(川島 博之:ベトナム・ビングループ、Martial Research & Management 主席経済顧問)

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 ベトナムで米国映画「バービー」の上映が禁止された。映画のあるシーンに九段線が入った地図が写っているためとされる。また韓国のガールズグループである「BLAKPINK」の公演もストップがかけられている。これは北京にある「BLAKPINK」公演の主催会社のホームページに、「九段線」が入った地図が掲載されていたためとされる。

中国とベトナムの領海を巡る対立

 九段線とは南シナ海における領海の境を示す線である。中国は線の内側を中国の領海としているが、それは牛の舌のような形で南シナ海のほぼ全域を覆い尽くしている。

 九段線は1947年中華民国が「十一段線」として設定したものを、中華人民共和国が2本削って1953年に新たに設定したものである。そんな九段線だがハーグの仲裁法裁判所は2016年に、中国の一方的な領海の設定は国際法上において根拠がないとした。しかし中国はその判決に従うつもりはさらさらない。

 現在、中国はベトナムフィリピンマレーシアインドネシアと九段線を巡って係争を抱えている。その中でもベトナムとの争いは特に深刻な対立になっている。それは他の3国とは異なり、ベトナムが陸続きで中国に接しているからだ。

 ベトナムは約1000年前に中国の支配を脱して独立したが、その後も中国は何度もベトナムに侵攻した。ベトナムはその度に押し返したが、多くの犠牲を払っている。そんな歴史があるためにベトナムは南シナ海の問題を他の3国よりも重く受け止めている。

 中国はパラセル諸島(中国名「西沙諸島」)の全域とスプラトリー諸島(中国名「南沙諸島」)の一部の島を実効支配しているが、ベトナムはそれらをベトナム固有の領土であるとして、譲るつもりはない。

「バービー」に九段線、ベトナムが抱く不安

 今回の米国映画「バービー」に九段線が映っていたことに対して、ベトナムは不満だけでなく不安も感じている。それはこの出来事から、中国の軍人や官僚が習近平に対して過度に忠誠心をアピールしていることを感じ取るからだ。

 現在、尖閣諸島は日本が実効支配している。中国は艦船を繰り返し尖閣諸島の接続水域に入れている。これは一般にサラミ作戦などと称されている。同じことを何度も繰り返すことによって、自国の主張をアピールしている。それは日本が経済力でも軍事力でも、そして国際政治の上でも手強い相手であるからだ。何度も粘り強く自国の主張を宣伝する必要がある。国際問題において宣伝戦が必要なのは弱者であり強者ではない。

 そんな中国は南シナ海では強者である。東南アジア諸国は軍事力でも経済力でも、中国にはるかに及ばない。中国は余裕を持って東南アジア諸国に接すればよい。ベトナムをはじめとする東南アジアの国々、つまり弱者の神経を逆撫でするような行為をする必要はない。

 それではなぜ中国は米国映画に九段線が入った地図を入れるなどして、ベトナムの神経を逆撫でするのであろうか。

 それは、習近平が官僚の行動を完全にコントロールできていないためと考えられる。

「点数稼ぎ」のためにベトナムを挑発?

 2012年に習近平が政権の座について以降、中国と米国を中心とした西側諸国との関係は悪化し続けている。中国は7月には対外関係における強硬政策を定めた「対外関係法」まで施行した。

 そんな雰囲気の中で官僚や軍人が手柄を争うようになっている。一部では中国市場でのヒットを狙ってハリウッドの映画関係者が「バービー」に九段線を入れたなどと言われているが、映画に九段線を映し出しても一般の中国人がそれに興味を示すことはない。この映画を中国でヒットさせたいために九段線を入れたと考えにくい。

 おそらくは、米国の映画業界に近い中国人が自己の手柄を北京にアピールするためにそのシーンを映画に入れさせたのだろう。しかしそれはベトナムを怒らせるだけであり、なんの国益にもなっていない。

 台湾侵攻はリスクが大きい。軽々に決断できるものではない。また尖閣諸島周辺で日本と武力紛争を起こすことも、日中の経済関係を考えれば軽々に行うことはできない。

 そんな中国にとって南シナ海は格好の火遊びの場になっている。中国にとってベトナムフィリピンは吹けば飛ぶような存在である。少々の問題を起こしたところで、深刻な問題に発展することはない。ただフィリピンは昔米国の植民地だったことから米国との関係が深く、大きな問題を起こすことは得策ではない。その一方でベトナムベトナム戦争の記憶もあって米国とは距離がある。ベトナムと軍事衝突を起こしても、米国が介入してくることはない。中国はそう踏んでいる。

 このような雰囲気を中国の官僚や軍人は微妙に感じ取っている。そのために自己の点数稼ぎのために米国映画などを使ってベトナムを挑発しているのだ。

現場の士気を下げたくない習近平

 出先の軍人が勇んで行う行為が引き金になり、大きな紛争に発展した例は枚挙にいとまがない。日本のノモンハン事件や盧溝橋事件などはその好例であろう。

 ブリンケン国務長官の中国訪問は、偶発的な衝突を避けるためにワシントンと北京との風通しをよくしておくことが第一の目的だったと思われる。米国と同様に習近平も米国との偶発的な衝突は避けたいと思っている。ただ、そのことを強く表明することはできない。強く言えば現場の士気を下げてしまうからだ。

 現在の習近平の立場は戦前の昭和天皇や陸軍中央によく似ている。出先をコントロールしたいのだが、あまり強く言うと士気が下がる。そのために指示や指令は弱いものにならざるを得ない。

 現在、中国の官僚や軍人は「イケイケ」の雰囲気になっており、習近平といえどもそのコントロールが難しくなっている。先にブリンケンを冷遇したことも、にこやかに対応したのでは下部組織の士気を保つことができないためである。

狙われているベトナム

 ベトナムは中国のこのような雰囲気を敏感に感じ取っている。安全のために日本や米国との連携をアピールしたい。この6月には日本の大型護衛艦「いずも」と米国の空母「ロナルド・レーガン」が相次いでダナンに帰港した。日米の大型軍艦が相次いで寄港することはこれまでになかったことである。これが中国の神経を逆撫でしたことは明らかであるが、その一方で中国の軽率な行動を抑制する効果がある。

 また6月27日ベトナムのファム・ミン・チン首相は中国を訪問して習近平と面談した。その際にベトナムは「一つの中国政策」を支持することを明言した一方で、「海洋における平和と安定を維持し、立場が異なる問題には適切に対処すること」を確認した。ベトナムは下手に出て偶発的な係争が始まることを必死で回避しようとしている。

 次に事件が起きるのは南シナ海なのかもしれない。特にベトナムは狙われている。

 不動産バブルが崩壊し経済が低迷する中で、国内の引き締めは習近平政権の最大の課題になっている。そんな習近平にとって、小さな戦争は国内をコントロールする上で都合が良い。中国を取り巻く国際情勢が厳しいことを国民に示すことができる。

 先にベトナム共産党機関紙ニャンザンの紙上において、首脳が相次いで「危機に事前に備えなければならない」と強調していた。何が危機なのか一言も言っていないが、2000年の間、中国と渡り合ってきた国の人々は、動物的なカンで中国が危険な状況にあることを見抜いている。次の危機が南シナ海で発生しないこと祈るばかりである。

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