旧日本軍太平洋戦争末期の戦局悪化にともない、多くの飛行機を特攻機として出撃させました。そうした中、突貫設計で生み出されたものの、戦争には使われなかった機体が今も国内の倉庫に眠っています。

茨城にある知る人ぞ知る国産機

先日、茨城県つくば市にある国立科学博物館 筑波研究施設の理工第一資料棟に保存される、古い飛行機を見学しました。そこは国立科学博物館の収蔵庫となっており、上野の施設で展示されていない収蔵物を保管する場所です。普段は非公開で一般には開放していませんが、日本戦跡協会のご尽力により筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)らは調査研究の目的で特別に許可をもらい、見学してきました。

そこで眼にしたものは、エンジンを外されて主翼と胴体、主脚や尾翼に分解された飛行機でした。これは旧日本陸軍が太平洋戦争末期に開発した軍用機で、キ115と呼ばれる機体です。なお、当時フィリピン防衛軍司令官であった山下奉文大将による「我に剣を与えよ」の演説から「剣」つるぎ)という愛称も付けられており、こちらの名前で知っている方もいるのではないでしょうか。

現物を間近に見ると、かなり痛みが激しく、かつ戦後の補修やパーツの置き換えが行われた形跡も確認できました。この戦後の補修作業で張られた素材から、「物資の無い末期にブリキ板で作られた飛行機」という噂もありますが、鋼材に亜鉛メッキ処理した胴体外板以外はそうでなく、ジュラルミン製の胴体骨格とカウリング、木製の骨組みに羽布張りした主翼や尾翼の動翼などといった、ブリキ板ではないオリジナル素材を改めて確認することができました。

しかし、生産工程を簡略化するために極力円形の断面構造にした胴体や、上反角のないフラットな主翼、前方にしか設けられていない風防(キャノピー)、安定性や操縦性が悪そうな小さすぎる尾翼、貧弱なブレーキ機構でなおかつ離陸後には分離・投下される方式の簡素なパイプ構造の主脚など、お世辞にも高性能な飛行特性を目指した設計や高い水準の工作技術で作られた機体には見えませんでした。

それにしても、なぜこうした飛行機がわざわざ戦争末期の日本で造られたのでしょうか。

一式戦闘機「隼」と同じエンジンを搭載

キ115 「剣」は、中島飛行機(現SUBARU)が設計・製造を担当した、1人乗りの単発エンジン機です。1945(昭和20)年1月に試作が始まり、2か月後の3月に早くも1号機が完成して、審査と量産が並行して行われました。

当初の開発コンセプトは、本土上陸が予想されるアメリカ軍の船舶や上陸部隊に対して、大型爆弾を用いて対艦・対地攻撃を行う、1人乗りの小型高速爆撃機というものでした。そのため胴体下面に半埋め込み式で500kgまたは800kg爆弾1発を懸架する設計で、既存の一式戦闘機「隼」で使用され、余剰在庫となりつつあった1000馬力級のハ115(海軍名称:栄一一型)エンジンを搭載することが計画されます。なお、最高速度は550km/hを予定しました。また、アメリカに残された実機の主翼下面の付け根には、離陸時加速用の補助ロケットブースターの取り付け金具も見られます。

しかし悪化する戦局に間に合わせるため、資材を節約しながら熟練工に頼らずとも短期間で大量生産できることも同時に求められた結果、単純な形状で鋼材や木材を多用した機体構造になります。しかも、戦局が急を告げる状況であったため、試作機を用いた試験は大幅に短縮されるとともに、後の生産性を向上させる目的で、当時の飛行機ではほぼ標準装備であった引き込み式の降着装置も省略し、主脚は投下後に回収する方式へと変更されました。このため同機は、旧日本海軍が開発したロケット機「桜花」と同様に、人間が乗ったまま敵艦に突入する、専用の特別攻撃機であるという説も出ています。

ただ、一説によると主脚のない機体は、攻撃後に草原などへ胴体着陸することで人命の損失を防げるほか、エンジンを回収して再使用する運用法を考えだしたことで、むしろ機体下面の鋼板の厚さを増加する設計に変更したとも伝えられているため、純粋な特攻機ではないのかもしれません。

とはいえ、まともな照準器も搭載されていない簡素な機体では、特攻任務への転用も大いに考えられます。それを裏付けるのは、採用後に予定していた名称です。旧日本海軍は、エンジンをより高出力なハ33(金星)に換装して「藤花」(とうか)と名付ける予定でしたが、この「花」の付く名は前出の「桜花」のように、海軍では特攻機を意味するものでした。

世界にたった2機だけ 幻の軍用機

キ115「剣」は1945(昭和20)年8月の終戦までに105機が生産されますが、日本本土決戦は行われなかったため、本機も未使用で終わりました。しかし実際には、同機の飛行試験では大きすぎる翼面荷重に加えて尾翼面積が過小だったことから飛ぶとすぐに横滑りを起こしたほか、旋回や降下でも不安定な飛行特性であったため、新米のパイロットではまっすぐ飛ばすだけでも至難の業だったそう。そのため、実戦に投入されずに済んだのは幸いだったのかもしれません。

終戦後、「剣」は2機が戦後も残され、1機は調査のためにアメリカに渡っています。この機体は現在、アリゾナ州ツーソンにあるピマ航空宇宙博物館で展示されています。もう1機は1953(昭和28)年までアメリカ軍が駐留する横田基地のロータリーに置かれていましたが、その後は東京や名古屋、大阪などで展示された後に東京都立航空高等学校にて分解された状態でしばらく保管されていました。ただ以後も、イベント展示などでも貸し出されていたようで、筆者も50年前の小学生時代に、読売新聞社主催で大阪・心斎橋の大丸百貨店で開催された戦争展において、同機を直接見た記憶があります。

こうして数奇な運命を辿った国内のキ115 「剣」ですが、現在は前述の茨城県つくば市にある国立科学博物館の資料棟に、エンジンを外し機体も分解された状態で知る人ぞ知るといった感じで、ひっそりと保管されています。

この施設は年に一度、オープンラボの際は一般公開される場合があるので、機会があればこの機体を見学することで戦争末期の日本の状況や、追い詰められていた航空機産業について思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。

終戦後にアメリカ軍によって撮影された「剣」の全体像。縦の楕円形ではなく葉巻きの様な太い円形断面の胴体や小型で直線的な主翼や尾翼、中央の風防がない操縦席やパイプ構造の主脚などが確認できる(吉川和篤所蔵)。