19世紀末のパリのナイトクラブを舞台に、クラブの花形スターで高級娼婦のサティーンと、作家を目指し、アメリカからやってきた青年クリスチャンの恋を描いた映画『ムーランルージュ』(01)。絢爛豪華かつ妖艶な映像に、クラシックの名曲や人気ミュージカルナンバー、さらには最新のポップソングをも織り交ぜて描き、2001年度のアカデミー賞ほか、数々の賞に輝いた。そんな名作をもとにした舞台「ムーランルージュ!ザ・ミュージカル」は、2019年6月にブロードウェイで初演されるや、トニー賞でも作品賞ほか10部門を受賞している。そしてこのたび、世界上演7番目となる日本でもついに開幕を迎え、映画版の監督、製作、脚本を務めたバズ・ラーマンが、日本版のプレビュー公演に合わせて来日。日本キャストによる舞台を観た感想や映画撮影時の思い出、自身のクリエイティブの源などについて語った。

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■「日本には“悲劇”を受け入れやすい土壌がある」

プレビュー初日を観たラーマン監督は「日本の客席ではとても珍しいことが2つも起きたんです。一つは、すべての楽曲で客席から手拍子が起きたこと。そしてもう一つは、観客が一緒に笑ったり手拍子をしたりしてショーに参加したことで、舞台上の俳優たちのパフォーマンスレベルが、さらに数段上がったこと」。その結果、「これまで自分のショーを観て、泣いたり笑ったりすることはほとんどなかった」というクールなラーマン監督の琴線に触れたようで「いままで観たどの国のバージョンよりも一番感動した」と明言し、「公演を観ながら、自身をサティーンに重ねてしまったのかもしれない」とまで言わしめた。

いまから30年前、インドのラージャスターン州にある“アイスクリーム宮殿”と呼ばれる巨大な映画館で、「言葉もわからないインドミュージカル映画を初めて体験してとてつもない衝撃を受けたことが、その後の人生に影響を及ぼした」というラーマン監督。大勢の観客たちが、ライブ会場にいるかのようにスクリーンの中の出来事にリアクションしているのを目の当たりした時と似た感動を、今回の観客の反応から感じ取ったとも言える気がしてならない。

「一般的に、西洋の映画はどれもジャンルがはっきりわかれていますよね。でもインド映画の場合は、一つの作品のなかに、コメディミュージカルも、悲劇もすべて入っている。私はそこに、シェイクスピアの戯曲との接点を見出したんです。その発見が、私がその後製作した『ロミオジュリエット』に幾ばくかの影響を与え、『ムーランルージュ』にはさらに大きく影響し、インド人の作曲家を呼んで一つナンバーを作ってしまったほどだった。つまり、『ムーランルージュ』には確実にボリウッドのDNAが入っているんです」

インドや日本で異国語を話す俳優たちが歌い踊る作品にラーマン監督が感銘を受けたように、ミュージカルには言葉や文化を越えて、多くの人々の心に感動を届けられる力がある。

「ドラマ単体で描く以上に登場人物の感情を増長させ、通常のセリフではとても表現できない感情までをも観客に伝えることができるのは、まさに音楽劇ならでは」とミュージカルの醍醐味について語るラーマンは「なかでも“悲劇”は日本にマッチしている気がする」と分析している。「『ムーランルージュ』で描かれる世界は、ものすごく華やかで、コメディ要素もあって、もちろん音楽もすばらしい。でも、物語全体としては悲劇ですよね。私は今回、日本人の観客と一緒に観ていて、日本には悲劇を受け入れやすい土壌があるのではないかと思ったんです。日本の古典芸能や歌舞伎の演目にも、そういった要素が多いじゃないですか」

■「『ムーランルージュ』は、私にとってものすごく特別な体験だった」

今回のミュージカル版に関しては、演出家としてではなく「“おじ”くらいの距離感で関わった」というラーマン監督にその真意を訊ねると、「“おじさん”というより、もはや“おじいさん”のような立場だけどね(笑)」とジョークを交えつつ、クリエイターの矜持を語ってくれた。

「最初はミュージカル版も自分で演出を担当するつもりでいたんですが、『やっぱり僕は昔には戻りたくない、後戻りしたくない』と思い直したんです。私が『ムーランルージュ』を作ったのはたしか37~38歳のころですが、戻りたくてもあのころの自分には戻れないし、どうせやるならいまの自分に合った仕事をしたいと思って、演出家のアレックスティンバースと、彼のクリエイティブチームに譲ることにしたんです。結果的に、それで正解だったと思います。彼らはいまの観客の嗜好に合うように、オリジナル版から構成を大胆に変えています。要は、舞台というのは生き物なんですよね。この時代、この場所にふわさしい作品であるためには、まさに“いま”に生きてないといけないわけです。1950年代に最高に良かったとされるものを、そのまま現代の舞台で上演したら、それは死を意味しているようなもの。私が、彼らのやり方が非常に賢明だと思う点は、映画の主要な音楽はちゃんとキープしているということ。クリスチャンには音楽家としての才能があるから、レディー・ガガの楽曲も含めて、次から次へとさまざまな愛の歌を生み出せるわけですよ(笑)」

映画を製作していた当時、「実際に自分たち自身も『真実・美・自由・純愛』をなにより大切にしながら生きる、ボヘミアンのような暮らしをしていた」というラーマン監督に、ずばり「あなたにとって『ムーランルージュ』とは?」と尋ねると、「これまで手掛けてきたすべての映画が自分の子どものような存在であり、どの作品も私の人生の大切な一部分。後悔のある映画は1本もないんです」という答えが返って来た。「私には実際に18歳と19歳の子どもがいますが、二人子どもがいたらどちらが好きとは言えないし、それぞれ違う愛し方がありますよね。でもまぁ、そうは言ってもやっぱり『ムーランルージュ』は、私にとってものすごく特別な体験ではありました。

当時は、“ミュージカル映画”というジャンルさえも世の中から失われていた時代でしたから、『なぜいまこんなものを作るのか』と、メディアだけでなくスタジオからも大バッシングを受けていたんです。私が映画を撮影している時は、常にドラマチックなことが起きるようで(苦笑)、『エルヴィス』の製作時は世界中がパンデミックに見舞われましたし、『ムーランルージュ』の時も、撮影の初日に私の実父が亡くなるなど、様々な予期せぬハプニングがありました。あれだけ楽しそうに、人生の喜びを表現した映画ではありますが、当時の私はとてつもなく大変な状況でした」

今回の日本滞在中、様々な刺激を受け「クリエーションへの活力を得た」というラーマン監督。「言い方に気をつけないといけないんですが、私も60歳になりまして。映画や演劇を作ったりすることは、いわゆる9時~17時で働く会社員とはまったく違う類のもので、本当に自分の人生の一部をそこに注ぎこむような感覚なんです。だからこそ、それが本当にいま自分がやりたいことなのかどうか、その都度、注意深く判断していく必要があるんです。正直いまの時点では、『別に無理して映画を作らなくても生きてはいけるし…』と思ったりもするんですが(笑)。今回の日本公演のプレビューで、およそ2000人もの観客たちが舞台を観て歓喜している姿を目の当たりにして、私も『もっと映画や舞台を作りたい、これこそがいま私がやるべきことなんだ』と、改めて実感させられました」

さらに「日本人の友人もたくさんいるし、慣れ親しんだ土地でありながらも、完全に逃避できる貴重な場所でもある。だって、本国にいるときほど周りに気付かれずに自由に過ごせるからね」と日本で過ごす利点を語りながら、「いまはそこからさらに一歩踏み込んで、『日本文化に溶け込みたい』という気持ちが、今回の滞在を機にすごく強くなってきた」と心境の変化も口にする。「まさに、いまいる帝国劇場のロビーのステンドグラスもすごく素敵だし、コーヒーショップのちょっとした内装にも日本ならではの美的センスを感じます。日本には『明治村』というのがあると聞いて、その場所にも興味を持ちました。できることなら車移動ではなく、自分の足で電車やフェリーに乗って、まだ見ぬ日本の魅力に触れてみたい。自分ひとりで日本各地を自由に旅してみたい、という野望がありますね」

取材・文/渡邊玲子

「ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル」バズ・ラーマン監督にインタビュー/撮影/興梠真穂