2023年7月11日、作曲家・指揮者の外山雄三氏が亡くなられました。
92歳、天寿と言えるかもしれませんが、彼の名を踏襲して命名されたともいわれる「加山雄三」氏ほどには、日本社会に広くその業績は知られていないかもしれません。
私にとっては「作曲家=指揮者」という職業の在り方を知り、そのモデルとして人生を決定づけた人でもある、一人の音楽家の仕事ぶりを振り返って、プロフェッショナルとは何であるか、考えてみたいと思います。
というのも昨今、本当にプロらしいプロの教育を、およそ目にしなくなったからです。
また、ちょうど7月11日も、外山さんのリハーサルの話をしながら終日のレコーディングを終えたばかりだったのです。その日が命日にあたっていたとは、感慨無量です。
高度に知的な幼時環境→いきなり独学へ
外山雄三さんは1931年5月31日、当時の東京市牛込区に、声楽家の外山國彦氏を父として誕生、東京高等師範学校附属国民学校(小学校)、同中学校)に学び、1947年に卒業しています。
ちなみに、ほかの外山さんの追悼記事ではまず触れられないように思いますが、この小学校、中学校の同級生には
フランス文学の芳賀徹、平川祐弘
日本史の石井進
美術史の高階秀爾
機械工学の平田賢
といった錚々たる碩学が居並びます。
5人とも東京大学教授を務め、芳賀氏、平川氏あたりは凡俗の東大教官とは一線以上のものを画す存在、高階氏の仕事は日本に国際水準の美術史学を打ち立てる業績といって誰も否定する人はいない。
只事でないスケールの仕事を成し遂げた幼馴染のなかに、外山さんもまざっていたわけです。
分野こそ違え、彼らに遜色のある仕事はしないと外山さん自身ずっと思っていたことを、(実は親戚なので)私は直接聞いています。
実際、外山さん自身の口から、大学ではかなり畏怖の念をもって見られていた芳賀、平川両氏の名を「はが!」「ひらかわ!」と呼び捨てで聞き、かなり驚愕したものでした。
彼らの大業績の背景に、進取の気性に富んだ当時の「高等師範学校附属」現在の筑波大学付属中学校・高等学校在学中に、1945年8月15日を迎えた経験が、深く影を落としているのは間違いありません。
作曲家としては限られた仕事しか残していませんが、外山さんは林光、間宮芳生の両氏と作曲同人「山羊の会」を結成、極めてリベラルな思想を鮮明に打ち出して活動していました。
そうした彼の横顔にご興味の方には、日本フィルハーモニー交響楽団(日フィル)の争議を追った岩波ブックレット「オーケストラは市民とともに」などご覧いただければと思います。
目立たず、高度に批判的な知性を持ち続けた音楽家の横顔がうかがえると思います。
さて、本稿の冒頭にも記した通り、外山雄三という人は「プロフェッショナル」でした。
しかし、その道は自分自身で創り出した。独学の人であったことを第一に強調したいと思います。
正統派のど真ん中のように見え、実は独学の人であったのが、外山雄三氏の本当の素顔と思います。
1947年に「東京高等師範学校附属中学校」を卒業後、東京音楽学校本科作曲科に入学、ベルリンに留学した下総皖一氏にドイツ流の作曲を学びます。
戦後の東京音楽学校はナチスドイツと関係が深かったドイツ系教員が一掃され、わずかに残った下総氏の門下は、新たに入って来た(高濱虚子の次男である)池内友次郎教授以下のフランス系主流派、あるいは北海道から独学で国際コンクールに通り軍閥の手垢がついていなかった伊福部昭教授の門下が大勢を占めていました。
下総門下にとって作曲の道は広くなかったのかもしれません。
1952年、新制の東京藝術大学作曲科を卒業直後、NHK交響楽団に指揮研究員として入団、外山さん自身、自分の師は初代N響事務局長を務めた有馬大五郎と話しておられます。
彼の音楽人生はN響入団以降に本格化したと言えるのかもしれません。
何が言いたいかというと、外山さんは学校で指揮法を習っていない。作曲科を出た後、いきなりN響で下積み修行を始めるわけです。
後は、海外から来日する一流の指揮者を見て、その背中から盗む毎日。若き日のヘルベルト・フォン・カラヤン、ロリン・マゼール、オトマール・スウィトナー、ホルスト・シュタイン、ヴォルフガング・ザヴァリッシュといった人たちの練習、本番から、無数のノウハウを「盗んで」いった。
このとき、小中高校時代に身に着けた高度な基礎教育が大変に役立った。
実際、彼らが来日した同じ時期に国内で勉強していた後輩たちが何を盗め、どのような音楽人生を送ったか想起するなら、外山さんの若い頃の苦労がどれほど際立っていたか、分かる人には誰にでも分かるでしょう。
彼には、基礎があった。基礎のある人がつまらないタレント化などの売り出しには見向きもせず、たゆまず努力する10代20代を送った。
その結果、続く70年間にわたる大きな果実の収穫があった。
しかし最初からすべてがうまく行ったわけではありません。当初は試行錯誤の連続というか、失敗失敗また失敗の日々であったと察せられます。
終戦直後の楽壇は、軍楽隊帰りの楽隊マンも多く、現在とは比べ物にならない環境であったと漏れ聞きます。
のちに1958~59年にかけてN響から休みをもらい、ザルツブルクやウィーンで短期研修の時期がありますが、彼の練習、本番からうかがい知る限り、誰かに習ってどうこう、というものでは全くなかった。
外山さん自身の工夫は、つまるところ独学でプロを徹底した楽歴だったと思います。
外山雄三、恐怖のリハーサル
指揮者という職掌は、自分の知名度や人気でチケットの販売を促進し、人前で踊りを見せるお仕事では、本来ありません。
実際には、上に書いたようなもの・・・端的には「タレント化」が、第2次世界大戦後おおいに進み、20世紀の終わりにはその役割も終えて、いまや草刈り場も枯れたような状況にあります。
指揮者の仕事は9割がリハーサル以前にあります。
本番は最後の1割程度、どんな優れた棒振りでも、ぶっつけ本番でできることには限界が明らかだし、見識がある人なら、リハーサル時間が不十分な仕事は引き受けず、サインしないのが見識というものです。
外山雄三氏の仕事は、指揮という仕事の原点からすべての正統を自ら再確立したうえで、それを守り続けてきた、それくらい価値のある仕事だったと思います。
ここでは端的に、あらゆる読者に分かっていただけるような、彼のリハーサルの特徴に絞って記しましょう。
すべての指示が明確で、明快な音楽用語だけで伝えられるのです。
「フォルテ」「ピアノ」「クレシェンド」「アクセント」「スタッカート」・・・いわゆる楽典の用語だけで、外山さんのリハーサルは進んでいく。
これは逆に言うと、「もうちょっとここは・・・」とか「そこはこういうイメージ」といったあいまいな指示、あるいは形容詞や副詞などによる不正確な指摘が、ほぼゼロなのです。
こういう現実を書くと、音楽ファン向けには夢がないかもしれません。
「音楽は感性」「イメージ豊かに、感覚のほとばしるままに・・・」なんていう方がファン向けのキャッチフレーズとしては間口が広い。
外山さんのリハーサルはおよそその対極にある、プラクティカルを徹底するものでした。でも皆さん、ちょっと考えてみてください。
「もう少し***な感じ・・・」みたいなあいまいな練習を2時間3時間続けたとして、翌日同じ演奏ができるでしょうか?
例えば、外科医の教育で「もう少し深く切る感じ」とか、教えるでしょうか?
あるいは自衛隊の訓練で「もうちょっと先を打つイメージで・・・」みたいな、曖昧な言葉で砲撃のトレーニングをしているだろうか?
もし、そんなことがあれば、命を預かる仕事でまともなプロとして務まるか全く定かではない。
誤解のないように、外科でも、高射砲でも「イメージトレーニング」は大切です。車の免許を取るのでも右折のような手順の多い操作、初心者は多くのイメージを持たねばならない。当たり前です。
しかし、そこでドライバーが徹底すべきは「ハンドル操作」「ギアの入れ替え」「ミラーのチェック」など個別具体的なチェック項目にほかなりません。
外山雄三という人のリハーサルは、それを徹底していた。
だから、一度指摘されたら「ミラー」「ギアチェンジ」と同じく、プレーヤーさえしっかりしていたら二度と間違えることはない。
決っして時間を空費しない、職人の仕事だった。これは昭和20年代、いまだ軍楽隊帰りなど、荒っぽいのが多かった楽隊で鍛え上げられたのかもしれません。
(私が修行した1980~90年代にも、どことは言いませんが都響とか京響とか、怒号を上げる恐ろしい楽員さんはコントラバスとかホルンとか複数あり、私も決して「無駄弾き」などさせないコンダクティング・マナーをその時期に叩き込まれました)
限られたリハーサル時間のなかで、きちんと作り上げたはずの合奏が、本番に全く役に立たなかったら・・・意味がないでしょう。
外山さんのリハーサルはそういうことと無縁、一切曖昧さがなく、一度さらったことは、奏者がきちんとしてさえいれば、絶対に再現できる、そういう意味で完全なプロの指揮者が外山雄三その人でした。
国際的に見ても、ピエール・ブーレーズ、ペーター・エトヴェーシュなど、数えるほどしかこういう人は思い浮かばず、すべて作曲家=指揮者というのも明確な共通点。
つまり、楽譜にかかれていることをきちんと演奏することが第一で、その先のファンタジーは各人が自由に伸ばせばよろしい、それをあれこれ指揮台から他人が指図するようなものではないことを知っている人が、指揮台に立っていた。
もう一つ、かつて外山雄三のリハーサルを特徴づける言葉は怖い、恐怖だったかもしれません。でもそれは、怒るとか怒鳴るとか、そんな下品なものではない。
そもそも、プロの演奏家が一番求めるのは、自分の音をきちんと聴いてくれることです。音を聴いていない指揮者は瞬時にしてプレーヤーの信頼を失います。
と同時に、奏者が一番恐れているのも「自分の音を聴かれること」である事実に注意しておきましょう。
外山雄三という音楽家は、目の前で起きている演奏の現象を決して聴き漏らすことがなかった。
ミスがあると、ギッと巨大な頭部と大きな目で睨みつけた。これに楽員諸兄姉は恐怖した。そういう経緯だったと思います。
音を音楽的に聴き取る専門能力を「ソルフェージュ」と言います。
外山雄三は、歩くソルフェージュの権化というべき、すさまじく鋭い耳をもった音楽家だった。
すべてを透明に聴き取り、問題があれば瞬時でそれを解決する方法を見つけ出し、直した。
ちなみに、世代が下ると、こういう怖いのはなかなか受け入れられにくくなり、私はサッと視線を送るだけとか、「ニヤッ」として見せるとか、違う芸風で同じことを徹底するようにし、幸い「恐怖」とは思われずに済んでいるかと自認しています。
何にしろ、音が聴こえていなかったら、そしてミスを直すリハーサルができなかったら、指揮台の上の人間は無用の長物でしかない。
一度直したものは、奏者さえきちんとしていれば、二度と同じ誤りを繰り返す心配がない。
それが音楽における職人仕事、マイスター・ヴェルクの本質で、外山雄三という人は稀有なマエストロでありました。
アマチュアはありものの再現を目指し、プロは未踏の沃野を開拓する
外山雄三という人は、目の前で起きている音楽の現象に対して、新たな可能性を聴き出し、それを実現する完璧な職人でした。
彼の鋭利な耳が斬り出し、人類史上初めて具現化した響きは少なくありません。
例えば、黛敏郎さんが、東大寺などの梵鐘の音のスペクトル解析をもとに、新たにオーケストレーションを施して作り上げた「ねはん交響曲」の響きをきちんと成立させたのも外山さんの力が大きいと聞いています。
誰が言ったのか、私がまだ20代の修行時代「アマチュアは既にあるものの模倣を目指す憧れの気分、プロは存在しないものを創り出す開拓の精神」と教えられたことがあります。
たぶん外山さんではなく、私が副指揮者をしていた東フィルに来た海外のマエストロだったと思います。
つまりこういうことですね。アマチュアの気性は憧れと模倣にあり、ホンモノに似たカラオケが歌えれば、それなりに溜飲を下げて終わっていくもの。
これに対して、プロフェッショナルで生き残っていくには、すでにある何かをマネしているだけでは「あ、それは**の模倣」で、国際的には相手にされない。
二番煎じはエピゴーネンといって、音楽家として軽蔑されるのみならず、ギャラを含め一流の扱いにならない。
ところが昨今の日本の教育は、音楽に限らず、模倣ができたら満点を与え、それでよいと勘違いしてしまう。
東大入試など分かりやすいでしょう。すでにある正解と同じものが書けたら秀才、優等生扱い。クイズ王の類も単なる物知りで、そんな程度であれば生成AI「チャットGPT」の方がよほど優秀、意味がない。
私自身「模範解答と同じであれば、意味がなーい!」と教えられたことで、今まで何十年か日米欧で仕事を続けることができました。
それは松村禎三であれ、レナード・バーンスタインであれ、ピエール・ブーレーズであれ、みな共通する基本、基礎です。何かのマネをしていたら、それでよし、などという一流の人は存在しない。
一般の大学が下手に「アート」などと振り回すと、この1の1を履き違え、カルチャーセンター的な模倣教室で「アート」と勘違いする傾向があります。
これは大間違いというか、正反対であることを指摘せねばなりません。
ところが昨今では、芸大音大の専門教育が「模倣以下」まで形骸化してしまった現実が、実はあります。
一つは少子高齢化による教育のサービス産業化、もう一つは特に大学院の重点化が水増し化にしかならず、基礎的な教養の力が脆弱な環境で、ゼロから開拓する腕力のない指導未満が、模倣以下を大量生産して、こんなことになってしまった。
そうした堕落に、あくまで冷や水を浴びせ続けたのが、厳しくプラクティカルなプロフェッショナル権化、外山雄三という存在にほかならなかったと思います。
指揮者というのは、指揮台でリハーサルの音を聴きながら、リアルタイムで作曲を再構成し、必要なら補筆して、演奏を完璧なものにする。
その程度の自在な即興と作曲の力量がないと、国際的に1の線では務まりません。
それを一貫したのが、N響入団が1952年というのだから、実に71年に及ぶ外山さんの指揮台人生だった。徹底しておられました。
実際、音大の専攻名には「作曲指揮専攻」が残っています。ただ、今現在「作曲=指揮」の研究室を維持する教官は、ほとんどゼロになってしまった。
かつてはいろいろおられました。山田耕筰氏、近衛秀麿氏、山田一雄先生、外山さん。
いまでも決して払底しているわけではなく若い世代なら杉山洋一君、鈴木優人君、阿部加奈子ちゃん、戦線に復帰しつつあると思う夏田昌和君などなど。
本物の基礎から表現をつむぎ出していると思います。
ただ、杉山君は三善晃氏について桐朋の作曲、鈴木君はお父さんの鈴木雅明さんが設立されたバッハ・コレギウム・ジャパンが揺籃、阿部さんも鈴木君も夏田君も学校は芸大の作曲で、作曲やソルフェージュの基礎を体得したのち現場の悪戦苦闘、修羅場経験で器量を広げた。
これが音楽の王道です。
経歴だけ「**修了」とか書いてあって基礎がないと、子供や孫みたいな世代の学生にも相手にされず笑われる。それが音楽の本当の現実です。
王道ですが舗装道路ではない、道なき獣道を自力で分け入って自分の楽風を作り上げていく。それが音楽の歴史を形作るということにほかなりません。
海外でも古くはリヒャルト・ヴァーグナー、リヒャルト・シュトラウス、グスタフ・マーラーからヴィルヘルム・フルトヴェングラー、パウル・ヒンデミット・・・。
私が学生だった頃でもレナード・バーンスタイン、ジャン・マルティノン、前述のブーレーズや彼の師でもあるルネ・レイボヴィッツなど、普通にたくさん活躍していました。
存命の人ならエトヴェーシュ、フィンランドに作曲家=指揮者が多いのは、シベリウス以来そういう存在を社会が高く称揚しているからです。
レイフ・セーゲルスタムとかエサ・ペッカ・サロ―ネン以下綺羅星のごとく、英国人のジョージ・ベンジャミン君なども、音楽史を開拓する流れで仕事している。
日本はそういう流れが非常に細い。私自身、身体を張って頑張ってこられたのは、外山さんがいたからで、彼に恥ずかしいことはできないという気の張りに支えてもらったのが実のところと思います。
冒頭にも記した通り、外山雄三という存在に触れなければ、私は今の仕事、作曲家=指揮者という職掌に就くことは決してありませんでした。
それから50年ほどを経て、改めて思います。
こうした伝統の灯をこそ守り、育てなければなりません。
私が小学5年のとき、ヒロコちゃんという従姉が結婚しました。
そのお相手のオガワ君・・・山下洋輔氏のエッセイなどにも登場する「ジャズ医者」整形外科医の小川隆夫を挟んで、また従兄になったのが、私にとっての外山雄三さんとのご縁の始まりでした。
その後しばらくして、家で教育テレビを見ていると、どこかで見たおじさんが指揮台に上って「はんにゃ交響曲」みたいな、読めない漢字タイトルの曲を演奏してるわけです。
何だか知らないけれど、それはお寺の鐘の音を分析して、その周波数に合うようにオーケストラを「どーたら、こーたら」というのを、親戚のおっさんが大真面目な顔でアンサンブル合わせしている。
私が現代日本の芸術音楽の作曲や演奏を生まれて初めて身近に感じ、当時のアナログテレビではありますが、注意深く演奏を見、聴きました。
のちに親に買ってもらったLPも外山さんの演奏。それ以外の録音は、楽譜と突き合わせてみると分かりますが、まともなアンサンブルが成立していないところが多い。
義理の遠縁となった外山さんが指揮する黛敏郎「ねはん交響曲」のテレビ中継がきっかけとなって、作曲=指揮という歴史的にはオーソドックスな音楽家の在り方を自身のものとして感じるようになりました。
中途半端に親戚でもあり、むしろ仕事の現場では距離をおくようにしていましたが、外山さんにはいくつか決定的な影響を受けました。
若い時の苦労は買ってでもしろというのは、その最たるものでした。
曰く「音楽家の20代は、どこまで下積みに徹してプロになれるか、それでその後の人生すべてが変わってしまう」。これは実際、その通りだったと思います。
この助言に従って、新日フィルのオケ中鍵盤を振り出しに、オペラの練習ピアノ、東京フィルハーモニー交響楽団(東フィル)の副指揮者と現場の下積み修行だけの20代を送りました。
この当時に経験した現場での失敗と方法の確立が、私自身現在のすべての仕事の基礎となっています。外山さんが20代に草創期のN響で持ったのと似て非な経験をさせてもらえたのだと思います。
20代、下手に指揮者コンクールなどで売り出されてしまうと、30歳前後には商標として確立してしまい、周りもそれで食べるようになっていく。
35歳くらいになって、いきなりオペラの何のといっても、もうそこから基礎を身に着けることなど不可能です。
そういう意味では、2020年代の若年層、Z世代やα世代の若者は、こうした叩き上げの修業時代を持ちにくくなっている。
スター売り出し用の指揮者コンクールとも、芸能人よろしいマスメディアでの喧伝とも無縁に、20代を現場の下積みで基礎を培った外山さんが、90年の天寿を全うしつつ、完璧なコントロールのもと、精緻なアンサンブルを作り上げることができたのは、すべてマイスターの修業時代があってのことだと思います。
その意味でも、いま「作曲・指揮研究室」というものの教授を務めながら、音楽の若い仲間たちに「外山さんのリハーサルは・・・」なんて毎日のように話している中で訃報を受けました。
いま外山雄三という大きな存在の棺を覆って、日本の芸術音楽界は一つの時代が終わりつつある。実際に状況は変化していくでしょう。
それが少しでも良い方向に進むことを、ほかならず外山さんご自身が一番願っていると思います。
大音楽家の逝去を悼み、心底から冥福をお祈りします。
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