第1回K-1決勝戦で、アーネスト・ホースト(右)をKOしたブランコ・シカティック(左)。ふたりともこの大会が初来日で、日本ではほぼ無名の存在だった
第1回K-1決勝戦で、アーネスト・ホースト(右)をKOしたブランコ・シカティック(左)。ふたりともこの大会が初来日で、日本ではほぼ無名の存在だった

【新連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第6回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

【写真】ブランコ・シカティックvsアンディ・フグ

『格闘技通信』のトーナメント優勝予想クイズ

1993年4月30日、磯部晃人は国立代々木競技場第一体育館に横付けされた中継車の中にいた。フジテレビの番組ディレクターとして、当日深夜(正確にいうと、日を跨いだ5月1日)午前2時30分から90分枠で放送される『K-1 GRAND PRIX 93』の中継を仕切るためだった。30年前の出来事を磯部は懐かしそうに振り返る。

「大会後は会社に戻って編集に立ち会い、放送が終わる午前4時まで会社にいましたね」 

優勝を期待されていた佐竹雅昭は準決勝で、大会前はノーマークに近い存在だったブランコ・シカティックの左の強打の前に3ラウンドKO負けを喫し、ベスト4に終わった。そしてシカティックは決勝戦でアーネスト・ホーストを1ラウンドKOで下し、初代王者に輝いている。一回戦から予期せぬKO決着の連続で、史上初のワンデートーナメントイベントは大成功に終わった。

1990年代に格闘技界のオピニオンリーダーともいうべき存在だった隔週発行の専門誌『格闘技通信』は、トーナメントの優勝予想クイズを実施している。「シカティック優勝」を予想した者は921通の応募の中でわずか5通のみ。

ちなみに優勝予想は1位=ピーター・アーツ、2位=佐竹雅昭、3位=モーリス・スミス、4位=スタン・ザ・マン(直前に欠場)、5位=チャンプア・ゲッソンリット、6位=トド〝ハリウッド〟ヘイズ、7位=ホースト、8位=シカティックという順番だった。

つまり、決勝を争ったふたりが予想の時点では最下位を争っていたということになる。それだけビッグアップセットだったということだ。まだ詳細な情報は格闘技専門誌に頼るしかない時代だった。世界のキックボクシングの勢力図の実態を把握している者は皆無に近かった。

初代K-1王者となったブランコ・シカティック。優勝賞金10万ドルは当時としては破格だった
初代K-1王者となったブランコ・シカティック。優勝賞金10万ドルは当時としては破格だった

気になるK-1の視聴率は3.1%、瞬間最高視聴率は4.0%と、深夜帯としては驚異的な高視聴率を記録。翌日の産経新聞はスポーツ欄で結果を報じた。K-1にとっては世に出る記念すべき第1歩となったが、磯部は大会前から成功する感触を掴んでいた。

「イベント前からこれはいけると思いました。チケットは即完(即日完売)だったし、弊社への放送時間やチケットの問い合わせもスゴかった」

格闘技史上初のワンデートーナメントで、階級はヘビー級。大会が発表された時点ですでにK-1は〝熱〟を漂わせるイベントだった。出場選手の中には初来日組もいたが、それを補って余りあるほど一般大衆の心をくすぐる要素はそろっていた。会場で販売された大会パンフレットは5000部も用意されたが、瞬く間に売り切れたという逸話からも熱は伝わってくる。

試合以外の演出も抜かりなかった。リングアナウンサーは芸能界で大の格闘技好きとして知られる関根勤が勤めていた。大物タレントの起用はそのタレントに興味を抱く一般大衆が目を止めるというメリットがある。

また、4名のラウンドガールは従来のラウンドガールの必須アイテムだったハイヒールではなく、スポーツシューズを履いていた。さらに試合の合間のアトラクションとして、正道会館オーストラリア支部の支部長の愛娘が空手の型を披露した。従来の格闘技イベントとは女性や子供の役割が明らかに違っていた。

■ヒョードル、ノゲイラ、アーツの初来日

船出するにあたり、大会プロデューサーである石井和義が参考にした団体がある。UWFから枝分かれする形で91年5月11日横浜アリーナで旗揚げ第1戦を行なった、前田日明が率いるリングスだ。「世界最強の男はリングスが決める」というキャッチコピーを覚えているファンもいるだろう。

前田は設立当初から「リングス・ネットワーク」を提唱。ウィリアム・ルスカの盟友として知られたクリス・ドールマンが設立したリングスオランダだけでなく、〝関節技の魔術師〟ヴォルク・ハンの出現で有名になったリングスロシアなど、ペレストロイカで激動の時代を迎えていた旧ソ連圏を中心に次々とネットワークを広げていた。

のちにPRIDEで活躍するエメリヤーエンコ・ヒョードルアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、さらにはK-1で黄金時代を築き上げたピーター・アーツも初来日はリングスだった。そういう意味でもリングスが残した功績は大きい。

「あの頃、会話の中で石井さんは『前田さんが......』という話をしょっちゅうしていた。世界的なスケール感で魅せるというコンセプトは完全にリングスの影響だと思いますね」(磯部)

91年から93年にかけ、日本陣営が手薄だったリングスに、助っ人のような形で佐竹雅昭角田信朗はほぼレギュラーで出場している。ふたりとも〝プロ〟としてのデビューはリングスだった。彼らがリングスに定期参戦することで、石井は前田が新生UWF時代から培った興行のノウハウをしっかりと吸収していた。

奇しくも第1回K-1が開催された日は、リングスが〝格闘技の聖地〟後楽園ホールで新人の登竜門というべき特別興行「後楽園実験リーグ93 Round2」を実施していた。前田は多忙の合間を縫ってK-1の会場に顔を見せたあと、後楽園に向かっている。

この時点で佐竹はすでにリングスから撤退していたが、リングスと正道会館との提携は続いており、「実験リーグ」の大トリには大阪の正道会館で佐竹と凌ぎを削っていたアダム・ワットが登場した。

のちにプロボクシングに転向しマイク・タイソンの前座にも出場する、青い目をしたこの内弟子はキックボクシングルールでシュートボクシングの岩下伸樹と闘い、右バックハンドブローで1ラウンドKO勝ちを収めている。

視線を代々木第一体育館に戻すと、トーナメント以外でも興味深い対戦カードが組まれていた。アンディ・フグ対角田の空手ルールによる一騎討ちだ。試合は2Rにアンディが左右のヒザ蹴りによって合わせ一本勝ち。来るべきK-1デビューに向け、牙を研いでいた。

94年3月の「K-1 CHALLENGE」では、初代K-1王者ブランコ・シカティック(右)と、キックボクシング3戦目のアンディ・フグの対戦が実現している
94年3月の「K-1 CHALLENGE」では、初代K-1王者ブランコ・シカティック(右)と、キックボクシング3戦目のアンディ・フグの対戦が実現している

●布施鋼治(ふせ・こうじ 
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリングムエタイキックボクシング)、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社

文/布施鋼治 写真/長尾 迪

初代K-1王者となったブランコ・シカティック。優勝賞金10万ドルは当時としては破格だった