1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏し第二次世界大戦は終わりますが、日本海軍の生き残った艦艇には、その後も任務が与えられたケースが存在します。

わずかに残った艦艇のその後

1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏し第二次世界大戦は終わりますが、このとき日本海軍に残っていた艦艇は、戦艦、空母、巡洋艦などの主力艦のほか補助艦艇である駆逐艦潜水艦、さらに海防艦などの小型艦艇を合わせてもわずか150隻といわれています。開戦時に海軍は、主力艦と補助艦艇だけでも230隻を超える数を保有していたので、絶望的といえる状況です。

この生き残った艦艇の中には、戦後も国内外で様々な任務についた艦艇があります。その中でも有名な艦艇を3隻を紹介します。

日本海軍に唯一残された戦艦「長門」

1919(大正8)年11月9日に進水した戦艦「長門」は、戦後に「大和」が有名になるまでは、日本で一番知られる軍艦であり、長らく連合艦隊旗艦として海軍の顔でもありました。一時期は同型艦の「陸奥」、イギリスネルソン級「ネルソン」「ロドニー」、アメリカのコロラド級「コロラド」「メリーランド」「ウェストバージニア」と共に「ビック7」とも呼ばれました。

戦時中はミッドウェー海戦や、マリアナ沖海戦にも参加しましたが、戦闘には参加することはなく、1944(昭和19)年10月20日から25日まで行われたレイテ沖海戦が初の敵艦隊との砲火を交えた任務になります。この海戦で「長門」は、空母艦載機による波状攻撃を受けるも致命的なダメージは負わずに、敵の護衛空母艦隊を相手に主砲発射も経験します。

以後は旧海軍の消耗が限界に達し、艦隊単位の行動をとれなくなっていたため、戦艦でありながら人員輸送や給油活動をするという状況に。1945(昭和20)年7月18日には横須賀で空襲に合い、爆弾が命中し艦橋が破壊されますが、そのまま修理されることなく終戦を迎えます。

終戦の時点で「長門」は海軍が保有していた戦艦の中で、唯一航行が可能な艦となっていました。1945(昭和20)8月30日にはアメリカ軍が接収。1946(昭和21)年3月18日にはアメリカ軍核実験である「クロスロード作戦」に標的艦として参加するため、ビキニ環礁に送られました。

「長門」は同年7月1日の実験は耐えたものの、25日に行われた2度行われた実験では核爆弾の水中爆発により、7月28日深夜から29日未明にかけて浸水し沈没しました。

ちなみに、長門の軍艦旗に関しては接収時にアメリカ海軍軍人が持ち帰りましたが、後に発見され、俳優の石坂浩二さんが1千万円でアメリカから買い戻し、現在は大和ミュージアムに展示されています。

日旧海軍屈指の強運艦として台湾海軍でも働いた駆逐艦「雪風」

1939(昭和14)年の3月24日に進水した「雪風」は、戦時中にアメリカを相手にした主要な数々の海戦に参加するも大きな損害を受けず、戦いぬいた駆逐艦です。

初陣は1941(昭和16)年12月、フィリピン中部のレガスピー攻略の上陸作戦支援でした。その後、インドネシア、ミッドウェー、南太平洋ガダルカナル、マリアナ、レイテと各地で戦火を交え、1945(昭和20)年4月7日戦艦「大和」の海上特攻にも参加、ここでも他の沈没艦艇の生存者を収容して生き延びます。

終戦になると、ほぼ無傷だった「雪風」は復員船として太平洋各地の島に散らばった復員兵の収容に向かいます。このとき、片腕は失ったものの幸運にも生き延びた、後に『ゲゲゲの鬼太郎』などを生み出す漫画家・水木しげるさんもラバウルで収容しています。

復員船としての任務終了後は、戦争賠償艦として当時の中華民国に引き渡されます。名を「丹陽(タンヤン)」に改めたのち、中華人民共和国中華民国との国共内戦に参加。1959(昭和34)年8月3日には中国人民解放海軍艦艇2隻と交戦し、1隻を撃沈しています。

1965(昭和40)年12月16日に退役し、一時は里帰りの可能性も噂されていましたが結局、解体され、1971(昭和46)年12月8日に舵輪と錨が日本に返還されました。

現存する唯一の旧海軍艦艇で南極観測船の「宗谷」

ソ連向けの耐氷型貨物船として建造され、紆余曲折を経て、旧日本海軍の特務艦「宗谷」として戦争を戦います。

「宗谷」は「雪風」と同じく戦時中の日本艦艇の中でも幸運な船として知られます。1942(昭和17)年の1月にトラック諸島でB24の空襲を受けますが、無傷でこれくぐり抜けたほか、1943(昭和18)年1月28日には、南太平洋のブカ島(現パプアニユーギニア)クイーンカロライン沖で敵潜水艦に魚雷を発射されるも不発で助かったエピソードなどもあります。

さらに1944(昭和19)年2月17日と18日のトラック島空襲では、座礁し総員退艦の命令が出て一時放棄されますが、空襲後はなぜか離礁して浮いており、艦を確認しに戻った乗組員を涙させたそうです。

終戦は日本本土で石炭輸送船として迎え、引き揚げ船としても使用されますが、その後、同艦には大きな仕事が与えられることになります。南極観測です。1955(昭和30)年11月、新造船を作る余裕のない日本政府は、当時は海上保安庁所属だった「そうや」を南極観測船「宗谷」に改修し、航海に出します。

この南極観測船に抜擢されたのには、砕氷機能がある貴重な船だったというほかに、どんな過酷な環境でも、「宗谷」ならきっと帰ってきてくれるという、運の良さも理由になったといわれています。なお、2023年現在も「宗谷」は、旧海軍に軍籍があった艦艇の中で唯一“船”として残っています。それ以外では、工作物扱いの戦艦「三笠」しか旧海軍の艦艇は日本に現存しません。

戦艦「長門」(画像:アメリカ海軍)。