ヘモグロビンA1c14って即死だよ。そんなコメントをいただいた。そうなんですか。15も16も、20も、100も測定器が出せばあると思っていました! 。主治医に聞いたところ、その病院は、13.9までしか測れないので、検査を受けた病院が14出してくれたからここにいるのよとも言われた。とにかく、14が出て、その足で専門病院に行って「このまま入院です」と言われてもまったくピンとこなかった(一型糖尿病の方は、入院道具さえ取りに帰れないこともあるという)。

 在宅介護していることもあり、入院期間も明確には出ていなかったので、1週間の猶予を無理やりいただいた(毎日、今日入院でもいいですよと電話はきた)。親の薬をあちこちの病院からもらってきて調合して、さらに親を美容院に連れて行って、6日間で用事は終わった…しかしラスト一日「確実に糖尿になったら、とんかつ食べられないから」と、夫も糖尿病の合併症で亡くなっているにも関わらず、とんかつ屋に連れていかれた時はもう殺してくださいだった。その晩、心臓がつった。心臓もつるのだね。

 翌朝ショートステイに預けて、徒歩2分の病院に入院した。その日からインシュリンは始まったし、食事が「これだけか!」と外来が営業している時間帯は自販機に行けない。それ以外は、ベッドの上で安静だった。空腹時血糖値が400くらいあり、なかなか下がらなかった。

 さて。父は、30歳くらいで糖尿を発症している。考えてみれば血圧で亡くなったと言われる祖父も症状からして糖尿だったと思える。うちの場合は家族病。

 母も祖母も、薄味の本当に素材の味がわかる料理を用意していたのだが、父は帰ったその足でお向かいにあったすし屋で食べていた。毛細血管からやられていった。夜中に洗面器いっぱいの吐血をよくした。ただそれは出血のごく一部で、胃腸に出血が蓄積していて、40歳の時大量吐血血便で救急車搬送。 開腹手術を受けた。同時にインシュリンが始まったものの、2か月後に仕事に復帰し、出張も再開すると打たなくなった。昭和末期、まだ一体ペンシル型のインシュリンではなく、アンプルだった。4年後、糖尿性の白内障手術を受けた。その1か月後脳梗塞を起こした。リハビリをしなかったために左半身不随で固まってしまった。翌年、人工透析開始。父は別の女性と暮らしていたので、水分制限のある人工透析になっても、好きなだけ水分はとった。徐々に末端壊死が始まり、指等の切断が始まった。別に暮らしているというのは、傍観者でしかなかった。55歳。左足切断を言い渡され、それを回避しようと転院した病院で、転院四日後、糖尿病の合併症のフィニッシュ突然死で亡くなった。病院にいたのに、亡くなって3時間ほど誰にも発見されなかった。

 この父の体験が、入院中の私を襲った。がんを3回もしているのに、糖尿病の方が怖かった。

 ヘモグロビンA1cがよくわからなかった。調べればよかった。数値が6の時点で入口に入ったことになり、6.5で糖尿病に認定される。

友人の夫や父親は、8程度で薬も飲まずに野に放たれている。傷は治りにくい。

 入院は19日間。食事の見直しはさして苦ではなかったが、なかなか運動が伴わない。年内に5.7まで下げて、下げ過ぎと叱られたが、今は6程度だ。もう甘い飲み物は気持ち悪くて飲めない。でも、のどの渇きは相変わらずで、一日中水をちょこちょこ飲んでいる~そして夜中は過活動膀胱になっている。

 のどが渇けば、何かを飲むのは当たり前の行為だ。しかし、ペットボトルではなく、容量のわかるカップで把握し、水中毒にもならないように気を付ける。

 そうか、あの時、死ぬラインに立っていたのね。コメント、ありがとうございました。

ペットボトル