2015年9月、ニューヨーク市立大学の教授でーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン氏が、「未来の日本政府あるいは日銀総裁」へ手紙を書きました。その内容について、フィデリティ・インスティテュートの首席研究員である重見吉徳マクロストラテジストは、いま、まさに日本で起きつつある状況が書かれているといいます。その“驚きの内容”をみていきましょう。

ノーベル賞学者が8年前に予見していた日本のいま

さかのぼること8年前……2015年9月に、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンニューヨーク市立大学教授が「未来の日本政府あるいは日銀総裁」に向かって手紙を書いています。いまがまさにその手紙の「読みどき」です。

それはどんな手紙か。次のようなものです。

この「臆病の罠」とは、「景気がよくなった途端に、財政出動や金融緩和を引っ込めてしまう政策担当者の様子」を指していて、クルーグマンはあらかじめそれを予見し、戒めていたのです。

いままさにこの状況が起きつつあります。すなわち、

インフレ期待の高まり

人々はいま、インフレを認識しています。たとえば、日銀短観の「企業のインフレ率見通し」をみると、回答企業は5年先も「2%のインフレ率」を見通しています。これは、2014年に質問を開始して以来、初めてのことです。

財政再建路線

現在の政府は財政再建の方向です。たとえば、今年度の「骨太の方針」をみると、少子化対策、働き方改革、国防力強化、これらのすべてに(増税や社会保険料などで)国民への負担が示唆されています。

③景気後退

米国および日本の景気後退が視野に入ります。たとえば、ニューヨーク連銀の12ヵ月先の景気後退確率は70%を超えています。この景気後退確率と日本の景気後退期を重ねると、(当然かもしれませんが)「米国」の景気後退確率が高まるときには「日本」にも景気後退が訪れています。

まとめれば、あたかも手紙が予言するかのように、今後の見渡せる将来における財政再建や景気後退によって、「2%のインフレ目標達成」はダウンサイド・リスクにさらされています。

クルーグマンが残した「日本のデフレ脱却のための処方箋」

仮に、前頁2点目の【財政再建路線】と3点目の【米国の景気後退】が避けられないなら、どうすることができるか?

「2%のインフレ目標達成」のためには、金融緩和を継続するほかありません(→筆者は、企業活動はもちろんのこと、財政再建のためにも2%程度のインフレが必要と考えています。マイナスの実質金利もそうですし、税収のためにもそうです。たとえば昨年度の税収は70兆円を超えています。インフレが直接・間接に税収増につながっているでしょう)。

クルーグマン教授による「日本のデフレからの脱却のための処方箋」(1998年)をごく簡単におさらいすると、「『未来』の完全雇用時にもマネタリー・ベースの拡大や低金利政策などの金融緩和策を続けると、『いま』約束することで、『未来』のインフレ期待を醸成し、『いま』の支出を刺激しよう」というものです。

以下、その仕組みを「マネタリー・ベース」ではなく、「実質金利」で説明します。

[図表5]のとおり、「現在」は、総需要が減退しているために(総需要曲線が【左】にシフト)、総需要と総供給の交点がマイナスになっています。総需要曲線と総供給曲線の交点は「自然利子率」と呼ばれます。

景気を刺激するためには≒需給ギャップをプラスにするためには、実質金利を自然利子率よりも低くする必要があります。

しかし、「現在」のインフレ率がたとえば「0%」だとすると、名目金利は(ほぼ)0%にまでしか引き下げられませんから、実質金利も0%です。ということは、景気刺激はできませんし、[図表6]に示すとおり、そのとき、経済の総需要は【点A】となる一方で、潜在供給水準は(いつも)【点B】ですから、経済にはデフレ・ギャップ(A-B<0)が存在します。

ディスインフレあるいはデフレ圧力が生じて、実質金利は「0%」からしだいに高まってくると考えられます。スパイラル的なディスインフレ/デフレです。

ただし、「未来」には、総需要が回復し(=総需要曲線が【右】にシフトし)、交点=自然利子率がプラスであると仮定します。このときは、総需要=潜在供給水準ですから、完全雇用が実現していることを確認してください。

この「未来」において、実質金利を自然利子率と同じにすると、インフレを招くことはありません。

他方で、[図表8]に示すとおり、経済が正常に戻って完全雇用を回復し、自然利子率がプラスのときでも、実質金利をたとえばゼロ%に据え置けば、需給ギャップはプラスであり、インフレ圧力が生じます。

このように、「現在」は実質金利を自然利子率よりも下げられないために、景気刺激はできないものの、需要が回復して経済が正常化し、完全雇用を回復する「未来」の時点において、実質金利を自然利子率よりも低く据え置くことを「いま」表明すると、「将来」のインフレ期待が高まり、「いま」の支出がうながされるというのが、クルーグマンの考えです。

また、こうした「未来への確約・コミットメント」こそ、植田和男・現日銀総裁が、1999年当時に日銀の審議委員をされておられたときに強力に推進された「時間軸政策」にほかなりません。

「時間軸政策」の2つの問題点

ただし、この時間軸政策には次の2つの問題点がありました。

①長期停滞

1つは、「ずっと未来は暗いままなんじゃないか、だとすれば、『需要が回復して経済が正常化し、完全雇用となる未来』には現実味がない」という話です。

仮に人々が「いつまでも日本経済はダメだ」と思えば、将来の経済正常化はおろか、そのときの金融緩和はイメージできず、現在の支出を刺激する可能性は低くなります。サマーズ元財務長官が唱えた『長期停滞仮説』がその一例で、実は、クルーグマン教授が冒頭の手紙を書いたときには、彼自身も半ば諦めぎみでした。

②時間的非整合性

もう1つは、「いざ『経済が正常化して完全雇用となる未来』が訪れ、インフレが上がり始めれば、日銀にとってはインフレ率を安定させるために金融緩和を止めることが最適になるので、過去にした約束は反故にされるんじゃないか」という話です。

仮に人々が「日銀は守れもしない約束をしているだけだ」と思えば、将来のインフレはイメージできず、現在の支出を刺激する可能性は低くなります。

ただ、いまは、無理だといわれた1つ目の『経済が正常化して完全雇用となる未来』が実現しつつあります。

[図表9]に示すとおり、パンデミックロシアによるウクライナ侵攻、さらには先進国の労働力不足で総供給曲線が【左】にシフトしました。そして、財政出動で総需要曲線が【右】にシフトして交点=自然利子率がプラスになっています。

すなわち、実質金利しだいで、インフレ率を高めることができます。

「経済が正常化する未来」はすぐそこにある

実際、そうした「経済が正常化して完全雇用となる未来」はやってきつつあるのでしょうか。

筆者はそう考えます。その一番の証拠が、金融市場が「そろそろ金融緩和を解除するんじゃないかと思い始めている」という点に見出せるでしょう。おそらく普通のエコノミストなら、「賃金と物価の好循環」を確認するのはどう考えても3年くらいは必要だと考えるでしょう。

他方で、[図表10]に示すとおり、直近7月のESPフォーキャスト調査によると、彼らは早期のイールド・カーブ・コントロール(YCC)解除をみています。つまり、「約束は反故にされるんじゃないか」と疑い始めています。

しかし、先ほどの「クルーグマンからの手紙」の予言ではありませんが、ここで約束を反故にし、景気後退や財政再建によってインフレアンダーシュートしたら金融市場の信頼は崩れ、「次」はありません。

植田総裁にとってみると1998年に日銀の審議委員に就任されてから、「25年のインフレ目標との闘い」が完全に「おしまい」になってしまいます。ですから、ここは大事にいく必要があるでしょう。

重見 吉徳

フィデリティ・インスティテュー

首席研究員/マクロストラテジスト

(※写真はイメージです/PIXTA)