代替テキスト
2015年4月、ペリリュー島の「西太平洋戦没者の碑」に供花された上皇ご夫妻(写真:共同通信

いにしえより、五穀豊穣と国家安寧を祈願してきた天皇家。1945年8月15日、国民が玉音放送に涙を流し、“敵機”の消えた空を仰ぎ見たあの日以来、平和希求は皇室のもっとも重要な責務となった――。

日本武道館などでの追悼式で、慰霊碑の前で、かつての戦地で、そして御所で……、78年にわたり皇室により捧げ続けられてきた黙禱。その真摯な祈りは、内親王・愛子さまの胸にも確かに息づいている。

《あの日は青空だった 蝉しぐれを聞きながら 母さんとぼくは 床の間のある部屋に 正座していた 神棚の横には 真空管ラジオが 鎮座していた 玉音放送の意味は 三歳のぼくには 理解できなかった しかし もう空襲はないねと 母さんは言った》

これは昨年9月15日付の産経新聞に掲載された静岡県在住の男性・安藤勝志さんの詩だ。1945年8月15日正午、昭和天皇による玉音放送が流れ、国民は日本の敗戦を知る。

戦火で家族を失い、やるせない思いを抱きながらも、本土の人々は空襲におびえる日々が去ったことに安堵したという。

安藤さんのように玉音放送を、アメリカの爆撃機戦闘機の脅威を感じることなく、見上げることができるようになった青空とともに記憶している人も多い。それから78年、今年も日本国民、そして天皇家の“祈りの夏”が巡ってきた──。

8月15日には日本武道館で『令和5年度全国戦没者追悼式』が執り行われ、天皇陛下と雅子さまが出席されます。『全国戦没者追悼式』が初めて開催されたのは、1952年5月2日昭和天皇と香淳皇后が揃って出席されました。

1963年以降、追悼式は毎年8月15日に行われています。また1982年から、8月15日は“戦没者を追悼し平和を祈念する日”と位置付けられることになったのです」(皇室担当記者)

「全国戦没者追悼式」は政府主催だが、第1回より歴代の天皇皇后両陛下が臨席されており、正午から1分間の黙禱の後には、天皇陛下が追悼のお言葉を述べられることも慣例となっている。

皇室の近代史に詳しい歴史学者で静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう語る。

「戦後78年、日本の平和は多くの国民の願いでした。そして“皇室の祈り”が、そうした国民の願いを強く支えてきたのです。天皇陛下をはじめ皇族方が、折々に平和の尊さについて言及されています。そうした皇室が続けている祈りがなければ、国民の平和への願いはもっと弱いものになっていたかもしれません」

今回の「シリーズ人間」は、天皇家に受け継がれてきた“平和の祈り”の原点、そして未来について取材した。

■「最もつらく、悲しかったことは、第二次世界大戦」、復興を見守り続けられた昭和天皇

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す……」

4分あまりの玉音放送(終結ノ詔書)が流れた後、皇居前広場では号泣し、正座してうつむく国民がいるいっぽう、一部で「万歳!万歳!」という声も上がったという。

木戸幸一内大臣(当時)は覚書にこう記している。

《国民が絶望的な戦争に堪へきれず、如何に平和を望んで居たかが如実に示された様に思はれた》

終戦当時、44歳だった昭和天皇も側近の木戸内大臣と同じお気持ちだったのではないだろうか。

皇太子時代の欧州訪問で第一次世界大戦の戦禍の跡を目の当たりにした昭和天皇は、国際平和の大切さを常に心に抱いていました。

しかし、国際情勢の変転や、国内情勢の悪化が重なり、平和への思いは次々と打ち砕かれていき、最終的には太平洋戦争の開戦決定を自ら下すことになったのです。

その結果、諸外国の人命や財産、そして多くの自国民の生命を損なうことになりました。 昭和天皇は極東国際軍事裁判の被告席に座ることはありませんでしたが、国内外から責任を追及されました。生涯、そうした声に真摯に向かい合い続けたのです」(小田部さん)

終戦翌年の1946年から1954年まで、昭和天皇は米国の占領下だった沖縄県をのぞく全都道府県を訪れる、いわゆる“戦後巡幸”に臨まれた。

「おもな目的は、慰問と復興状況のご視察です。特に戦争被災者、海外からの引揚者、引揚者が入植していた開拓地への慰問の機会は多く、昭和天皇が“戦争による犠牲者”に対して、強く責任を感じていらしたことが伝わってきます」(前出・皇室担当記者)

戦後巡幸2年目の1947年12月、昭和天皇は原爆が投下された広島県をご訪問。原爆の傷痕を残す中学校の授業などを視察されたり、病院で被爆者を慰問されたりした。

《ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり》

原爆ドームの近くを車で通りかかった際に平和の鐘が鳴ったという情景を詠まれた御製(和歌)だ。

戦後巡幸終了から21年後の1975年10月、昭和天皇は記者会見で、在位中にもっともうれしかったことという質問に、こうお答えになった。

「終戦後、日本国民が努力して立派に日本の復興ができたということがいちばんうれしく感じる。(中略)最もつらく、悲しかったことは、第二次世界大戦

後半生をかけて日本の復興を祈り続けた昭和天皇が崩御したのは1989年1月。

1988年夏には、那須御用邸に滞在されていました。前年に腸の通過障害のためバイパス手術を受けており、手術前から体重も激減し、体力も低下されていました。それでも8月15日の『全国戦没者追悼式』には『ぜひ出席したい』と希望されたのです」(前出・皇室担当記者)

車での移動はお体への負担になるということで、昭和天皇ヘリコプターでご帰京。式典中の壇上では、侍従長がそばに控えなければならないほど、周囲がご体調を心配するなかでのご出席であり、これが87年の生涯で最後の公式行事へのご臨席となった。

■国内だけではなく海外へも。慰霊の旅をライフワークにされた上皇ご夫妻

「日本では、どうしても記憶しなければならないことが四つあると思います。(終戦記念日と)昨日の広島の原爆、それから明後日の長崎の原爆、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日、この日には黙禱を捧げて、今のようなことを考えています。そして平和のありがたさというものをかみしめ、また、平和を守っていきたいものと思っています」

1981年8月7日、当時は皇太子だった上皇さまは、記者会見でそう語られた。これが“皇室にとって忘れてはならない四つの日”が、人々の心に刻み込まれた瞬間となった。

皇室ジャーナリストの久能靖さんは、

「沖縄では激しい地上戦が行われ、多くの住民も犠牲になりました。また昭和天皇はご生前、沖縄ご訪問を強く希望されていましたが実現しませんでした。それだけに上皇さまも沖縄への強い思いを抱かれていたのです。

最初のご訪問は1975年、本土復帰から3年後のことでした。現地には複雑な感情が残っており、過激派も次々と沖縄に乗り込んでいました……」

ご学友のなかにも「とりやめるべきです」と、進言した方もいたそうだが、上皇さまはキッパリと語られたのだ。

「だから僕は行かなければならないのだ。石ぐらい投げられてもいい」

ご学友の進言は杞憂ではなかった。7月17日、上皇さまと美智子さまが、ひめゆりの塔で慰霊の供花をされた後、火炎瓶が投げつけられたのだ。皇室ジャーナリストの故・松崎敏彌さんは、かつてその恐怖の瞬間のことをこう語っていた。

火炎瓶は、捧げられた花束に当たって、ドンッという大きな爆発音がし、続いて、目の前で4~5メートルの火柱が立ちました。居合わせた人々がパニックになるなか、お二人だけは冷静でした。

ひめゆりの塔の案内をしていた女性を気遣うばかりではなく、『皆さん、おけがはありませんか』と、東宮侍従や警備、そしてわれわれ記者にも、お声をかけてくださいました」

上皇さまと美智子さまは、その後の日程をすべて予定どおり済まされただけではなく、夜には異例の談話を発表された。

《私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともども力を合わせて努力をしていきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません》

「この夜の談話がきっかけとなり、沖縄の人々の皇室への気持ちが大きく変わっていったのです」(久能さん)

身を挺して沖縄の人々の信頼を得たように、“平和を人任せにしない”のが、上皇ご夫妻が貫かれたご姿勢だった。それを象徴するのが、次の美智子さまのお言葉だろう。

「平和は、戦争がないというだけの受け身な状態ではなく、平和の持続のためには、人々の平和の真摯な願いと、平和を生きる強い意志が必要ではないかと思います」(1994年、ご訪米を前に外国記者質問への文書回答より)

そうした強い意志をもって臨まれたのが、ご夫妻のライフワークともいえる“慰霊の旅”だった。

「上皇ご夫妻は国内だけではなくミクロネシア連邦など、海外での慰霊を行いたいという強いご希望をお持ちでした。

大型機の着陸ができるような飛行場がないなどの理由で一時は断念されたのですが、2005年についにサイパン島への慰霊訪問が実現。慰霊だけを目的とした外国ご訪問はこれが初めてでした」(久能さん)

さらに10年後の2015年、パラオのペリリュー島に向かわれる。当時、上皇さまは81歳、美智子さまは80歳。

「ペリリュー島は珊瑚礁でできた小さな島で、周囲の海も常に穏やかなわけではないのです。とても高齢のご夫妻に高速艇に乗っていただくというわけにもいかず、港外に停泊した海上保安庁巡視船に一泊していただき、そこからヘリコプターでペリリュー島に向かっていただくことになりました」(久能さん)

上皇ご夫妻は、島の南端に日本政府が建立した西太平洋戦没者の碑に、日本から持参した菊の花束を供え、黙禱された。当時、島を訪れていた遺族はこう語っていたという。

「(上皇ご夫妻が)わざわざ慰霊のためにこの島に来てくださったことで、亡くなった方々もさぞ喜んでいることでしょう。遺骨を探し出すことはもう無理でも、魂は一緒に連れて帰ります」

上皇ご夫妻が慰霊を終えられて、ペリリュー島から戻られる途中、スコールの降ったあとの青空には、見事な美しい二重の虹がかかった――。

【後編】「平和は人任せにしない」愛子さまに受け継がれた“天皇家・反戦の祈り78年”へ続く