彼女が話すことができたら…私の貴重な青春の3年間を返してと叫ぶのではないだろうか。2016年11月、韓国の慰安婦像が一人、アメリカの地に着いた。だがその地の人々は、モデルが、慰安婦ではなく、在韓アメリカ軍の車が轢いてしまった、友達の誕生パーティに行く少女であると知っていたのかもしれない。また、日本という友好国の心を傷つけないようにと考えたのかもしれない。

 像は3年間、倉庫に保管されていた。なぜ? 私は、日本が韓国の少女たちにひどいことをしたかを知らせに来たのよ。轢かれた少女に似ているかもしれないけど似ているだけよ。暗い倉庫の中で埃まみれになりながら、思っていたのかもしれない。

 2019年…3年が過ぎた。バージニア州のコリアタウンが彼女を身請けした。好事魔多し。彼女が安住の地だと思った場所は、当然地続きの一階。そのビルの1階に入居した会社が彼女のいる場所まで使用したいということになった。バージニア州にもコロナ不況はあり、ビルのオーナーは、アフターコロナで借りてくれる会社の言い分を飲まなくては生活できない。

 それは、少女だって、彼女を設置し続けた韓国人関係者も事情は汲んでいる。今、彼女は民家の前にいる。

 転々と転々と。まるで、戦況によって、軍隊とともに移動させられる女性たちのように。少なくともそう感じさせるような状況が想定されるならば、像をやみくもに建てるものではないのに。

イメージ