スティーブン・フルトンに挑む井上尚弥
スティーブン・フルトンに挑む井上尚弥

階級を上げた初戦にして、いきなりのビッグマッチ。昨年末、バンタム級世界4団体王座統一を果たした井上尚弥7月25日、東京・有明アリーナでWBC・WBO世界スーパーバンタム級王者、スティーブン・フルトン(米国)に挑む。パワーアップした〝モンスター〟はどんな闘いを見せるのか?

【写真】鋭いパンチをたたき込む井上尚弥

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■勝つか、負けるか。久々の「ヒリヒリ感」

張り詰めた空気の中、ふたりの息遣いとパンチの音だけが聞こえてくる。WBC・WBO世界スーパーバンタム級王者スティーブン・フルトン(米国)への挑戦まで1ヵ月を切った6月29日の大橋ジム。井上尚弥は「仮想フルトン」のジャフェスリー・ラミド(米国)と6ラウンドのスパーリングを交わした。

身長168㎝、アマチュアで全米選手権を2度制した実力者を相手に1ラウンドごと、一瞬一瞬にテーマを持ち、頭と体をフル回転させる。

トレーナーの構えるミットに鋭いパンチをたたき込む井上。階級を上げてもスピードは落ちず、むしろ「切れ味は増す」と自信をのぞかせる
トレーナーの構えるミットに鋭いパンチをたたき込む井上。階級を上げてもスピードは落ちず、むしろ「切れ味は増す」と自信をのぞかせる

やはり井上のスピードは速い。鋭い踏み込みから左フックを放つと、ロープ際で連打をまとめ、「ここで終わりか」という場面で、さらにもう一発右をたたき込んだ。フェザー級のラミドよりもパワーがある。

井上に隙がない。手詰まりになったラミドを誘い出し、あえて打たせて、カウンターを狙う。接近戦を想定した場面では左ボディが相手の腹をえぐる。試合と寸分も変わらぬ迫力と、研ぎ澄まされた集中力。ハイレベルな6ラウンドだった。

スパーリングを終えると休む間もなくサンドバッグをたたき、その後はミット打ちで仕上げた。井上のこの試合にかける思いが伝播(でんぱ)し、ジムの雰囲気はずっと緊張感に満ちていた。

ひと通りのメニューを終え、ストレッチをしながらのインタビュー。練習時とは違って、柔らかく、充実感あふれる表情に変わった。

「モチベーションの高さは自分で感じているんで。オーバーワークにならないことが一番。今日もスパーリングで何ラウンドをやるか、その後、サンドバッグをどうするか(考えて調整している)。もっと追い込めたんですけど、やりすぎると疲れが抜けなくなっちゃうんで、そこの加減が難しいですね。体重が少し楽なんで。動けちゃうから」

自然と湧き上がってくるモチベーション。思いのまま体を動かせば、オーバーワークになってしまう。はやる気持ちを制御するのに必死だった。

ノンストップでサンドバッグに連打し、それを何度も繰り返す。見ているこちらが息をするのも忘れそうな迫力だ
ノンストップでサンドバッグに連打し、それを何度も繰り返す。見ているこちらが息をするのも忘れそうな迫力だ

昨年12月、バンタム級の世界4団体王座を統一し、階級を上げることを宣言した。いきなり対戦するのがスーパーバンタム級で「最強」と呼び声の高い2団体王者のフルトンだ。

「いやあ、久々ですよね。勝つか、負けるか。そのヒリヒリ感としてはかなり久々なのかな。ロドリゲス戦前に似ているような感じがしますね。あのときもめちゃくちゃ警戒していたし。それに似たようなワクワク感がありますね」

4年前に対戦したエマヌエル・ロドリゲスプエルトリコ)。当時、無敗同士の対戦で、相手はクレバーな技巧派だった。

今回のフルトンも21戦全勝(8KO)で無敗対決だ。王者は長い距離からジャブを突く。そうかと思えば、接近戦を演じることもある万能型。ディフェンスも優れている。井上は先を読み合う頭脳戦を想定している。

身長165㎝、リーチ171㎝で階級を上げる井上に対し、フルトンは身長169㎝、リーチ179㎝で、フェザー級リミット57.1㎏)転向を考えていたほどサイズが大きい。井上はライトフライ級からスーパーフライ級バンタム級と階級を上げてきたが、今回は「階級の壁」を最も感じるであろう相手になる。

「うーん、どのみち体重は一緒ですから。バンタムでもフルトンよりデカいのはいるし。ただ骨格ですよね、そこが問題になってくる。全然考えてないけど、フェザーとかになったら、(階級の)壁が出てくるわけで、新しい挑戦ではありますけど。スーパーバンタムはちゃんとフィットしていくと思いますよ」

■プラス1.8㎏で体も心も余裕を持てる

バンタム級リミット53.5㎏からスーパーバンタム級の55.3㎏へ。階級制スポーツのボクシングにおいて、この1.8㎏差は大きい。長い時間をかけて体を適応させていく。井上はこれまで「スーパーバンタムは未知の階級」「ここからはチャレンジ」と慎重な発言を繰り返してきた。

だが、半年間の練習を経て手応えを感じ、不安を一掃したようだ。まだ減量前のこの日、体重は63.3㎏。井上の首から肩周りの筋肉が盛り上がり、背中もこれまでよりひと回り大きく見えた。

「けっこう、そう言われるんです。(大きくなったのは)微妙に、かすかにですけどね。やっぱりこの1ヵ月を切った時期に1.8㎏プラスとなると、ちょっと体に余裕を持てるし、プラス、気持ちにも余裕を持てる。そこはかなりメリットかなと思いますね」

――メリットという言葉が出ましたが、肉体的にはどこが一番メリットになりますか?

「自分の持っている力を削ることなく、当日リングに上がれると思うので、本当の強さを出せるんじゃないですかね。バンタムでは減量も10㎏ちょいでそこそこきつかった。そうするとやっぱり最後はどうしても(体重を)落とすための練習になっちゃうから」

――階級を上げるとき、どこの部分を鍛えて、どこの筋肉をつけようと考えましたか?

「『つけよう』ではないですね。『残そう』です。もう普段からスーパーバンタムの体というのはあると思う。今まで削っていた分を1.8㎏残すということですね」

――パワーがつくのはもちろんだと思いますが、スピードのほうは?

「スピードは落ちないと思いますよ」

バンタム級の終盤、減量は過酷だった。必要な筋肉まで削ってしまい、本番では練習時と比べ、スピードに乗らない感覚があったという。

「(取材時の)62、63㎏の段階でもこのスピードを出せているということは、55.3㎏で(計量をパスした後、試合当日までに)リカバリーをしっかりしたらスゴいことになりそうですけどね」

そう言うと、リング上の自分を思い描いたのか、にやりと笑った。

――スゴいことになる?

「だって、このスピードにプラス、切れ味を増すと思うんで」

階級を上げることによって、1.8㎏分出力を増した新しいエンジンを積める。パワーは増し、より筋力を生かし、スピードも速くなる。

――これまでとリング上で出てくるものは違いますか?

「安定感も増すんじゃないですか。どうしても10㎏以上減量すると、いくらリカバリーをしたとしてもやっぱり体の『ふわふわ感』というのは残るんで」

スーパーバンタム級に「階級の壁」はない。それどころか、調整段階で心に余裕ができ、練習でも最後まで追い込める。新たなエンジンは頼もしく、リングに根を張るような安定感が得られる。転級はメリットしかないという。

あえてもう一度「本当の強さを出せる?」と尋ねた。

「出せるんじゃないですか。そう思っていますけどね」

自信ありげに、こちらに目を向けた。これまで本当の実力を出せていなかった、スーパーバンタムこそ適正階級と言わんばかりの表情だった。

■「判定でもポイントは取らせない」

過去2回、階級を上げた試合では衝撃を与えてきた。

2014年12月、スーパーフライ級のオマール・ナルバエス(アルゼンチン)戦では、11連続防衛中でプロアマ通じて一度もダウンのなかったWBO王者を4度倒して、2回KO勝ち。世界に〝モンスター〟の名を知らしめた。

2018年5月にはバンタム級に上げ、身長175㎝のWBA王者ジェイミー・マクドネル(英国)をわずか1回1分52秒で沈め、世界3階級を制した。

いずれの試合でも、減量苦から解き放たれ、秘めていたパワーを存分に発揮した。階級を上げた直後のセンセーショナルなKO劇。二度あることは......。

相手のフルトン(右)は1994年生まれの29歳。21勝(8KO)無敗の戦績を誇る。井上戦が決まる前はフェザー級への転級も計画していただけに、体はひと回り大きい(写真/アフロ)
相手のフルトン(右)は1994年生まれの29歳。21勝(8KO)無敗の戦績を誇る。井上戦が決まる前はフェザー級への転級も計画していただけに、体はひと回り大きい(写真/アフロ)

――ナルバエス戦、マクドネル戦は解放されたような試合でした。今回もそういうシーンが見られるのかな、と。

「見せられると思いますけどね。まあ、比べものにならないほどの舞台だし、注目度だし。あの頃も階級を上げて、新たに挑戦という試合ではあったんですけど、やっぱり世間の注目度がマクドネル戦とかと比べても段違いなんで。日本に限らず、世界でもやっぱり注目度を感じるんで」

バンタム級で闘った4年7ヵ月。井上は自らの拳で栄冠を手にし、取り巻く環境を変えてきた。

世界王者を含む8人によるトーナメントWBSS(ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ)の決勝でノニト・ドネアフィリピン)と熱戦を演じ、優勝を飾った。

ボクシング老舗専門誌『ザ・リング』が発表する全階級を通じた最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド」(PFP)で1位になり、「世界最強ボクサー」の称号を得た。世界9人目となる世界4団体王座統一を達成し、しかもそれはすべてKOで王座を奪う偉業だった。

今や世界中から注目されるボクサーとなり、狙われる存在になった。もうひとりのスーパーバンタム級王者、WBA・IBFのベルトを持つマーロン・タパレスフィリピン)も井上との対戦を熱望し、7月25日は試合を視察に訪れる予定だ。

――これまでは対戦を避けられることも多かった。だけど、この階級ではみんな対戦を希望していますね。

「はい、もちろん自分がPFPで上位にランキングしている、プラス、日本でやれば何倍ものファイトマネーがもらえる。そういうことも大きいと思いますね。勝っても負けてもやる価値があるというか」

――日本をボクシングの大きな市場にしましたね。

「うーん、だからそれこそ、(一昨年12月のアラン・)ディパエン(タイ)戦でひかりTVが配信を試みたというのは一番大きかったのかなと思います」

テレビの時代からインターネット配信の時代へ。多額のファイトマネーを生み出すビッグイベントとなり、フルトン戦はNTTドコモの映像配信サービス「Lemino」で生中継される。

「今の練習ができていたら、もう楽しみしかないです。あとは試合当日、どっちが強いか。そこだけなんで」

世界4階級制覇と2団体のベルトがかかる大一番。井上はどんな試合を見せてくれるのだろうか。

「いろいろ想定はしています。判定でも、絶対ポイントは取らせない。技術戦になっても面白いし。まあ、フルトンも100%徹底したアウトボクサーじゃなくて、打ち合いをする場合もあるんで。そういう試合になったら、KO決着できればと思います。どのみち、勝つ姿を見せたいです。どんな内容でとかじゃなく」

極上の技術戦か。それとも新エンジンのスピードとパワーで王者を圧倒するのか。7月25日井上尚弥の「本当の強さ」が見られるだろう。

井上尚弥いのうえ・なおや) 
1993年4月10日生まれ、神奈川県出身。2014年4月にライトフライ級で世界王座初戴冠。同年12月に2階級制覇、18年5月に3階級制覇達成。19年11月、WBSSバンタム級トーナメントで優勝。22年6月にバンタム級3団体王座統一、世界で最も権威のあるアメリカのボクシング専門誌『ザ・リング』が格付けするパウンド・フォー・パウンド・ランキングにおいて第1位に選出された。22年12月、世界9人目、バンタム級およびアジア人として初となる4団体王座統一を果たした。

撮影/伊藤彰紀 取材・文/森合正範(東京新聞運動部記者)

スティーブン・フルトンに挑む井上尚弥