中條さんは徳島市出身の42歳。地元で建設会社の経営をしていたが、ロシアの侵攻を見てそれまでの生活をなげうち、現地へ
中條さんは徳島市出身の42歳。地元で建設会社の経営をしていたが、ロシアの侵攻を見てそれまでの生活をなげうち、現地へ

ロシアの侵攻開始から約1年半が経過した今も、軍事支援を中心に国際社会の関心度は高いものの、民間支援に関しては戦争長期化で先細りが指摘される。

初期から現地で活動を続け、"ピカ"と呼ばれる日本人ボランティア・中條秀人(ちゅうじょう・ひでと)さんに、戦地支援のリアルな現状と今後の課題を、ウクライナと近隣諸国の取材を行なうカメラマン・小峯弘四郎氏が聞いた。【戦地ウクライナの日本人②】

【写真】ピカチュウ姿で現地の子供たちに親しまれる中條さん

■最初は大人たちに不審がられた

ロシアウクライナ侵攻開始からわずか1週間後の昨年3月2日に全域を占拠されたヘルソン州では、その後のウクライナ軍の反転攻勢により、11月に州都ヘルソン市を含むドニプロ川西岸地域が解放された。しかし川の東側は今もロシア軍が占拠を続けており、両軍が互いに砲撃を繰り返している。

そのヘルソン州で今年6月6日、カホフカダムが決壊し、ドニプロ川下流域の農村部や住宅地が甚大な洪水被害を受けた。翌日から現地入りし、砲弾の音が響く市内をボランティアグループのメンバーと一緒に走り回っている"ピカチュウジョウ"こと中條秀人さん(42歳)は、当初の混乱した状況を徳島弁交じりの口調でこう振り返る。

ボランティアやメディアなど、人がようけおって、現場は明らかに混沌(こんとん)としとって。もともと戦争しよーところにこの洪水やけん、混乱するのは当たり前なんやけど、人はどうしても派手な救出現場など目立つ所ばっかり目が行きがちになりますな。本当に必要としている人たちに支援が行かないようになってはあかんと思うんですよ。ヘルソン市もそこを心配して、すぐに規制をしてくれて。めっちゃやりやすくなったんですよ」

浸水が引いてきた地域で道路を横切る犬。ダム決壊に伴うヘルソンの洪水では多くのペットや野良犬、野良猫も被災した
浸水が引いてきた地域で道路を横切る犬。ダム決壊に伴うヘルソンの洪水では多くのペットや野良犬、野良猫も被災した

ボランティアによる救助現場にメディアが集中したところをロシア軍に砲撃で狙われたり、防弾ベストを着用していた関係者が水中に落ちて溺れてしまったり......といった状況を見かねたヘルソン市は、洪水発生から3日目に水辺への立ち入りを制限すると発表した。

「市長自らボランティア団体らと調整を重ねて、状況とニーズの把握をしっかりやって。逃げ遅れた人やペットの救出、簡易的な発電機や飲料水などの緊急支援は終わり、今は継続して物資の配達などを行なえるよう調整をしています。もうすぐ水の浄化装置も届くので、生活用水が枯渇した地域に配りに行きます」

洪水発生3日目の6月8日にヘルソン市長(右)とミーティングを行ない、市と連携して支援活動ができるようになった(中條氏提供)
洪水発生3日目の6月8日にヘルソン市長(右)とミーティングを行ない、市と連携して支援活動ができるようになった(中條氏提供)

浸水被害が深刻だったヘルソンのコラベル地区にて、住民の救出活動を行なう救急ボートの隊員が手を振ってくれた
浸水被害が深刻だったヘルソンのコラベル地区にて、住民の救出活動を行なう救急ボートの隊員が手を振ってくれた

筆者は侵攻開始後初めてのウクライナ取材を終えた昨年5月、隣国ポーランドのホテルで中條さんとばったり出会って以来、連絡を取り合い、現地の状況などを教えてもらっている。

そのとき、中條さんは「これから戦線に近い東部へも行く」と話していたが、何より印象に残っているのは、なぜかピカチュウが描かれた服を着て「ピカチュウジョウです」と自己紹介してきたことだった。

10代で地元・徳島市の父親の建設会社を手伝い、後に経営者として20年近く働いてきた中條さんは、侵攻のニュースで被害に遭う子供たちの様子を見て「なんとかせなあかん」と、これまでの生活をなげうって子供たちや女性たちへの支援を中心に活動を始め、昨年4月には早くもウクライナ入りして西部の避難所を回った。

その際、避難してきた子供たちに少しでも笑顔になってもらおうと考えたアイデアが"ピカチュウジョウ"の始まりだった。

ヘルソン市中心部にある支援物資の配給所に来た子供にピカチュウグッズをプレゼント
ヘルソン市中心部にある支援物資の配給所に来た子供にピカチュウグッズをプレゼント

ポケモンの中でもピカチュウウクライナでの認知度も高く、皆が笑顔になってくれやすいかなと。それでピカチュウの格好をして、自分の名前に"ピカ"をつけて名乗るようにしたんです。

もちろん、最初は周りの大人たちから不審がられました。こんなときにバカにしとんのか、不謹慎だと注意されとりましたが、ピカチュウグッズを配って一緒に遊ぶと喜んでくれる子供たちの笑顔を見て、母親たちも笑顔になり、大人の男たちも認めてくれよるんです。今ではウクライナで知り合った人たち全員から"ピカ"と呼ばれています」

■ボランティアの倉庫は砲撃の標的になる

日本ではJCI JAPAN(日本青年会議所)のメンバーとして地域のために活動していた中條さんは、ウクライナでもそのネットワークを活用して支援活動をしている(現在はJCIセネター=国際青年会議所永久名誉会員)。ウクライナではJCIの存在は小さいものだと中條さんは言うが、流通経路や物資倉庫の確保など、その組織力には目を見張るものがある。

ただし、ロシア軍は物資倉庫の場所をつかむと必ず砲撃で潰しに来る。人の出入りや情報の管理は徹底しているが、それでも筆者が中條さんの取材のために訪れた場所のうち2ヵ所はその後、砲撃の被害を受けてしまった。

そのため今回の記事化に当たっては、倉庫の場所や現地団体、関係者などが特定できないよう配慮している。

ヘルソンでは川を挟んで砲撃戦が続いており、前線地域に支援物資を届ける際は必ず防弾ベストとヘルメットを着用する
ヘルソンでは川を挟んで砲撃戦が続いており、前線地域に支援物資を届ける際は必ず防弾ベストとヘルメットを着用する

中條さんは当初、ウクライナ西部の街ウジホロドに拠点を置き、避難してきた子供たちのケアをしながら、いずれ孤児院をつくろうと考えていた。しかし宗教的な要因も大きいのか、ウクライナでは子供を引き取る人が多く、想像していたほど孤児は多くなかった。

そこで、活動の目標を避難シェルターの運営へと変更し、継続して支援をするため一般社団法人ウスミシュカ(ウクライナ語で「笑顔」)を昨年夏に設立している。

「初めは最も安全な西部のウジホロドを拠点にしたんですが、避難民の方々は数ヵ月で落ち着いたので、『ウスミシュカキャラバン』を結成して各地に支援物資を配って回りました。そしてドニプロという街に新たな拠点をつくったんです。

なぜかというと、ドニプロにはマリウポリやハルキウ、ドネツク地方から、遠くまで避難できないハンディのある子供たちが継続的に避難してきとりました」

ヘルソン市中心部の支援物資倉庫で、袋分けにした食料などの物資をトラックに積んでいる。1回に約500袋が運ばれていく
ヘルソン市中心部の支援物資倉庫で、袋分けにした食料などの物資をトラックに積んでいる。1回に約500袋が運ばれていく

ウクライナ北部にある首都キーウと南部の大都市オデーサの中間あたりに位置するドニプロは中部最大の都市で、工業の中心地でもあり、旧ソ連時代には"人材の首都"とも呼ばれていた。

ずっと激戦が続く東部や南東部の玄関口に当たる都市でありながらも、ある時期から戦争が生活に与える影響は限定的なものになっていたため、最前線の近くから避難してきた人々が数多くとどまっている。

「ドニプロでは使用していない建物を丸々借りて、障害者優先避難施設『ウスミシュカハウス』を運営し、障害者、子供、ロマの人々など、誰でも受け入れとるんです。今回の洪水で被害を受けたヘルソンの人々もすぐに受け入れました」

昨年8月には激しいミサイル攻撃を受けていた北東部の都市ハルキウで、地下鉄に避難していた子供たちへの支援活動も
昨年8月には激しいミサイル攻撃を受けていた北東部の都市ハルキウで、地下鉄に避難していた子供たちへの支援活動も

その支援活動は多岐にわたる。「ハミガキプロジェクト」として、子供たちにピカチュウ歯ブラシを配って歯の磨き方を教えたり(現地では歯の治療にとてもお金がかかるため予防が重要)、精神面のケアも兼ねてラジオ体操など体を動かすイベントを開催したり、昨年のクリスマス時期には約2週間、美術館などに「ウスミシュカポイント」を設置して避難してきた子供たちに食事やお菓子を配ったり......。

中條さんのこうした地道な活動は地域にも認知されつつあるという。

また、相撲人気の高いウクライナで大会を勝ち上がった子供たちが日本で大会に出場する『わんぱく相撲ウクライナ大会』の企画も手がけており、選手たちは7月末に来日する予定だ。

■アピール上手な団体に寄付が集中する現状

欧米を中心に国際社会ではウクライナへの武器支援が続いているが、侵攻開始から1年以上が経過し、民間への支援は先細りしている。まして当初から現地で支援を続けている人は、今やほんのわずかしかいないという。

そのひとりである中條さんは、もともとウクライナに縁があったわけではない。何が彼を支援活動に駆り立てているのか。

「戦争が起きると、必ず暴力のトラウマを抱える子供たちが出てくるんで、負った傷をなんとかして癒やすことができんだろうかと思ったんです。自分も小さいときに虐待されていた時期があって、ずっとトラウマを抱えとったので、弱い者の痛みはわかります。

負の感情をバネにして、負の連鎖を断ち切って、ポジティブチェンジをしてもらいたいんです。そのための活動をウクライナでしたいんです」

同じく昨夏のハルキウ、地下鉄にて。子供たちは中條さんからピカチュウの帽子をかぶらせてもらうと喜んでいた
同じく昨夏のハルキウ、地下鉄にて。子供たちは中條さんからピカチュウの帽子をかぶらせてもらうと喜んでいた

活動を長く続けていく上で、一番の問題は資金だ。

ウクライナでは現在、国家予算の多くが軍事関係に割かれ、一般の人々は各国からの寄付や支援に頼らざるをえない状況にある。しかし、戦争の長期化に伴う先細りの中で、寄付や支援の行き先がいくつかのボランティア団体に偏って固定化してしまっており、本当に必要としている人に届かない状況がしばしば生まれているという。

今回の洪水被害でも、煽情(せんじょう)的な情報発信に長(た)けた団体に多くの寄付が集中したり、さらには資金集めのために来ているようなビジネス化した団体もあるなど、支援における問題は根が深い。中條さんは、効率的な支援のやり方や寄付のシステムを整備をする必要があると指摘する。

「ビジネスのためにお金を集めること自体は、それはそれでいいんです。現地には雇用の問題もあるし、ソーシャルビジネスとして戦時下でやることも重要だと思います。ただ、支援金を目当てにしている人があまりにも目立つんですよ。

本当に真面目にボランティアをしている人が多くいるのに、その人たちを支援しようという流れにいっこうにならんのは、やはり見過ごすことはできんです」

ヘルソンのアントニウカ村で砲弾が着弾した元飲食店の建物。近づくとまだ熱気が残っており、内部はところどころ煙が上がっていた
ヘルソンのアントニウカ村で砲弾が着弾した元飲食店の建物。近づくとまだ熱気が残っており、内部はところどころ煙が上がっていた

こうした課題を社会問題としてとらえて解決する手がかりをつかむため、中條さんはウクライナと日本を往復する合間に、イラクで支援活動を行なっている高遠菜穂子(たかとお・なほこ)さんを訪ねたという。高遠さんは2004年にイラクで武装勢力に監禁された経験がありながら、その後も現地で活動を継続している。

「戦争で被害を受けたウクライナイラクには共通点があると思ったんで、高遠さんに復興や支援のアドバイスをもらおうと訪ねて行きました」

ただし、イラクの復興や支援活動も決して順風満帆というわけではなく、むしろ教訓となる話が多かったと中條さんは言う。例えば、イラクでも支援の偏りの問題は深刻で、ある時期には長者番付一覧に支援関係の名前がずらりと並んでしまったこともあったそうだ。

「このままだとウクライナにも同じようなことが起きる。今の段階からちゃんと対策をせなあかんと思ってます」

ヘルソン市で一緒に活動しているボランティアのメンバーから中條さん(前列右端)は"ピカ"と呼ばれている。詳細なコミュニケーションは翻訳アプリを使用
ヘルソン市で一緒に活動しているボランティアのメンバーから中條さん(前列右端)は"ピカ"と呼ばれている。詳細なコミュニケーションは翻訳アプリを使用

こうして長期的な支援を視野に入れる中條さんの活動には、JCIなどを通じて学生たちも参加している。

「本来ならボランティアとは関係ない生活をしよった学生たちが、この苦境を目の当たりにして活動の手伝いをしてくれとんは、本当にすごいと思います。今後この活動を、次世代につなげていきたいと思っています。

若い人たちにもっと支援に参加してもらうために、状況が許すようになればボランティアのインターンを受け入れる制度を作り、国際的な活動を通じて成長できる機会を提供していきたいです。

そして、現時点では難しいと思うけど、本来スポーツや音楽などは政治とは切り離して考えなあかんです。文化交流をやめたらあかん。大切なのは戦後にどうするかです。思いやりを基本とした相互理解の上で、負の連鎖をどのように断ち切れるか。

戦後には日本とウクライナロシアをつなぐ懸け橋になれるように日々、戦災に遭われた方々に寄り添い行動していきます。実現不可能と言われる恒久的世界平和への一助となる行動を持続させ、次世代にもつないでいきます」

●取材・撮影・文/カメラマン 小峯弘四郎
神奈川県出身。ロシアウクライナ侵攻開始以来、ウクライナと近隣諸国の取材を行なう。近年では2015年トルコクルド人居住地域の内戦取材、2019年香港民主化デモのドキュメンタリー写真撮影などを手がける

取材・撮影・文/カメラマン・小峯弘四郎

ヘルソン市中心部にある支援物資の配給所に来た子供にピカチュウグッズをプレゼントする中條さん