌が大好きになりました。それからはもう聖子さんの大ファンになって、大きいカレンダーを買ってもらった時なんて、表紙の写真があまりに可愛くて、1年間とうとう表紙を破れなかったくらい(笑)。聖子さんに憧れてアイドルになりたいと思い、受けたのがミスヘアコロンオーディションでした」

松田聖子は、山口百恵の引退と入れ替わるように80年にデビュー。松本隆、財津和夫、呉田軽穂松任谷由実)、大瀧詠一細野晴臣ら、まだ20~30代だった新しいカルチャーを身に着けた作家陣が作った聖子の歌は、あきらかにそれまでの一般的なアイドルソングのイメージとは違っていた。

「さっきも言いましたが、私は聖子さんの『制服』(作詞:松本隆 作曲:呉田軽穂)が大好きでした。まだ小学生で卒業式にも出たことがなかったのですが、少しハスキーな声で歌う『制服』は、聴いていてすごく切ない気持ちになったのを覚えています。それからは聖子さんの曲は全部ダビングして、歌詞カードなんてなくてもフルコーラスで歌えました。だから今も聖子さんの曲を聴くと、キュンとしてしまいますね。今また若い方たちがあの頃の歌の魅力を〝エモい〟と表現するのは、分かる気がします」

■87年デビュー時のキャッチコピーは“おキャンなレディ”、「のりピー」が独り歩き

そんな酒井が86年のVHS作品『YUPPIE』のリリースを経て、メジャーレコードデビューを果たしたのは87年の2月だった。

「私の場合は、聖子さんたち正統派のアイドルの方たちとは違って、酒井法子というタレントの前にのりピーというキャラクターが独り歩きした感じでした。デビューの頃からピーピーピーピー言っていましたから(笑)。ちょっとキャラっぽいというのか、「おキャンなレディ」がキャッチコピーで、とにかく元気な女の子で売っていました。私がときめいていた聖子さんの歌だと、素敵な先輩の下駄箱にラブレターを入れるような淡い恋の妄想が膨らむ世界でしたが、私の場合は恋も青春的というのか、部活動の中の恋模様のような曲が多くて、そうかと思えば『のりピー音頭』を歌ってみたり。ある意味、他のアイドルの方よりキャラは濃かったと思います」

デビュー曲『男のコになりたい』の作詞は、松田聖子のデビュー曲『裸足の季節』や2020年にリバイバルヒットして話題になった松原みきの『真夜中のドア』を手掛けた三浦徳子だった。

「三浦さんももちろんですが、あの頃はいろんな作家の方にハートを鷲づかみされるようなキャッチ―な曲をたくさん作っていただいて、素敵な時代だったなって思います。私たちが当時歌わせていただいた曲は詞もメロディーも、歌いやすくて耳に自然に歌詞が入ってきて、何を歌っているのかが分かる、そんな歌だったような気がします。聴いていると短編映画を観ているようで、その歌の世界に没入できるところが当時の歌の魅力だったんじゃないでしょうか」

トップアイドルの仲間入りを果たした酒井法子のその後の曲にも、新しい音楽やカルチャーを身に着けた錚々たるクリエーター陣が顔を揃えている。

「当時は子どもでしたので、周囲の大人の方たちがお膳立てをしてくださった中にいただけという感じでした。ただ、私が好きで聴いていた、例えばシンディー・ローパーとかREBECCAさんとかをクリエーターの方たちがちゃんと察知してくださっていたのはうれしかったです。森雪之丞さんとご一緒した『モンタージュ』では、土橋安騎夫さんが曲を付けてくさいましたし。とにかく素敵な大人の方たちが最新の素晴らしい音楽を私というタレントにあてがってくださって、輝かせていただいたんだなということは感じます。本当に贅沢な環境の中で歌手としての活動をやっていたんだということは、ディスコグラフィーでこれまでを振り返るたびに思います。すごいな、このラインナップはって。しかもあの頃は、レコーディングの時のバックトラックも打ち込みではなくて生の演奏でしたから、お金も手間もかけて一つの作品を丁寧に作っていたんですよね。そういう意味でも贅沢な時代だったと思います」

■日本中の美少女を集めてきたような80年代、「手が届かない憧れ」としてのアイドルの世界で奮闘

80年代は芸能プロダクションとタイアップした企業のキャンペーンガールオーディションや、レコード会社や芸能プロダクション独自のオーディションが目白押しだった。花の82年組の2トップ、中森明菜小泉今日子を発掘したオーディション番組『スター誕生!』も83年まで放送されていた。まさに企業やメディアをあげて全国の美少女を発掘した時代。会いに行けるアイドルを標ぼうする現在とは違い、アイドルは手の届かない憧れだった。

「確かにいろんなオーディションやコンテストをやっていましたね。私がデビューした頃、設楽りさ子さんがJAL沖縄のキャンペーンガールをされていたことは覚えています。でも、正直、他のアイドルの方のことはあまり気にしていませんでした。例えば新人賞を争う音楽祭の楽屋で、鏡前にたくさんの女の子たちがいて、隣の子が眉を描いていたら私もやらなくちゃ、1ミリでも可愛くしなくちゃと(笑)頑張ってはいましたが、それくらい」

「というのも、私自身がミスヘアコロンのオーディションに落ちて、福岡に帰って普通の高校生になるつもりでいたところを、事務所の方に声をかけていただいて、いわば救われた身でしたから、このチャンスは逃したくないと思って。だからもう自分のことしか考えていませんでした(笑)。もちろん周りにはかわいい子がいっぱいいたんですけれど、そんなことを気にするより、レッスンも受けないまま現場に放り込まれましたから、皆さんの前で歌ったり踊ったりしなくてはならないことで頭がいっぱい。今日を何とかしなきゃってことばかり考えていたと思います(笑)。でも確かに『モモコクラブ』もそうですし、同期にも畠田理恵さんとか立花理沙さんとか、同性から見ても、本当に可愛いと思う女の子がワーっていっぱいいた印象はあります」

現在と80年代のアイドルを比べてすぐ目につくのは、グループとソロの違い。今ならグループ全体で背負うものを、歌も踊りもファンへのサービスもすべて一人で背負っていた当時のアイドルは、大きなプレシャーと戦いながら成長していった。

「あの頃は毎週『歌のトップテン』とか『ザ・ベストテン』というランキング番組があって、新曲が出るたびに何位になるかってドキドキしていました。私の場合はだいたい8位とか10位とかが多くて、収録の帰りはいつも泣いていたような気がします。聖子さんみたいに曲を出せばバーンって1位になれるような歌手になりたかったのに、なかなかそうなれない自分が歯がゆかったし、悔しい思いをしていました。せっかくベスト10に入れても、まだまだ頑張り方が足りないとか、ファンのためにも、もっと歌が上手くならなきゃとか、上位にいけないのはすべて自分が悪いからだとネガティブに考えていました。でも歌が好きだったから頑張れましたし、そういう悔しい思いをしながら少しずつやれることが増えていった気がします」

デコラティブな衣装を身にまとって、たった一人でステージに立ち、ファンにメッセージを届ける彼女たちは、SNSやイベントを通じて身近になった今のグループアイドルとは違い、手の届かない憧れの存在として魅力を放っていた。

「今はたくさんの女の子たちがいる中で、色とりどりの声の中から自分推しの子の歌声を聴き分けなくてはいけないけれど、私たちはピンで立っていましたから、ファンの方は歌を聴きながら、そのアイドルと疑似恋愛ができた。憧れの存在にしやすかったのかもしれないですね」

毎週、生放送されていた歌番組にはバックに豪華なバンドやオーケストラが控え、セットも毎回凝った作りだった。80年代のアイドルはそういう場所に一人で立って存在感やパフォーマンス力を発揮することが要求されていた。

「『歌のトップテン』も『ザ・ベストテン』も生放送の最たるもので、とにかく時間内に終わらなくてはいけないから、「ワーッ!」って始まって「ワーッ」って終わるという感じで(笑)、正直、あんまり覚えていないんです。でも当時はよくわかっていませんでしたが、私一人のためにバックでダンサーの方が群舞してくださったりして、今振り返るとすごいことだったなと感じます。ただ、当時の映像を見ると、ああいう状況の中で自分もよく歌えていたし、よく踊れていたな、自分なりに頑張っていたんだなって思います」

■王道のアイドルではないからこそ変化球を投げ続けた

酒井はアイドルとしての活動の他に、漫画を連載し、イラストを描き、「のりピーハウス」は富士山の8合目にまで店舗を広げ、そして「のりピーハウスレーシングチーム」の監督まで務めた。バブル前夜のイケイケの時代とはいえ、マルチな活躍ぶりには目を見張るものがある。

「私自身がバーンと売れて、「さあ武道館だ!」みたいな王道のアイドルではありませんでしたから、何というか、変化球を投げ続けていたんだと思います。スタッフがこの子は直球では勝てないから、どこかいいところ、面白いところを探して変化球で勝負しようと。のりピー語もそうですし、ショップを出したのもそう。だから他のアイドルの方とは少し色が違うのだと思います。変体少女文字なんて言われた丸っこい字を書いたりして、新人類って言われていましたから。でもだからこそたくさんのアイドルがいる中で皆さんの記憶に残ったのかもしれません。そういう意味では変化球を投げさせてくれた当時のスタッフにも感謝です」

トップクリエーターというシェフが、全国から選りすぐられた素材を最高の料理にして提供していた80年代のアイドルたち。彼女たちが輝いた要因はいくつも挙げられるが、最後に一つ付け加えたいのは「覚悟」。当時の記事を見ると、ある少女は女手一つで育ててくれた母親を楽にしてあげたいと言い、ある少女は親の大反対を振り切って入った世界だから失敗できないと話していた。事情はそれぞれだが、自分がやりたいと思ったことだから、何があってもやり通すという覚悟は当時のアイドルたちに共通の思いだった。

「私の場合は親も理解がありましたし、どちらかというとやりたいという思いだけでポンと入ってしまった感じでした。でも小さい頃からずっとやりたかった芸能のお仕事にせっかく声をかけていただいたので、チャンスを逃したくはなかった。契約の時に親から嫌になっても10年間は辞められないみたいだよ、いいの?って聞かれたのを覚えていますが、10年間も雇ってもらえるなんて最高じゃないって思っていましたから。まだ14歳でしたけれど、やりたいと思ったことにはまっすぐ進む、一度決めたらもう後からぐちゃぐちゃ考えないというのが私なりの覚悟だったかもしれません」

最先端の楽曲が提供され、ファンの期待を一身に背負い、豊かだった時代に背中を押されて輝いた80年代アイドル。彼女たちが見せてくれたキラキラとした夢の世界が、今また令和の若者に新しい夢を与えてくれている。

「最近、私のライブに可愛らしい女の子がお母さんと一緒に来てくださることが多くなった気がします。私の歌を聴いて涙を流していた子がいたので話を聞くと、お母さんと一緒に聴いていて、好きになりましたって言うんです。そういうこともあるんだと思っていたら、今は若い世代に広く80年代のカルチャーが受け入れられているみたいで面白いですよね。ますます頑張らなくてはと思います」

取材・文=河原崎直己

2022年に35周年を迎えた酒井法子  撮影=片山よしお/撮影=片山よしお