「元祖K-1」といえる全日本新空手道連盟の『カラテ・ジャパン・オープン』の第1回、第2回大会を連覇した佐竹雅昭
「元祖K-1」といえる全日本新空手道連盟の『カラテ・ジャパン・オープン』の第1回、第2回大会を連覇した佐竹雅昭

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第8回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

■「ストロンゲストマン」と「拳」

代々木第一体育館一帯で開催されるフジサンケイグループの一大イベント『LIVE UFO93』の中で、格闘技イベントをやることは決まった。担当プロデューサー兼ディレクターとなるフジテレビの磯部晃人が社内向けの企画書を作成し、局内で動いたことが功を奏し実施する運びとなったのだ。

正道会館からのアイデアでサブの大会名は『10万ドル争奪 格闘技世界一決定トーナメント』となることに異論はなかった。決まっていないのはメインの大会名だけだ。何か親しみやすく、持続性のあるネーミングはないものか。

磯部が腕を組みながら思案していると、ファックスで正道会館から新たな企画書が送られてきた。その資料は今も磯部の手元にある。上部の左隅にはしっかりと「92年7月2日」と記されていた。

そこには、『10万ドル争奪 格闘技世界一決定トーナメント』の名称とともに、新たな大会名が印字されていた。

その名は『FIST』。

直訳すると「拳」となる。正式名称は『Federation of International Strongestman Tournament』で、FISTはその略だった。

海外には年に一度、世界一の力自慢を決める『World's Strongest Man』なるイベントがある。例えば、300㎏近い巨大なタイヤを起こしたり倒したりという動作を繰り返す。常人では絶対真似できない種目が続く、超人追求の大会だ。80年から3年連続でこの大会を制したビル・カズマイヤーはのちにリングス新日本プロレスのリングにも上がっている。

「ストロンゲストマン」というわかりやすいネーミングを、立ち技格闘技をイメージしやすい「拳」に結びつけ、最強の男を想起させるというアイデアだったのだろうか。磯部はFISTという名称にはあまりピンとこなかったし、上層部の反応も鈍かった。

テレビ局の人間はネーミングに敏感だ。しかし、ネーミングの主導権がテレビ局にあったというのは誤解だ。複数年の放映権契約ならともかく、そのときは一大会のみの興行権の取り決めに過ぎなかったので、そこまで強く意見を言う立場にはなかったのだ。

「石井(和義)館長は、FISTの名称について口頭でのプレゼンをされましたが、それほど熱のこもったものではありませんでした。『仮称』という但し書きもついていたので、ウチは次の石井館長のご提案を待とうというスタンスだったと思います」(磯部)

とはいえ、もしこの大会名のままで最終的なGOサインが出ていたら、どんな命運を辿ったであろうか。

磯部は石井と額を付け合わせるようにアイデアを出し合ったこともあったが、妙案が思い浮かぶことはなかった。

K-1という大会名に結びつくヒントがF1(フォーミュラ・ワン)にあったことは先に述べた。磯部はその年の秋口頃に石井が発したひと言を今でも覚えている。

K-1という名称を使ったら、まずいですかね?」

F1は中嶋悟が日本人レーサーとして初のシーズンフル参戦したことをきっかけに、87年からフジテレビが放送するようになった。91年の日本GPは中嶋の最後の出場、アイルトン・セナナイジェル・マンセルの熾烈なタイトル争いも絡んだ影響で、録画中継だったにもかかわらず20.8%という高視聴率をマークしていた。

石井は同じフジテレビで放送するコンテンツとして「F1のパクリ」と思われることを恐れたのかもしれない。しかし、石井のこのときの発言は、お伺いを立てるような丁重な物言いだったが、強い意志に溢れていた。磯部は「これで決まったな」とすぐに思った。

石井は「K-1のKは空手、カンフーキックボクシング、拳法、ケンカ......それらすべての頭文字からとったもの」と定義した。また格闘競技の頭文字という意味だけではなく、KNOCK OUTやKINGの頭文字という意味合いももたせた。Kは最強のアルファベットだった。

当時すでにF1以外にアルファベットと数字の1を掛け合わせたイベント名があったことも後押しになった。84年から国内の競馬でG1レースがスタート。その名称からインスピレーションを受ける形で当時新日本プロレスの社長だった″世界の荒鷲″坂口征二は、91年から年に一度の大規模なリーグ戦方式のシリーズ『G1クライマックス』を企画し実施している。

■〝元祖K-1〟『カラテ・ジャパン・オープン』

K-1の名称使用に全く障壁がなかったわけではない。全日本新空手道連盟(ボクシンググローブ着用のうえで顔面殴打を認めた、フルコンタクト系の空手組織)では当時全日本選手権をK-2、地方大会や交流試合をK-3と呼び、92年から始まった『カラテ・ジャパン・オープン』をK-1と定義していた。

この大会は無差別級で争われ、第1回と第2回大会では佐竹雅昭が連覇を果たしている(この時期の佐竹は正道会館主催の全日本選手権に加え、キックボクシングリングス、そしてこの『カラテ・ジャパン・オープン』とさまざまなルールの大会に出場し結果を残していた)。

K-1の土台となった正道会館の石井館長は新空手側に「K-1という名称を使わせてもらっても構いませんか」と打診。了解を得たうえで、正式に『K-1GRAND PRIX』 を発進させた。

『カラテ・ジャパン・オープン』はその後も年1回のペースで続き、96年1月には第5回大会も予定されていたが、規定の出場人数を下回る応募だったため中止となり、翌年以降も開催されることはなかった。

〝元祖K-1〟といえる『カラテ・ジャパン・オープン』は短命に終わったが、現在も続く新空手は参加者のレベルに応じてK-2K-3、K-4のカテゴリー別で争われ、プロキックボクサーの登竜門としても認知されている。那須川天心も武尊もプロデビューする前は新空手の舞台で闘っていた。

いずれにせよ、大会名は『K-1』に決まった。マッチメークは副題に『世界一決定トーナメント』と付いているとおり、プロの顔面ありの試合では史上初となるトーナメント形式を採用しようとしていた。しかし、実は第2案も用意されていた。【つづく】

●布施鋼治(ふせ・こうじ) 
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリングキックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など

文/布施鋼治 写真/長尾 迪

「元祖K-1」といえる全日本新空手道連盟の『カラテ・ジャパン・オープン』の第1回、第2回大会を連覇した佐竹雅昭