東京における2本目の地下鉄路線は丸ノ内線ですが、戦前から計画され10年ものブランクがありました。その間、東京メトロの前身「交通営団」は、何度も消滅の危機に瀕していました。

東京メトロの前身「交通営団」最大の危機

東京メトロの前身である「帝都高速度交通営団」が設立されたのは太平洋戦争開戦の5か月前、1941(昭和16)年7月4日のことでした。その狙いは民営2社が運行していた地下鉄を、政府と東京市(当時)、郊外私鉄が出資する半官半民の交通営団に移管することで、さらなる整備を促進しようというものでした。

交通営団は設立後、さっそく現在の丸ノ内線とほぼ同じルートの地下鉄建設に着手しますが、工事はほとんど進まないまま戦況の悪化で中断。結局、1mもトンネルを掘れないまま終戦を迎えました。地下鉄建設を再開するのは1951(昭和26)年になってからのことで、『営団地下鉄五十年史』は、この時代を「雌伏の十年」と表現しています。

しかしこの10年、実は雌伏というにはあまりにも激動でした。日中戦争勃発後の総動員体制において「空襲下でも運行可能な交通機関」として地下鉄建設を推進する目的で設立された背景から、戦後、厳しい目が向けられることになりました。特に後半の5年間は、存続の危機の連続でした。

まずは占領軍総司令部(GHQ)です。1946(昭和21)年1月に戦争協力者の公職追放、同年8月に各種統制団体の解散を命じ、交通営団も調査対象にリストアップされました。ところが、住宅営団・食糧営団・交易営団・産業設備営団など各種営団が即時廃止されたのに対し、交通営団だけは存続を許されたのです。

明確な理由は示されていませんが、他の営団が戦争遂行上必要な統制経済を補助する組織だったのに対し、交通営団は地下鉄の整備拡充を目的とする「公共性の強い企業体」であり軍事目的ではなかったからだ――と交通営団自身は主張しています。

GHQは戦時体制と不可分の統制団体を認めない一方で、「民主的に運営される同業組合の設立及び運営を監督すること」を指示しており、政府と東京市大手私鉄が出資して設立された交通営団は、これに合致する組織と判断されたのかもしれません。

「地下鉄奪還!」東京都の猛烈な「消滅工作」が営団を襲う

しかしGHQ以上に「交通営団廃止論」を主張したのが東京都です。元々、東京の地下鉄網は「東京市が主体となって整備する」計画で、1925(大正14)年に策定された地下鉄5路線のうち4路線は、市に免許が与えられました。その後財源不足で着工できず、結局は民間会社に免許を譲渡してしまいました。

戦中の交通営団設立をめぐる議論でも東京市地下鉄の「市有市営」を主張しましたが、この「免許がありながら全く建設できなかった」事実を指摘されて退けられました。しかし戦争が終結し、戦前戦中に設立された各種統制団体が順次、解体されたことから、東京都はイニシアチブを奪還すべく「非民主的な交通営団も解体すべき」と主張したのです。

たしかに、都市計画と一体的に建設できること、道路管理者と一体であること、資金調達の面で有利であること、路面交通(路面電車・バス)と一体的に経営すべきであることなど、完全に公営の地下鉄にはメリットがあります。それゆえ実際、その後に東京以外で整備された地下鉄はいずれも市営でした。

都は1946(昭和21)年8月の東京地方特別都市計画委員会で「地下鉄は都において建設すべし」との希望条項を提起し、8対3の多数で可決されています(反対は運輸省と交通営団)。都議会は9月12日地下鉄都営実現に関する意見書を決議し、GHQに「地下鉄買収」の陳情を開始。翌10月には1947(昭和22)年以降3か年で新宿~赤坂見附間、池袋~万世橋間を建設する「都営地下鉄建設計画」を立案しました。

こうした動きを受けて運輸省衆議院議員5人、運輸省5人、東京都5人からなる地下鉄問題協議会を設置し、検討を開始します。議員と東京都、さらに都市計画を管轄する内務省が都営案を支持したことから、「帝都高速度交通営団法廃止に関する法律案」が取りまとめられました。1946(昭和21)年10月25日朝日新聞は「地下鉄の買収協議 大勢は都営実現へ」と報じており、世間も都営が優勢と見ていたことが分かります

しかし運輸省は、戦災復興事業を抱える都に地下鉄を建設する余裕はないこと、政治的に地下鉄の建設が左右される可能性があること、かつて免許を有しながら地下鉄を建設できなかったこと、地下鉄建設の経験と技術に欠けていることなどを挙げ、都営案に強硬に反対しました。

結局、交通営団廃止法案は国会に上程すらされず、『都営地下鉄建設史』はこれを「闇に葬られた」と表現していますが、一方の『営団地下鉄五十年史』は「この時点での東京都による営団廃止の動きは、政府の反対により実現するところとならなかった」とサラリと記しています。

あとは地下鉄をつくる「資金」が必要だ!

こうして政治力で半ば強引に存続が決まった交通営団でしたが、地下鉄建設に着手できないと再び廃止論が台頭しかねません。最大の問題は建設資金の調達でした。

もともと交通営団は資本金6000万円の10倍まで交通債券の発行が認められており、これで全路線の建設費をまかなう計画でしたが、これは戦前の貨幣価値。すでに物価は大幅に上昇しており、第1期線の池袋~神田間だけでも必要な建設費は「41億円」となっていました。これでは交通債券だけで到底まかなえません。

そうした中、1949(昭和24)年4月にアメリカの対日援助相当額を国が積み立てた「対日援助見返資金」の貸付制度が発足し、総額1000億円の貸し出しが決まると、交通営団はさっそく交付を申請しますが、GHQは難色を示します。「地下鉄建設のような長期かつ安定的な事業は、永続性のない資金に頼るべきでない」との見解でした。

そこでGHQが提案したのが、政府が計画していた「資金運用部」の資金の活用です。これは郵便貯金や年金などを原資として公的機関に貸し付ける制度で、もので、1951年に設置され、2001年廃止となり、現在は財政投融資として運用されています。ここから融資を受けるには民間の出資を受けていない必要があるため、1951(昭和26)年に営団法を改正し、私鉄など民間からの出資をすべて買い入れ、出資者を政府(日本国有鉄道)と東京都に限定します。

これで公共団体と認められ、無事「資金運用部資金」から建設資金を確保。地下鉄建設の準備が整い、丸ノ内線の建設に着手するのでした。

この激動の期間に1946(昭和21)年から1961(昭和36)年まで3代目総裁を務めた鈴木清秀は、戦前は鉄道省で交通営団の設立に尽力し、戦後は交通営団を廃止の危機から救い、地下鉄建設を始動させたことから「営団地下鉄の創業者」とも称されます。

1954年に戦後初の新路線として開業した地下鉄丸ノ内線(画像:東京メトロ)。