1987(昭和62)年に国鉄は分割民営化され、JR旅客6社とJR貨物になりました。北海道や四国は苦境が続きますが、そもそも分割方法に問題は無かったのでしょうか。分割に至る当時の背景を振り返ります。

苦境がつづく「離島JR会社」

日本国有鉄道が設立されたのは1949(昭和24)年のこと。それから38年後の1987(昭和62)年に国鉄は分割民営化され、そこから早いもので2023年は民営化から36年目。まもなくJR体制は国鉄の歴史を超えるのです。

コロナ禍の外出制限、移動自粛で大打撃を受けたJR各社ですが、本州三社(東日本、東海、西日本)は2022年度決算で黒字に復帰。いわゆる「3島会社」のうち、JR九州は2016年10月に完全民営化を達成し不動産事業の好調をうけ、いち早く2021年に黒字化しました。

一方、苦しいのはJR北海道JR四国です。JR北海道2011(平成23)年頃から事故や不祥事が相次ぎ、経営危機が表面化。2016(平成28)年には国や自治体の支援が得られない場合は全路線の半分を維持できず、廃止せざるを得ないと訴えるに至りました。営業赤字は2009(平成21)年の249億円から年々、増加してコロナ禍真っ只中の2020年度は約805億円、2022年度も約639億円という巨額の損失を計上しています。

JR四国2011(平成23)年に策定した経営自立計画が未達に終わり、2020年3月に国土交通省から2031(令和13)年度までの経営再建を求める指導を受けました。初年度からコロナ禍が直撃して2020年度は約66億円の赤字となりますが、国の支援で2022年度は5000万円の赤字まで持ち直しています。

両社とも19902000年代は新型車両の投入や設備改良を重ねて、高品質の在来線特急ネットワークを構築するなど、経営努力に務めていましたが、高規格道路の整備と沿線人口減少などで追い詰められていきました。

本州三社が好業績をあげる一方で経営危機に陥るのは、そもそもの仕組みに問題があったと言わざるを得ません。では1987(昭和62)年の国鉄分割民営化の枠組みはどのように決められたのでしょうか。他の選択肢はなかったのでしょうか。

分割の参考になったのは電力会社

国鉄分割民営化の議論は、1980(昭和55)年に成立した「国鉄再建法」のもと行われた運賃値上げや人件費削減、赤字ローカル線の廃止などを中心とする再建計画と並行して始まりました。

1981(昭和56)年に発足した「第二次臨時行政調査会」は行財政改革の一環として国鉄、電電公社、専売公社の民営化を議論し、「国鉄を7ブロック程度に分割」「分割は答申後5年以内に速やかに実施する」「当初は国鉄現物出資の特殊会社とし将来逐次持株を公開し民営化を図る」など経営形態の変更を答申しました。

ここで興味深いのは、民営化からの分割ではなく「分割からの民営化」を基本線として進んだということです。これを後押ししたのは「経営形態は単に民営化にとどまらず、分割してこそ『国鉄再生』はある」と主張した元運輸官僚の交通評論家・角本良平といわれています。

角本は臨調のヒアリングに対して「地域に密接した判断を可能にさせるためには、地域分割が必要である。九電力程度でも少し大きすぎる」と述べています。「九電力」とは1951(昭和26)年に電力国家管理体制を再編し、東京電力関西電力などお馴染みの民営電力会社9社を設立した事例を指しており、国鉄民営化にあたっても参考とされました。

角本案が9以上とした分割法が答申では7ブロック程度になったのは、臨調の中心人物である瀬島龍三とパイプを築いていた、JR東海名誉会長の葛西敬之(故人)の影響が大きかったようです。

彼は自著で最終的な旅客6社分割案は「1981年、私が第二臨調担当調査役として着任してすぐ、少人数の非公式研究会をスタートさせた時点で描いた分割方法と基本的に同じであった」と述べており、議論の流れをリードした可能性があります。

一方、JR西日本元会長の井手正敬は若手管理職との私的な勉強会で、分割民営化は実現可能かなどを議論して「本州9分割を含む全国13分割の再建案」をまとめていたようで、様々な考え方があったのは確かでしょう。

分割民営化論に反対する国鉄「守旧派」はどのように考えていたのでしょうか。ジャーナリストの牧久によれば、彼らはレールがつながっている本州・九州の非分割さえ守られれば、「北海道、四国については国の政治的判断で分離・独立もあり得る」と考えており、田中角栄もこれに同意していたといいます。

建設中の青函トンネル、本四連絡橋が完成すれば北海道・四国ともレールはつながるはずで、これをどのように考えていたのかは分かりませんが、鉄道の地位が低下する中で、もはや国鉄単体では北海道と四国を支えることはできないと考えていたのかもしれません。本州の分割の仕方はいくつかの議論があっても、どの立場にも共通するのは「北海道と四国を切り離す」ことでした。つまり分割が浮上した時点で、JR北海道JR四国の誕生は既定路線だったということになります。

北海道の鉄道を救うはずだった「葛西プラン」とは

ではこれをもっとうまく支えることはできなかったのでしょうか。分割民営化の旗手とされる葛西は後に、改革は国会審議を意識した様々な妥協が織り込まれた「未完のものである」と述べています。

というのも結局実現することはなかったものの、本来は「JR北海道輸送密度が少ないから、当然、一人当たりの輸送コストは高くなる。したがって、運賃は高くすべきだ。住宅費や食費も含めた生活費は地価や物価を反映して、東京よりもずっと低い。したがって、賃金は地場の水準並みに下げるべきだ。極端に輸送密度の少ない路線は果断に廃止して、自動車輸送に委ねるべきだ」というのです。

実際にはその代わりに「国鉄債務負担を免除した上に総額1.3兆円の経営安定基金を与え、その運用益で赤字を埋める」という現行の仕組みとしたのですが、金利低下で赤字を埋めきれなくなり、運賃値上げ、赤字路線廃止が進んでいます。重要なのは、どちらの道を選んだところでJR北海道JR四国は同じ現実に直面したということです。

とはいっても、2018年度にJR上場4社は計1.1兆円以上の経常利益を計上しているのに対し、JR四国JR北海道の営業赤字は計540億円、経営安定基金を加味した経常損失は114億円にものぼっています。もっと効果的な地域を越えた内部補助の仕組みを作ることはできなかったのかと考えさせられます。

1981年臨調の答申には「分割・民営化に当たっては、分割後の各会社が経営努力をし、創意工夫をすれば、採算性を回復し、自立できるという目途と自信を持ちうるように配慮する必要がある」とありますが、これを実現できる分割方法だったのか、今だからこそ考え直す必要があるのではないでしょうか。

JR北海道の気動車(画像:写真AC)。