福島第一原発の敷地内に並ぶ処理水の保管タンク
福島第一原発の敷地内に並ぶ処理水の保管タンク

福島第一原発で貯蔵している処理水を海に放出する」。日本政府は、かねて決めていたこの方針について、今夏に実施すると発表している。しかし、にわかに周辺国の反発が激しくなってきた。その声を無視してさっさとやってしまうべきか? それとも強行によるデメリットは思いのほか大きい? じっくり検証してみた!

【写真】中国で報じられた海洋放出計画に関するニュース

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■原発処理水問題は中韓の〝外交カード〟に

約1000基のタンクに133万t――。この夏にも福島第一原発処理水の海洋放出が始まる。そのため、国内の漁業関係者や観光業者、さらには周辺国から、トリチウムなど処理水に残存する放射性物質による環境への悪影響を懸念する声が相次いでいる。

特に反発のトーンを強めているのが周辺国の中国(香港を含む)と韓国だ。

韓国では日本との関係改善を急ぐ尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の意向もあって政府・与党は海洋放出に理解を見せているものの、野党や市民グループが猛反発、最大野党の民主党議員が来日して首相官邸前で放出の白紙撤回を叫ぶなど、対日批判のボルテージを上げている。

そして、中国はさらに激しい。中国外務省は「処理水が安全というなら、日本に有効活用を提案したい。海洋放出せず、飲み水やプール水として利用してみたらどうか?」などと、7月だけで実に3度も日本を非難する動きに出ているのだ。

さらに中国はまだ放出が始まっていないにもかかわらず、日本からの輸入水産物を税関に留め置き、放射性検査を強いるという動きにも出ている。こうなると、海洋放出を利用した〝嫌がらせ〟に近い。

中国情勢に詳しいジャーナリストの高口康太氏が言う。

「ここまで激しく日本批判をするのは海洋放出問題を外交カード化させたいという狙いがあるのでしょう。今夏にも日本はアメリカの要求を受け、対中半導体輸出規制に踏み切る可能性が高い。海洋放出問題はそのときに日本を牽制(けんせい)する有力な外交カードのひとつとして使えるというわけです」

韓国の場合はどうか? 韓国紙の東京特派員が解説する。

「与野党の攻防に処理水問題が利用されている傾向は否定できません。来年の総選挙を控え、野党が処理水の海洋放出を容認する尹錫悦政権と与党を叩く絶好の材料として、熱心にこの問題を取り上げているんです。

2008年に李明博(イ・ミョンバク)政権は狂牛病が発生したアメリカ産牛肉の輸入反対デモが影響して、支持率はわずか8%台にまで急落しました。野党が来年の総選挙勝利のためにその再現を狙っていないかと言えばウソになります」

■健康被害を本気で恐れている

ただ、中韓にとってこの問題は単なる「対日批判のカード」かというと、そうとも言い切れない部分がある。原子力市民委員会の座長を務める龍谷大学の大島堅一教授はこう言う。

放射線リスクから公衆の健康を守るためにIAEA(国際原子力機関)が定める安全基準には、放出などを正当化する条件としてすべてのステークホルダー(利害関係者)との協議が必要との一項があります。このステークホルダーとして周辺諸国も明示されている。

中韓の動きを『反日感情を煽(あお)る外交攻勢』と見なす傾向が国内にありますが、こうした中韓の懸念はIAEAも認める正当な権利で軽視はできません」

中国では原発処理水の海洋放出計画に関するニュースが大きく報じられた。写真中央は北京市内にある大型ビジョン
中国では原発処理水の海洋放出計画に関するニュースが大きく報じられた。写真中央は北京市内にある大型ビジョン

さらに、前出の高口氏はこう話す。

「中国の批判がすべて政治マターとは言い切れません。というのも中国の人たちが放射線リスクにおびえているのは事実だからです。自国内でさまざまな健康被害を経験しているからこそ、中国人は食品や日用品に関する安全性には特に敏感なんです。

批判は外交カードに過ぎないと高をくくっていると、水産物だけでなく、ほかの商品にも輸入規制や買い控えが起こりかねません。

実際、海洋放出のニュースが中国国内に流れた今年6月は、同国ではネットショッピングセールの真っ最中だったんですが、日本製品の購買キャンセルが相次いだと聞いています」

■ツッコミどころ満載の「科学的根拠」

こうした内外の批判に対して、政府・東電はIAEAから「放出は国際的な安全基準に合致しており、人体や環境への放射線による影響は無視できる」とお墨付きをもらっており、問題なしと主張している。その内容は次のとおり。

①処理水のトリチウムの濃度は大量の海水で希釈し、1500ベクレルリットル未満に低減される。この数値は国の安全基準の40分の1、WHO(世界保健機関)における飲料水の安全基準の7分の1である。

②海洋放出される放射性物質の総量は年間22兆ベクレル未満。トリチウムを含む原発冷却水は各国でも日常的に海洋放出されており、カナダのブルース原発では年間1090兆ベクレルフランスのラ・アーグ再処理施設では年間1京1400兆ベクレル、韓国の月城原発でも年間17兆ベクレル放出されているが、トリチウムによる健康被害の報告はない。

ただ、精査してみるとこうした政府・東電の言い分は正確性と科学性に欠け、ツッコミどころ満載なのだ。

まずは「IAEAのお墨付き」について検討してみよう。はっきり言ってIAEAが示した包括報告書はIAEA自身が定めた安全基準を満たしておらず、海洋放出を認める科学的根拠としてはあまりに不十分なのだ。前出の大島教授がこう指摘する。

「包括報告書とありますが、IAEAは『包括的なレビューではない』と断っています。

21年に日本が海洋放出を決定したことを受け、海洋放出の決定プロセスがIAEAの安全基準に整合しているかを確認したに過ぎず、モルタル固化(処理水にセメントと砂を混ぜ合わせて固形化すること)による地上保管など、海洋放出以外の処分法はもちろんのこと、海の生態系や漁業への長期にわたる影響についてもIAEAは評価もしていません。

また、IAEA安全基準に明示されている『正当化(justification)』プロセスの評価もない。従ってIAEAのお墨付きが海洋放出の科学的根拠となりえないことは明らかです」

実際、政府・東電は「正当化」プロセスに必要な処理水の海洋放出に伴う便益と損害を比較し、便益が上回るという証明を提示していない。また、やはり「正当化」プロセスが求める「幅広い利害関係者との意見交換」もほとんど行なわれていない。

それどころか、政府・東電は利害関係者である福島県漁連と15年に取り交わした「関係者の理解なしには処理水のいかなる処分も行なわない」という約束を22年11月になって突然、「海洋への放出は関係省庁の了解なくして行なわない」とほごにしている。客観的に見て「正当化」のプロセスは取られていないと考えるのが妥当だろう。

ALPS(多核種除去設備)による処理水にはトリチウム以外の核種はほぼ含まれていないので安心・安全という政府・東電の言い分も、海洋放出問題の知識が広まれば、いずれ国内外から厳しい指弾を浴びるはずだ。

実際にはALPSで浄化した処理水の7割近くはトリチウム以外の危険な核種が混じっているのだ。国際環境NGOの満田夏花(みつた・かんな)事務局長が言う。

ALPSを通せば、トリチウム以外の62種類の核種を除去できると東電は説明してきましたが、実際には骨に蓄積されるストロンチウム90、半永久的に環境中に残るヨウ素129など、多くの放射性物質が排出基準を超えて残留していたことが18年にメディアの報道で明らかになりました。全体として基準値の約2万倍を超える処理水もあったほどです。

メディアの報道を受けて、政府・東電はこうしたトリチウム以外の核種を含む汚染水を『処理途上水』と呼ぶことにし、放出前にALPSで2次処理することでクリーンにするとアナウンスしていますが、62核種の分析評価したのは3つのタンク群で、これは総量130万㎥の水のうち4㎥弱だけなのです。

つまり、どんな核種がどれだけ含まれているのか、30年間以上とみられる海洋放出による放射性物質の総量はどれほどなのか、東電自身もわからない状態です。処理水の海洋放出計画は不確実性の高い、砂上の楼閣のような代物なのです」

こうした状況に、福島第一原発4号機の圧力容器の設計者で国会事故調委員も務めた科学ジャーナリストの田中三彦氏が言う。

「政府・東電は処理水に含まれるトリチウムばかりに世界の注目を集めようとしているように見えます。

ただ、トリチウムは通常運転時の原発の冷却水などにも含まれており、世界には福島第一原発の排出基準である年間22兆ベクレルをはるかに超えるトリチウムを排出する原発がたくさんある。

そこでトリチウムの扱いを強調することで、規制値を超える濃度で処理水に含まれる可能性があるストロンチウム90など、ほかの危険な核種に人々の目が向かないようにし、『日本は他国と同じように原発で発生したトリチウム水を海に流しているだけ』と釈明もできる、と計算しているのではないでしょうか」

危険な放射性物質の管理原則は、1ヵ所での集中管理が基本だ。ところが、政府・東電は海洋放出によって放射性物質を外洋にまで拡散させようとしている。しかも、その「正当性」が担保されていないとすれば、いずれ日本が国内外で批判にさらされるのは確実だろう。

■「海洋放出が一番コスパがいい」説の崩壊

「安くて手っ取り早いから」

政府・東電が海洋放出にこだわる理由を前出の田中氏はそう説明する。

確かに経済産業省トリチウムタスクフォースは16年段階で、海洋放出のコストを期間91ヵ月(処理速度400㎥/日)で34億円と見積もっている。この試算は蒸発方式処分約349億円(115ヵ月)、地下埋設処分約2431億円(98ヵ月)などと比べると格安に映る。

ただ、海洋放出のコストの優位性はもはや崩壊しているようだ。

「その後、海底トンネルなどの放出施設を建設する予算などがかさみ、22年11月に東電が発表したリリースによれば、海洋放出コストは21~24年度の3年間だけで437億円にアップしています。

これに21年末に国が風評被害対策として計上した300億円を合わせると、そのコストは737億円にもなる。放出は30年計画なので、その間のALPSや仮設タンクの維持費などを含めると、コストはさらに大幅アップするはずです。

一方で、処理水をモルタル固化し、半地下で保管する方式なら大幅なコスト削減が可能です。少なくとも海洋放出のコストにおける高い優位性は失われたと考えるべきです」(前出・大島教授)

燃料デブリ(事故で溶け落ちた核燃料が周囲の構造物と混ざり冷えて固まったもの。廃炉作業の最大の難関とされている)の取り出しにメドが立たないことも悪材料だ。福島第一原発1~3号機の燃料デブリの総量は880tにもなる。

しかし、3.11の事故から12年も経つのに、わずか1gの試験的採取も東電は2度失敗している。経産省関係者がこう心配する。

「燃料デブリを取り出せず、原子炉内への地下水流入も減らないとなれば、汚染水は永遠に増え続ける。つまり、廃炉が終わらない限り、処理水の海洋放出は永遠に続くリスクがあるということです。

その間、日本は世界初の原発汚染水の海洋放出を強行したとして世界から白眼視されかねない。そう思うと、ちょっと憂鬱(ゆううつ)になります」

前出の大島教授は「だからこそ、海洋放出以外の処分法を検討すべき」と主張する。

「取り出した燃料デブリを安全に保管するスペースを確保するためにも、処理水を一刻も早く海洋放出して原発敷地内のタンク群を撤去しないといけないというのが政府・東電の言い分です。しかし、デブリ取り出しは不可能。廃炉には100年単位の時間がかかるでしょう。

そうであるなら、デブリの保管スペースは必要ありません。このまま処理水を原発敷地内でモルタル固化などの方法で地上管理し、減衰を待つのが得策です。トリチウム半減期は12、13年。120年も保管すれば、放射線量は1000分の1に減衰します」

前出の田中氏もこう言う。

「30万トン級の中古タンカーを数隻、福島原発沖に係留し、当面そこで処理水を保管するという手もあるかもしれない。ともかく、自国の原発から出た放射性物質は自国内で処分すべきです。政府・東電は海洋放出に固執せず、国内での中長期貯蔵へとかじを切るべきです」

損得で考えると、海洋放出は分が悪い、そう言わざるをえない状況だ。

写真/共同通信社

福島第一原発の敷地内に並ぶ処理水の保管タンク