「パズルを組み立てる面白さ」と話題を呼ぶ歴史家の乃至政彦氏の新刊『戦国大変』。

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 「桶狭間の戦い」「関ケ原の合戦」などその名の知られた戦から「大寧寺の変」「姉川合戦」など歴史の教科書ではなかなか触れられることのない合戦まで、そこに至るまでの経緯や兵法、その合戦の周縁でなにがあったのか。一次史料をもとに「新しい解釈」を提示している。

 今回はそんな『戦国大変』について読者から寄せられた質問を、著者・乃至政彦氏に聞いた。

問い 大内義隆に「男色の情けない武将」というイメージをしりませんでした。そのような史実を明らかにしたフロイスが描いた「日本」はどんなものだったのでしょうか。

フロイス『日本史』の信憑性

 ルイス・フロイスが日本に来たのは、主に織田信長が活躍していた頃です。しかし、フロイスが訪ね歩いたのは西日本ばかりで、東のほうといっても、せいぜい岐阜あたりまでです。ですから、東国の習慣は知りません。

 フロイスは何十年も日本にいて、戦国大名を観察しており、容姿や、こんな声をしていたということまで記しているので、当時のことを知るうえで非常に参考になるわけです。

 ただ、フロイスのことをよく知っている同僚の宣教師は、「この人は、ちょっと、物事を誇張する癖がある」と彼のことを記しています。フロイスは、正確に記録を書いて報告するというよりは、「歴史作家のようだ」という表現がされているわけです。だから、フロイスは、「結構、話を盛っているのではないか」「主観をまじえすぎているのではないか」ということが、いわれています。

 特に、フロイスが贔屓(ひいき)にする人間は、よく書かれている一方で、そうでない人間、なかでもキリスト教に敵対した人間のことは、非常に悪く書かれています。また、フロイスは、織田信長の時代より以前のことについては、直接は知りません。

 しかし、人々からの伝聞を面白おかしく書き残しているので、過去のことについては、結構、誤解もあるのではないかという気がしています。

 ですから、フロイスの『日本史』は、非常に参考になる史料である反面、フロイスが何を考えて、どういう取材を基にそれを書いたのか。そこを考えながら史料を読まなくてはなりません。そのままには受け取れない記述も多いと思います。

フロイスの「信長」「光秀」「秀吉」評

 フロイスにとって織田信長は、自分たち宣教師のことを、よく保護してくれた人なので、わりと好意的に記しています。ところが、信長が亡くなる少し前くらいに、信長が「オレは神様だ」と言わんばかりに、石を飾らせて、それをみんなに拝むように言ったという逸話を紹介したあたりから、信長のことを悪く書きはじめています。

 信長が、「どうもキリスト教的な考え方に合わないことをやり始めたな」ということで、信長のことを好意的に見られないところが出てきたのでしょう。ただ、信長は、キリスト教を保護してくれた恩人なので、原則としては、よく書きたい。一方で、本能寺の変で、信長を殺害した惟任(明智)光秀のことは、謀略家で陰険で、とんでもない奴だと徹底的に悪人として記しています。

 日本側の史料を見ると、光秀が悪人であるとは、書かれた史料は意外に少なく、これがフロイス個人の感想なのか、あるいは、本当に悪人だったのかは、わかりません。そのあたりをよく吟味しながら、フロイスの話を観察したほうがいいのではないかと思います。

 一方、フロイスにとって豊臣秀吉は、「バテレン、布教するな」という秀吉の姿勢が、強烈だったのでしょうか、非常に悪く書かれています。フロイスは秀吉を、ほとんど褒めていません。顔は醜い、欲深いだのと、辛辣(しんらつ)です。

 ちなみに、秀吉のことは、宣教師ではない他の外国人も、結構、悪く書き残しています。朝鮮から捕虜になった文官なども、文禄・慶長の役で秀吉に攻められたということもあってか、秀吉のことは、あまり褒めていません。

 秀吉の評判は、いろんな人の証言をみても、全体的に悪く書かれているのですが、その動機が、書く側にもあるというのを考慮して評価し直さないと、そのままには受け取れないかなと思います。

ザビエルとフロイスで異なる大内義隆評

 大内義隆は、じつは日本の歴史の教科書では、悪くは書いてないものの、一般的なドラマや小説だと、あまりいいイメージでは書かれていません。

 大内義隆は、生きている時は、それほど悪くは言われていませんでした。しかし、亡くなって以降、非常に悪く書かれはじめています。フロイスが日本に来たのは、大内義隆が亡くなって、ずいぶんたってからなのですが、その話を聞いて、彼のことを悪く書いたのだろうと思います。

 大内義隆が生きている時代には、宣教師としてフランシスコ・ザビエルが日本に来ていて、義隆と会っています。大内義隆キリスト教徒ではないけれども、ザビエルを非常に好意的に迎え、「布教の許可を与える」と言ってくれています。

 だから、キリスト教徒から見ると、大内義隆は恩人なわけです。しかし、布教の許可を与えて、ほどなくして、家臣である陶晴隆が謀反を起こして、義隆を殺してしまいました。そうすると、布教もすべて、パーになってしまいます。大内氏の本拠地も焼け野原となり、宣教師たちも、そこから逃げざるを得なくなりました。

 そんなこともあってか、大内義隆は、周りから悪く言われるし、ザビエルとしても、もう日本での布教は「やってられない」と絶望する。また、ザビエルと一緒に日本で活躍していた宣教師たちも、時と共に義隆の記憶は薄れていってしまったのでしょう。

 大内義隆の時代の記憶が、どんどん忘れられていくなか、遅れてフロイスが日本にやってきます。この時に、「どうも義隆の時代は大変だった」といった話が、広まっていた可能性があります。ここに、ザビエルの証言とフロイスの証言が、まるで逆になってしまっている理由があるのかもしれません。

 ザビエルは、当時の手紙で、「大内義隆は、布教の許可を与えてくれて、我々の話も、しっかり聞いてくれた」と書いています。ところが、義隆に会ったこともないフロイスの記録だと、ザビエル大内義隆に、「アナタは非常に恥ずかしい人です。男色(少年愛)をやっていて、我々の教義とは相容れない。アナタは、とんでもない人です」と言ったために、追い出されたと書かれています。事実とは全く逆のことになってしまっているわけです。

 この事例は、世間の評価が何年も経つうちに変わり、新たな評価が定着すると、事実が塗り替えられてしまうという、一つの例になるかなと思います。

 今は、どちらかというと、ザビエルの手紙よりも、フロイスが書いた『日本史』のほうが読みやすいということもあり、『日本史』に基づいた大内義隆のイメージが定着してしまっています。大内義隆は、非常に恥ずかしい行いをしていて、何も考えずに滅びてしまった。戦国大名としては、非常にそそっかしいというか、間の抜けた人物だといった評価が、定着してしまっています。

 私は、大内義隆については、特に、好き嫌いはないのですが、歴史人物全体にいえることですが、冷静に考えたいと思います。正当な理由もなく蔑(さげす)んだり、馬鹿にしたりするのは、よくないでしょう。

 過去のことを、正しく評価できないのだとしたら、我々が日本の歴史を、今後、語っていく資格もなくなっていくのではないか。そんな思いで、義隆については、擁護的になってしまいます。(構成/原田浩司)

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