歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

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「小泉は織田信長、安倍は徳川家康」

 小泉純一郎元首相は、戦国武将・織田信長に例えられることが多い政治家です。韓国の朝鮮語の日刊新聞「中央日報」(2006・9・22)は「小泉は織田信長、安倍は徳川家康」という表題を掲げ「一刀に勝負をかける勝負師の織田信長と、徐々に相手を陥落させる徳川家康の戦闘方式が両首相の政治スタイルと似ているということだ」「小泉首相は、5年5カ月の在任中、冷血漢という修飾語が離れなかった。 小泉首相は織田信長がそうであったように、自分の敵はもちろん、敵となる人物も前もって退けた」と書いています。

 また、小泉元首相と盟友であった山崎拓(自民党の元幹事長)も、小泉元首相のことを「小泉は織田信長」と評しているのです(秋山訓子「小泉純一郎が盟友にみせた打算と友情」『AERA2016・9・12)。小泉元首相自身も、信長という人物に惹かれるらしく、作家・安部龍太郎氏が書いた『信長はなぜ葬られたのか』(幻冬舎2018)を読み「面白い。一気に読んだ。 信長には仕えたくないが私は信長に魅かれる。 なぜ暗殺されたのか、謎は多い。 信長は今も生きている」(幻冬舎plus 2018・9・5)と感想を寄せています。

 小泉元首相が、なぜ、信長に仕えたくないと記したのか、ご本人に聞いてみるしかないのですが、私が勝手に想像するに、おそらく、信長は、物凄く怖い指導者(上司)であり、家臣(部下)が、ミスをしたり、歯向かうと、すぐに徹底的に弾圧され、殺されてしまうとの認識があったからではないでしょうか。

 近年では、安倍晋三元首相が、ロシアプーチン大統領を、東京都内で開催されたシンポジウムにおいて「力の信奉者」であり「信長と同じ」とコメントしたことが話題となりました(2022・4・21)。安倍元首相は「織田信長に人権が通用しないのと同じだ」とも述べたと言います。

 このように、信長は、人権無視、冷血非情な武将とのイメージでもって、現代において、語られているのです(おそらくそれは、戦後の歴史小説や、時代劇の影響によって形成されたものでしょう)。私はそれを全否定する積もりはありません。信長にそうしたところもあったのも事実です。しかし、それのみでもって、信長という男を語ってしまうのは、彼の「実像」を知る上で、危険だと考えています。

 これまで語られてきた冷酷非情との評価を覆す信長の言動も数多くあるからです。例えば、信長が若い頃(尾張時代)には、弟・信勝(信行)と対立。信長と信行方の軍勢は合戦し、信長軍の勝利に終わります。それでも、信長は信勝を殺すことはありませんでした。母・土田御前の仲介があったということもあるでしょうが、信勝を許すのです。信勝に付いた家臣(柴田勝家や林佐渡守)も赦免しています。 

 が、信長の厚意も虚しく、信勝は再び謀反。この時ばかりは、さすがの信長も許すことができず、信勝を清須城で斬り殺しています。信長の厚意は、親族のみに向けられたわけではありません。裏切りの常習者として現代でも名高い松永久秀が、信長に反旗を翻した時(1577年)なども、信長が最初にやったことは、怒ったり、軍勢で攻め寄せて松永を殺すことではありませんでした。いきなりの謀反には「どのような事情があるのか。存分に思うところを申せ。望みを叶えてやろう」(『信長公記』)と使者を介して、松永久秀に伝えたのです。

 しかし、松永は信長の言葉に従うことはありませんでした。松永の頑な態度を見て、信長はやっと行動(人質の処刑など)に移るのです。

裏切りの報告は信じない信長

 摂津国の荒木村重が裏切った時(1578年)もそうでした。「荒木村重が謀反心を抱いている」との情報が、あちらこちらから、信長のもとに寄せられてくるのですが、信長はその情報を信じようとはしません。虚報だと最初思ったのです(『信長公記』)。

 実は、信長にはそうしたところがあります。妹のお市の方が嫁いでいる北近江の武将・浅井長政が裏切った際(1570年)も、続々と入ってくる「長政、裏切り」の報告を信長は信じなかったのです。織田と浅井は縁戚であるし、北近江の支配も任せてあるのだから、長政に不満があるはずはないし、裏切ることなどないと信長は感じていたと言うのです。ところが「長政の謀反」は頻りに入ってくる。そこでやっと、信長は重い腰を上げ、退却を決意するのでした。これなども従来の信長ファンの観点からすると、随分、間の抜けた話と思うかもしれません。

 荒木村重謀反の話に戻ります。村重謀反の情報を信じない信長が先ずやったことは何か。これも松永の時と同じように、使者を派遣して、相手(この場合は荒木)の想いを聞いてやろうとしたのです。「何か、不満でもあるのだろうか。思うところがあるならば、聞いてやろう」と村重の考えを聞こうとしたのです。

 しかし、最終的に信長の想いは通ぜず。村重は信長に謀反します。これら『信長公記』に記された話を見て、従来の冷酷非情な信長イメージを持っている人は、驚かれたのではないでしょうか。信長ならば、激怒して、謀反人を討伐する軍勢をすぐに派遣する。そんなイメージではなかったでしょうか。

 さて、小泉元首相は、2005年の「郵政解散」それに続く選挙において、郵政民営化関連法案に反対した議員に自民党の公認を与えず、そればかりか「刺客」候補を送り込み、結果的に大勝します。こうした点が、小泉元首相と従来の信長イメージに重なるところなのかもしれませんが、実際の信長は、裏切った家臣の想いを聞いてやろうと使者を遣わしていたのです。

 小泉元首相の解散を、森喜朗元首相は止めようとして動いていたようですが、小泉元首相はその考えを聞くことはありませんでした。衆議院解散に打って出たのです。

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小泉純一郎首相(当時)の「郵政解散」記者会見(2005年8月7日) 写真/ロイター/アフロ